3.少年と少女の恋
タタタと軽やかなステップの音を響かせ、アシュリルは楽しげに階段を駆け下りていた。
下りとはいえ、決して短くはない距離。
それを、苦に思うどころか、寧ろ嬉々(イソイソ)と足を運んでいる彼女は、その小さな顔いっぱいに期待の色が浮んでいる。
「こんにちはー。」
獅子宮まで辿り着いたアシュリルは、慣れた手付きでプライベートルームの扉を開ける。
そして、そっと中の様子を伺うが、返事はなかった。
だが、それもいつもの事。
アシュリルは小さく肩を竦めた後、引き返す事なく、そのまま中へと入って行った。
「やっぱり今日もお留守ね。」
それもそうだ。
今は午前十時という非常に中途半端な時間。
この宮の主であるアイオリアは、休日でもない限りココにはいない。
任務か修練か、はたまた教皇宮での執務に当たっているか。
二日に一度、こうして訪れてはいても、彼と会える機会はそうそうなかった。
確実に会いたいのなら時間をズラせば良い。
そんな事くらいはアシュリル自身、ちゃんと分かっている。
だが、あえてこの時間に訪れているのには理由があった。
アシュリルが手にしているバスケット、その中に隠されている焼きたてのパン。
食べた者、皆が口を揃えて「美味い!」と絶賛する、それは聖域一のパンと言っても過言ではない。
それを兄であるシュラ以外、他の誰にも分け与えたりはしていない。
頼まれたとしても、全てお断りをしている。
それをだ。
アイオリアにだけは、こうして届けていると知れたら、どうなるか……。
アシュリルの事を責める者はいなくとも、アイオリアを責める者はいるだろう。
特にデスマスクとミロは、不公平だと強く訴えてくるに違いない。
そうなれば、もうこのパンを彼に食べて貰える事はなくなってしまう。
そして、パンを口実に獅子宮まで足を運ぶ事も出来なくなるだろう。
獅子宮より下にある巨蟹宮は兎も角、ミロのいる天蠍宮は、必ず通り抜けなければならない場所。
途中でミロに見つかるリスクは高い。
だからこそ、アシュリルは黄金聖闘士達のいない、こんな中途半端な時間を狙って、こうしてパンを届けに行っていた。
そのためにアイオリア自身と会える機会も格段に減ってしまうのだが、それでも十数回に一回くらいの割合で休日の彼に会う事は出来る。
それに、例え会えない日が続いても、このパンをアイオリアが美味しいと思って食べてくれる。
そう思うだけでアシュリルは嬉しかったし、何より幸せだった。
そんなささやかな事だけで幸せになれる程の、初々しい恋をしていた。
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