黄金色に光るその宝石を確かめるように手を伸ばして冷たいその感触を
駅への階段をかけ登る。最後の一段を踏み込もうとした時、私は「しまった!いつもの調子ならこの階段で転ぶ!」と身構えた。私の朝はいつもそうで、急いでいる時には階段を踏み外すし、改札は通れないし、電車の扉に挟まれる。反射的に目をつぶった私の体は宙には浮かない。私はしっかり階段の最後の段に足の裏を付けていた。なんだか今日は調子がいいかも。私は少しだけ口元を緩め、スムーズに改札を通った。

1番線には4分発の電車が到着している。階段を降りようとした私は立ち止まって赤いあの人の言葉を思い出した。

「次の4分の電車には乗らずに、3番線から7分の電車に乗った方がいいよ」

1番線の階段を降りかけていた私はもう一度、下ってきた階段を登り直す。そして3番線のホームに着くと、丁度7分発の電車がやってくる頃だった。

小さい頃の妙な思い出から、私の中で赤い色はヒーローの色。風にいじめられ泣きべそをかいていた私の頭を優しく撫でてくれた。それから赤い色は私の中でちょっとしたラッキーカラーになっていて、赤い色がある時は不思議と心が軽くなった。

電車が目の前に止まると扉が開く、降りていく乗客を見送ったあと電車に乗り込み、扉の近くのスペースに背中を預けた。ふと、右手に何かを握っていることに気づき、少し汗ばんだその手のひらをそっと開いた。その手には赤い折り紙で折られた鶴が羽根を畳んでいて、私の右手で休む小さな鶴を左手の人差し指でつんとつついた。

「お兄ちゃんが助けてあげる」

そんなこと以前にも言われたような気がする。幼い私の正義のヒーロー。その拙い記憶が私の頭の中でぼんやりと揺らめいていた。

赤い鶴を両手の指先でそっとつまんで、観察すると羽根のあたりにペンで引っ掻いたような線が見える。その線を辿りながら破かないようにそっと優しく鶴を開いた。1枚の折り紙になったその鶴の白いお腹を見るとそこには「松野探偵事務所 お悩みの時はご連絡を。」そして最後に電話番号、住所が記されていた。ボールペンで書かれたその文字を指でなぞって一文字一文字見つめる。それから私はまたその折り紙を大事に折り込んで鶴に戻すと制服のポケットにしまった。

あの人がくれた赤い色になんだかとても安心した。しまった鶴を確かめるように、ポケットの上からそっと撫でる。今日はいい日になるといいなぁと呑気に流れる景色を見ていた。

学校に着くと予鈴ギリギリの時刻なのに教室はなんだかガラリとしていて、人気がない。不思議に思いながら自分の席に座ると、隣で話していたクラスメイトたちがこちらを向いて話しかけた。

「ねえねえ、なまえちゃんも通学〇△線だったよね?」
「え、うんそうだけど…」

今日はたまたま違う線で来たんだけど。ちょっとした気分転換だ。そう言い出す前に彼女が続ける。


「なら危なかったね…。さっき〇△線の電車、脱線事故が起きたみたいよ」
「え…」

言われたことが理解できない。すかさず彼女が見せてくれたスマホの画面には確かに私が乗るはずだった電車が無残にも線路から外れて倒れていた。現時点での怪我人28名、通勤通学の時間帯の大事故。ニュースサイトのトップに並んでいる。

「〇△線使ってる子たちみんな遅刻みたいよ。大丈夫かな、怪我した子もいるみたい」

彼女がスマホを握ってそう言った。彼女の手が小刻みに震えているのが分かる。周りのクラスメイトたちと肩を寄せ合って、友人の無事を願った。

結局その日は生徒が集まらずに午前中の授業が終わると下校することになった。私は朝言われたことを何度も思い出し、青ざめては赤い鶴を握りしめていた。授業が終わって生徒が下校しても電車の復旧の目処はたっておらず、それぞれ親の迎えを待ったり、バスなどを使って帰ったりしていたのだが、私はどうしても帰る気になれず図書館で本を読んでいた。

ふと夢占いの本が目に入って目を通す。「同じ夢を何度も見るのは警告・メッセージに気付いていない」と記されていた。警告かぁ、そんなに怖い感じの夢じゃないんだけどなぁ。なんだか暖かくて懐かしい思い出を何度も見ているような、そんな夢だ。

読書に没頭して時間を忘れてしまっていたようで、図書館の窓からオレンジ色の光が滲んでいた。私は読んでいた本を棚に戻すと荷物をまとめた。電車がようやくノロノロと走り出したらしい。それでも安全点検の度に止まったり進んだりを繰り返しているようで、私は一駅歩いた先から電車に乗ろうかと駅とは違う方向に歩いた。正直あんなことがあった後に電車に乗りたくなかった。

外は今の季節特有のツンと突き刺すような冷たさの空気が流れている。鼻と指先ばかりが冷えて、じんじんと傷んだ。最近では日が落ちるのがすっかり早まって、夕日が射し込んだと思えば当たりはすぐに暗くなる。ちょうど時刻は17時半頃。オレンジ色に包まれていた空が、道が、建物が、赤と紫と黄色に混ざりあって溶けていく。ふと、私の目の前に毛並みの綺麗な黒い猫が横切った。

艶々と輝く漆黒の影と、ギラギラと光って世界も私の心の向こう側までも見透かしているかのような金色の瞳に貫かれて私の心は石のように固まった。彼女なのか彼なのか、その黒猫に心を奪われ、一歩一歩と近づいていく。猫は逃げようとはせずに私のことを、私の向こう側をじっと何も言わずに見つめていた。

猫が私から目を逸らし、その動作にちりりと小さな鈴が鳴るような音が聞こえた。その瞬間から私の目も耳もその黒猫しか視えないような、その猫しか聞こえないようなそんな不思議な感覚になる。

しなりと体を揺らして歩き出したその艶やかな黒の中に、赤い色を見つけた。血が出ている。黒い毛並みの中に赤黒くグロテスクに見えるその傷が、ドクドクと私の血管に直接響くように痛みを伝える。赤と黒に引き寄せられるように私の体が黒猫と共に薄暗い路地裏に歩いて行く。

どこへ行くんだろう、私は何をしているんだろう、頭の中で考えても、なぜだか頭から15センチ上に離れたところで思っているようなフワフワとした不思議な感覚で、上手く思考できない。

路地の奥まで歩いてきた時猫が振り返った。私は「どこに行くの」「どこから来たの」「怪我をしてるの」「痛くないの」「あなたはだれなの」と聞きたいことをたくさん思い出して口をぱくぱくさせた。あれ、声が、私の声が、でない。

わたしにどうしてほしいの。

最後の質問もいよいよ声にならなかった。

でも確かに猫が私を見ている。
そして口をゆっくり開いた。猫が話したのは、猫が発したのはヒトの言葉。

「お前はオレたちに何をしてくれる」

猫って喋れるんだ、なんて見当違いなことを思って、その思いさえも頭からスっと離れていく。

これは良くないやつかもしれない。今度こそ助からないやつかもしれない。

嗚呼、私は本当の馬鹿だ。今日はいい日になんかなるはずがない。朝から初めから、最初から悪い日で良くない日で最悪の日で。事故に遭う筈だった日で。そんなことも全部忘れて赤い色に安心して慢心していたんだ。ツンとした冷たい空気はいつの間にか鼻につくようなどす黒く濁った嫌な匂いに変わっていた。紛れもなく今日は最悪の日。

ポケットの赤い鶴を探して手を伸ばす。指先が鶴の尾に、羽根に触れる前に、私はその意識を手放していた。