17Q 2
時刻は二時六分。
会場の広い通路では、光が差すガラス張りの天井の下、各校の選手達が地べたでストレッチを行ったり、監督達が雑談を交わしたりしていた。
試合に向けて士気を高めている者も多いが、中には今日一番のビックリ――誠凛の正邦撃破について語り合っている者たちもかなり見受けられる。
そして、彼等の会話の中でちらほら飛び交うのは「白髪」というワードだったのだが、当の本人は知る由もなかったし、それらに気をはらうべきだともさして思ってはいなかった。
さて、その「白髪」の持ち主橙野 白美含む誠凛一同は正邦への勝利の喜びは程々に、控室にて各々続く秀徳戦への準備を進めていた。
白美としては、実際今が本業である。
今こそ「選手」のくくりに入っているが、白美は本来「部員」の枠で、「マネージャー(仮)」として誠凛バスケ部に入った身だ。白美としてはもちろんこの先選手に転向する気しかなかったが、半ば監督の好意で選手として扱って貰っている口はまだ拭えない。
白美の立ち位置は、選手兼マネージャーなのだ。
それになんだかんだ言いつつ、部内では「雑務は白美が行う」というのが当たり前になっていた。
否、そう表現すると誤解があるだろうか。
リコを除外した一同の意識の水面下で、雑務のほとんどを白美が勝手に行い、勝手に片付けてしまっているのだ。
白美のそう言ったマネージャー業が唯一、選手たちに明らかに露呈するのが、今日の様な試合の場といえよう。
★
「身体が冷えない様に、直ぐ上着着て、ストレッチも入念にね!」
決して長いとは言えない時間を惜しむように、リコが全体に指示をしながら、ベンチに腰掛ける日向のふくらはぎにマッサージを施す。
その傍らで白美は、フロアから持ち帰ったボトル類を一同に配り、スプレーやテーピングの類をベンチの上に並べ置いた。
どうせまたしまうことになるのだが、リコや他の選手たちが使いやすくするためだ。
「それから、疲労回復にアミノ酸、カロリーチャージも忘れずに!」
各々着替えたり休んだりしている選手達に、またリコの指示が飛ぶ。
するとすかさず白美は、各々の選手にドリンクと食べ物を渡しに動いた。
「後、順番にマッサージに行くから、バッシュ脱いでて!」
リコが統率をとる傍らで、白美は小金井に所望されたバナナを渡していた。
「んー、ありがとう」
と小金井は早速皮を剥く。
「バナナはここに置いておくので、後食べたい方がいたら、自由にとって行ってください。一房あるので不足することはありませんから」
白美は一同を見渡してそう言うと、バナナをベンチの上に置き、すかさずリコに近寄る。
「どう?」
「サンキュー、まぁ、疲れてないったら嘘になるけど、これで何とか次まで持つだろ」
リコはちょうど日向のマッサージを終えたところだった。
「監督」
傍らから話しかければ、リコはふと思い出したように貌をあげ、「あっ、 橙野くんにもマッサージしなきゃね」と白美を見上げて言った。
だが、白美は小さく首を振る。
「さっき自分で済ませましたし、そこまで疲れてないので大丈夫です」
「あら」
「それで、やり方は会得しているので、自分もマッサージの手伝いをしても?」
白美が提案すると、リコは「ほんと?」と顔を輝かせた。
「それは助かるわ! ドリンクを作って挨拶に行く時間に余裕ができるし、ありがとう」
だが、白美は、再び首を横に振った。
「ドリンクの足しならもう終えているので、後は挨拶だけで構いません。ただ、自分は荷物をまとめたりがあるので、挨拶には同行できないのですが」
そう言って、申し訳なさそうに眉を落とし、「すみません」と謝れば、リコは「もう!?」と目を丸くした。
「あ、だめでしたか?」
「い、いや、そう言う訳じゃないけど」
(要領よすぎるっていうか、動きがよすぎるっていうか――ってか、私の仕事まで)
「それならよかったです」
苦笑いするリコに、白美はほっとしたように笑いかけた。
白美は、そういうことを平然とやってのけて、負担だとも思っていないらしい。リコは感謝と感心をすると同時に、彼自身ですらも知らずのところで、白美に負担をかけているのではないかと不安に思った。
それは、日向も同じだった。
リコと白美の会話をベンチにどかっと座りながら黙って聞いていたが、その裏で日向は白美の働きぶりについて思いを巡らせていた。
今日会場に、必要となるだろうボトルや食品、その他救急箱等の細かい物を持って来たのは白美だし、今それらの配布や管理をしているのも白美だ。
試合前には白美はリコと共に相手チームに挨拶に行った。
ボトルやその他小物をセットし、試合に臨んだ。
試合中は出場の傍らで持参したビデオカメラで試合風景を記録しているし、終わってからそれを見直して、1人1人の細かいデータをまとめてリコに渡すのも、今まで白美の仕事だった。
今回もそうであるはずだ。
同時にドリンク管理をリコと共に行っている。
試合後は再び、律儀に相手監督へ挨拶に行くという。
持ってきたものの片付けも白美がこなしている。
思えば思う程、白美は休んでいない。
それによく考えてみれば、リコの手伝いは勿論だが、日常でも彼は今やマネージャー業を選手としての練習を並行してこなしている。
練習用具の準備と片付けや、モップがけ等に始まる体育館及び部室の細かい整備はもちろんのこと、先生の椅子出し、氷嚢づくり、ボトルづくり、ゼッケンの洗濯、救急箱の管理。のみならず、雨の日に配置される湿気を防ぐための雑巾も、白美が出しているものだった。
さらに言えば、テーピング・アイシング・応急処置、ジャージやタオルを畳んで並べたりするのも、白美が練習の合間に行っている職務だ。
それを、さもやって当然だとばかりに、この男は。その様子ではどうやら負担だとも思っていないらしい。
――本当になんともないのか、それとも苦痛など感じている隙間もないくらいに、バスケしか見えていないのか。
正直理解を越えていて、日向は白美の貌をまじまじと見つめた。
間もなく動き出そうとした白美を、おもむろに「おい」と呼び止める。
「?」
「なあ、橙野。お前、無理して試合にも出て、おまけにマネージャーの仕事も1人でやって。そういやいつもの練習もそうだよな。今言うことでもないかもしんねえけど、ちょっと働きすぎじゃねえか?」
「えっ」
日向の指摘を受けて、白美は小さく目を見張った。
案の定、そんなこと思ってもいなかったという表情だ。日向はため息をつくと、「なあ」と白美に話しかける。
「余計なお世話かもしんねけど、正直お前、今だってあんま休んだりとかしてねえだろ」
「……」
日向が話し始めると、いつの間にか部屋の中は、選手たちが時折立てる物音以外なくなり、シーンとしていた。
皆が、そっと白美と日向の会話を見守っている。
白美は視線を感じながら、怪訝な顔つきをした。
日向は決して諌めるような口ぶりではなく、優しさの混じった声音で言葉を続ける。
「怪我明けたっていうけど、結局だましだましでやってんだろ? にも関わらず、いっぱしに選手やってチームに貢献して、更には元々のマネージャー業。それから、リコ曰く休日返上でリハビリやってるそうじゃねえか」
「あ、はい……」
「今も見てれば、全く座って休んだりとかしてねえだろ。お前の動きは俺達にとって本当に大きいし、俺達もいつも有り難いと思ってる。感謝で一杯だ。だけど、お前が無理してんじゃねえかって、少し心配になってな」
「無、理……?」
日向にかけられた言葉に、白美は今度こそ大きく貌を顰めた。
素で、「無理」という言葉に全く心当たりがなかったのだ。思ってもいないことだった。
(俺が無理してるって? ――そんなことねえ……だろ)
だが、そうやって言われてみるとはっきり「無理などしていない」と断言できない自分に気が付く。否定する根拠はない。
いや、だがそもそも何を以って無理をしているというのか。
自分は、やるべきことをやっているだけだと、白美は考えていた。
それなのに、何故日向がそんな風に心配するのか。
でも、実際、大丈夫だと思った。
(この空気、正直苦手だわ……)
だから、白美は優しげに微笑んでみせる。
「大丈夫です。心配してもらってありがとうございます。でも、誰かがやらなくてはいけないことですし」
しかし、他の部員へのマッサージを始めたリコは「マネージャー業なら私がもっとやるわよ?」と心配げに言いかえした。
白美は、目を丸くして首を振る。
「何言ってるんですか。景虎さんから聞きました。先輩こそ、いつも家でも夜遅くまで監督の仕事をしてるって。お肌に悪いから心配だって」
「えっ……ちょっと、何言っちゃってんのよあの親父ッ……!!」
リコがハァ、と脱力したあと拳をギリギリと握りしめたので、白美は景虎さんの話をだしたのは不味かったかな、と思った。だが、仕事をリコにやらせるわけにはいかない。
去年は彼女がやっていたのだろうが、今年は部員も増えた。
「すみません、でも」
「そんなこと気にしなくていいのよ! 私は橙野くんが無理して、何かあった方が心配だわ」
「いや、先輩が自分のマネージャー職までするなんて、いけませんよ。大丈夫ですから。自分、割と体力はある方です」
(いや、割とって言うか、カナリあると思う)
心の内で自分の言葉を訂正しながら、白美は一拍置いて、「それに」と言葉を付け足した。
それに。
白美は、フッと(その笑みは黄瀬のそれにそっくりだった)特別優しく破顔すると、言う。
――「女性に負担をかけるのは、自分の美学に反するので」。
更に。
――「自分にできることがあったら、出来る限り引き受けたいんです」。
その瞬間、部屋がシーンと静まり返った。
「えっ……」
反射的に赤くなるリコと、
「えっ」
目をパチクリさせて固まる他の部員と、
「えっ?」
その反応に笑顔のまま首をかしげてみせる白美。
そして一拍の後、彼等は少しばかりの不自然さを残しながら、何時もの様にざわざわと喋りはじめる。
その傍らで、リコは「あ、ありがとう……」と頬を染めたまま白美に礼をいい、どうしようもない恥ずかしさをなんとかしのいでいた。
日向は、呆れた様な戸惑ったような笑顔でどことなく視線を漂わせる。
そして黒子はサッと白美に近づき、一言放った。
「今、すごく黄瀬くんに見えました」
「ッ――!!」
そう言われた後の白美は、なんだか悪い物でも食べてしまった時の様な、衝撃で引き攣った貌をしていて、それを見た日向は、白美もこんな表情をするのかと少し驚いた。
対し、黒子は普段変化のない口元を、白美よろしく小さく引き上げる。
白美は咄嗟に微笑の仮面を付けながら、眼だけ鋭く光らせ、「ちょっとミミズ採集してくる」と吐き捨てた。
黒子は自分のせいで、後で黄瀬が八つ当たりを受けることを悟ったが、まあいいだろうと白美に背を向ける。
白美はその場の流れで、結局マッサージをすることなく、さっさと扉に向かって歩いた。
「じゃあ、先輩、ちょっと出てきます」
そう言ってドアノブを回せば、リコが素っ頓狂な声をあげる。
「えっ、ホントに取りに行くの!?」
「早く戻ってこいよー」
「わかってますよ、小金井先輩」
そして、白美は本当に部屋から出て行ってしまった。
暫くしたところで、日向が苦笑しながらボソリ、言う。
「あいつ、真性のたらしか、オイ」
それを聞いて、黒子は白美がいないのを良い事に、「そうですよ」と漏らした。
「前にも言いましたけど、中学の頃なんて女の子をとっかえひっかえ。しかも」
「……しかも?」
全員が、ゴクリ、と唾を呑んで黒子に尋ねる。
「しかも、複数の――」
「すいません、ちょっと忘れ物――、……」
白美がガチャリ、と扉を開けたのは、その時だった。
一声に部屋がシーンと静まり、視線がザッと自分に集まる感覚に、違和感を感じる。
そして、黒子が部屋の奥で貌を真っ青にミスディレクションしようとしているのを見て、白美は黒子がよからぬことをしでかそうとしていたのではないかと悟った。
白美は優しげに微笑み、「どうしたんですか?」と尋ねる。
そしてまた音が戻る部屋の中で、黒子に一瞬ニタァと、笑いかけた。
その後白美がバッグから携帯を取り出し、部屋から退出しても、黒子は喋ろうとはしなかった。
そして、後で何をされるかと思うと、震えた。
(work and aesthetics)
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