16Q 8
コートに張りめぐらされた糸は、秒毎にその緊張を増した。
バッシュとボール、選手達が連携をとる為に発する声――、加速するそれらを耳に、白美達は勝利の為に油断なくプレイを続けた。
して、残り29秒。
水戸部が2点を稼ぎ、誠凛は70‐69、遂に正邦のスコアを上回る。
「逆転!? マジか誠凛! 追いついた!」
客席からは、驚く声が数多上がる。
だが、黄瀬と笠松は予期せず互いに少し顔を歪めていた。
「けど……」
正直、白美という得体の知れない存在がいる以上、誠凛がここで負けるとは両者とも思っていない。
だが、現状は厳しいという他ない。たったの1点差。時間はもう残りわずか。
ここでとられれば、一気にわからなくなる。
それは、日向たちもわかっていた。
「ここは、絶対取られるわけにわ行かねえぞ!」
日向が吼える。
誠凛勢はディフェンスを強く固め、鬼気迫る様子で正邦のオフェンスを迎え撃つ。
だが、向かう岩村の様子を見た瞬間、白美はまた逆転があることを直感した。
「うおおおおおおおおおおおお!」と叫びボールと共に突っ込んでくる岩村は、まさに猪突猛進。
白美は、咄嗟に次なる自分たちのオフェンスの展開を計算し、身を翻して最適な場所に立つ。
その目の前で案の定、岩村は水戸部と日向がダブルで止めにかかったにも関わらず、そこを無理矢理飛ぶことでねじ伏せ、リングにボールを叩き込んだ。
「王者を舐めるなよ! 貴様等如きが勝つのは十年早い!」
岩村に大声で吐かれ、誠凛の面々はくっと顔をゆがめる。
スコア、70‐71。
誠凛が返して勝利するためには、残りわずかで3Pを決めなくてはならない。
――追い詰められた。
更に、一同は続く正邦のディフェンスを見て声を詰まらせた。
「オールコートマンツーマン!?」
リコも予期しなかった、正邦の陣形。
「守るどころか、もう1ゴールとる気だ!!」
笠松が思わず声をあげる。
そしてコートではいよいよ、緊張がこれまでにない大きさにまで達していた。
「まだまだあっ!」
伊月はドリブルをしながら、伸ばされた春日の手をかわしてパスコースを求める。
(この土壇場でそのマジっぷりはどんだけだよ――!)
その時、春日の背後に水戸部が回り込んだ。
「ナイス! 見とれちゃうぜ水戸部!」
伊月は咄嗟に春日の後ろから進行し、新たなマークで行き詰まる。
だが視界の端、丁度良い位置に白美がついていた。
伊月のボールはすぐさま白美の手に渡る。
「しまった!」
岩村が形相を変えるが、岩村の位置から白美までは無論距離があった。
白美がいるのは、3Pのライン外だ。
このままでは、3Pシュートを撃たれてしまう。
白美は、そのままシュートフォームに入った。
だがそこに、必死の形相の津川が滑りこんでくる。
客席の黄瀬は、ビクッと反応して身を乗り出した。
「津川!? なんで!!」
「パスコースから逆算して、察知したんだ!!」
白美は、その能力の高さ故に、常にベストな場所に自分の身を置いてプレイを進めている。故にこの場合、白美は確実にパスを受け、確実にシュートするための場所に身を置いた。
津川は、それをあろうことか読んだのだ。
リングに向かってボールを放つ為、ボールを構えた白美と、懇親の力でそれを止めにかかる津川。
――訪れる、全てが決まる瞬間。
「しらがあああああああッ!!」
火神は思わず、立ち上がって叫んだ。
黒子も、ぎゅっと拳を握りしめて試合を見守る。
(でも――橙野くんなら!)
そして、白美は必死の形相の津川に、フッと笑いかけた。
「――!?」
(このタイミングでまさか、フェイクなんて――!)
だが、実際白美にはそれが可能だった。
宙に跳躍した津川に対し、白美は瞬時に空中で体の向きを変える。
そして、3Pラインの外に立つ日向の手にボールを送りこんだ。
「――っ!!!」
――黄瀬、緑間、黒子三者の目が大きく見開かれる。
余りの早業に、勿論正邦の面々は対応できない。
そしてボールを受け取った日向は、跳躍すると静かにボールを宙に送り出した。
「っ――!」
一同は、ボールがどうなるかを息を呑んで見上げる。
無音の中、ボールはゆったりと回転し、上昇から下降に動きを変えた。
――ボールは、リングをくぐりネットを揺らす。
残り1秒、そして、0。
ブザーが鳴り、試合が終わった。
体育館を一瞬の静寂が包み、一拍の後、誠凛の選手達は喜びの雄叫びを上げた。
それにつられる様に、客席からも歓声がどっとわく。
「よっしゃああああ!」
「おおおおおおお!」
――「勝利」。
誠凛の面々は各々拳を突き上げ、途端に溢れだした悦びを噛み締めた。
1年二人が肩を組んで喜ぶ傍ら、ベンチからタオルを吹き飛ばしてコートにすっ飛んで行ったのは、今の今までダウンしていたはずの小金井だ。
今やすっかり元気な様子で、白美を囲む2年達に加わる。
実の所、白美は、今までこんな風にチームでプレイして、こんな風にチームで勝利の喜びを分かち合って――、何より、チームの仲間に今の様に囲まれたことは1度もなかった。
「よくやったな橙野!」
だから、伊月にそんな言葉をかけられて、白美はキョトンとしてしまった。
更に土田が頭に手を乗せて伸し掛かってきた時は、一瞬笑顔を置き去りに呆けた貌をしてしまった。
続いて、反対側から日向が肩を絡ませて、満面の笑みを向けてきて、白美は初めてハッとした。
自分に、何が起きているかわからなかったのだ。
名前の付けがたい熱い感情が激しく先行してきて、理解が追い付かなかった。
(やっべ――、……え? は?)
そして、自分の頬を、汗より遙かに温かい何かが流れるのに気が付き、戸惑うと同時に、白美はこの感情に名前を与えてはいけないのだと思った。
だが、こんな大勢の前で嬉し涙を見せた事なんてなくて、白美は咄嗟にそれを隠す様に俯くと、高ぶっている胸の鼓動を無理矢理押さえつけようとする。
なのに、直ぐ傍まで寄って来ていた黒子に、それを見つけられてしまった。
「――橙野くん……、えっ、ひょひょっとして、泣いてるんですか?」
まさか、白美が涙を、それもうれし泣きを見せるとは。黒子にも悪意はなかったのだが、衝撃が先行した。黒子は勝利への微笑みと同時に、目を微かに見開いて白美に尋ねる。
(うっせ〜よテッちゃん……!)
白美は、「泣いてなんかいない」と否定しようと思った。
けれど、喉がくっついてしまったような苦しい感覚に阻まれ、言葉が出なかった。
「っ……」
代わりに、漏れたのは小さな嗚咽。
喜びと、恥ずかしさと、情けなさとで、思わず咳き込むように笑ってしまう。視界が揺れて、ぼやけて。白美はどうすればいいかわからないまま、上体を押し上げてくる誰かの手の力に、弱弱しく抵抗するしかなかった。涙が、止まらない。
――自分の貌を、見たのだろう。黒子や、火神だろうか。息を呑む声が聞こえた。それから、先輩達の慌てた声。
黒子の言葉に驚いて、貌を伏せる白美の肩を引き起こした日向は、白美が貌を歪めて笑いながら泣いているのを確かに見た。
「っちょ、オイ、お前ガチで!? 嘘だろ!? まだ泣くとこじゃねえぞ!?」
「そうだって。おいおいおいおい、泣くなよ橙野! ようやく出れた試合だろうし、き、気持ちはわかるけど!!」
日向と伊月が、戸惑いながらも咄嗟に白美を落ち着かせようと声をかける。
続く小金井も、今は先輩に言われて涙を拭おうと目を擦っている、白美に笑いかけた。
「そうだぞー! 今日なんてまだ1試合あるんだぞー」
「おーいっ! 終わってすぐそういうこと言うなよ小金井!」
「悪い悪い」
即座に土田に突っ込まれ、小金井はケラケラと笑いながら謝る。
そうして、2年生の数人が笑いながら冗談を言い合って、白美はそれを涙をこらえながら笑顔で聞いていた。
暫くして、漸く白美の思考回路が息を吹き返す。
ゴシゴシとタオルで目を擦り、漸く視界が晴れた。
白美は、ふうっと大きく息を吐くと、笑いながら「俺としたことがすいません」と2年達に謝った。
すると、穏やかで、優しくて、明るい笑顔が一人一人から返ってくる。
その事にまた目頭が熱くなるのを感じながら、白美は「今までこんな風にチームで勝利を喜んだことが無くて」と漏らした。
それを聞いた日向は、一瞬ハッとして白美の貌を見つめる。
だが、日向がその先のステップを踏む前に、少し離れたところで敗北の悔しさに肩を震わせていた津川が、「なんでだよ!」と声をあげた。
ハッと振り向いた誠凛の面々を睨みつけ、津川は拳を握りしめて声を荒げる。
「誠凛なんて、去年できたばっかのところだろ!? 練習だって、絶対ウチの方がしてるのに!! 去年なんて、相手にもならなかったのに! 強いのは、どう考えてもウチじゃん! それに、橙野ッ!! お前が――」
しかし、津川が次の句を続ける前に、岩村がその肩に軽く手を置いて彼を制した。
「やめろ津川」
「だって!!」
「強い方が勝つんじゃねえ。勝った方が強いんだ。あいつ等の方が強かった。それだけだ」
そう言った岩村の表情は、静かで、負けを真摯に受け入れた者のそれだった。
自然と誠凛の面々の表情は引き締められ、次へと向かう。
「――ッ!」
そして津川も、これ以上の喚きは無意味だと悟ったのだろう。溢れる悔しさを、目をぎゅっと瞑って、歯を噛み締めてやり過ごす。
でも、どうしてもそのままではいられなくて、津川は「ねえ!」と白美に声をかけた。
「ん……?」
白美は少し身構え、津川に振り向く。
「次は、負けないからな!」
津川は、はっきりとした口調で白美に言った。
白美は津川の態度の変化に少し驚きながら、「嗚呼」と短い返事をした。
そうして、二人の眼が離れる。
間もなく、一同はセンターラインを挟んで姿勢よく向かい合った。
「73‐71! 誠凛!」
審判の声を耳に、互いに「ありがとうございました!」と声をそろえる。
その様子を見て、リコは「おめでとう皆」と遂に涙を目から溢れさせた。
と、茶色の髪の上に、大きな手がポンと載せられる。
「ちゃんとしろ監督。まだ泣くところじゃねえよ。喜ぶのは次の決戦に勝ってからだ」
日向だった。視線を右下に逸らしながら、なだめるように言う。
リコは、日向のそれでもどこか優しげな声を聴いて、涙をぬぐうとうんと頷いた。
白美はその様子を片目に、頭にかけたタオルで汗と涙を拭きながら、チラリと視線をもう一つのコートに向ける。
試合終了のブザーが響いた。
「あっちも終わったみてえだな」
「そうですね」
火神と、黒子が見つめる先。
「113‐38! 秀徳!」
「ありがとうございました」
トリプルスコアで、秀徳が安定の勝利を手にしていた。
白美は垂れ下がるタオルと真っ白な前髪の陰から、オレンジの眼光を一瞬、ギラリと光らせる。
――仕掛けは、既に施してある。
白美は、間もなくこちらに向くであろう視線から逃れるように、俯いて彼等に背を向けた。
その口角は、人知れず吊り上っている。
(まさか、自分が泣いちまうとは思わなかったけどな、涼太の顔なんか、傑作だ)
(weeping for joy)
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