下手くそな命の使い方・下




 なにも残されていない、ただ「ここに二葉がいたんだろうなぁ」と思わせる小さな椅子だとか、他の部屋よりもすこしきらびやかな洋装と寝具などにほんのすこしだけ目を奪われながら、薄ら明るくなりつつある空模様に神崎と姫川は目を向けていた。夜が明ける。それに気付くまでにはほんの短い時間だけが必要だった。二葉がここにいない以上、彼らはここにいる意味などまったくないということに。そして、
「ここにいるのは、マジでヤッベェ!!!」
 気付くのがほんの数分、遅すぎたのだと言える。窓を見下ろしたその光景。それは人、ひと、ヒトのうねり。だが仲間は見渡す限りいないらしかった。帝国兵の重苦しく重工な立ち姿。その空には今にも登らんとする、朝日が眩しい。その眩しさが今の自分を否定しているかのように思えて、虚しさすら感じられる。神崎と姫川は互いに目を見合わせた。先に動いたのは神崎だった。二葉が使っていたであろう布団やらをひっ掴み強引に姫川へ頭からバサリとやる。「ぐ、うぶ」と声にならない声しか出せずもたつく姫川を窓の際に追いやる。神崎の手か窓の鍵をカチャカチャといじる。さすがの姫川もそれを見て慌てた。神崎はなにをしているというのか、理解できずのままだ。外からの外気が二人の肌を撫ぜる。まだ冷え切ったままの空気が鋭く冷たい。窓際で交錯する視線、神崎の目の色に姫川は口角を上げた。狙いはまだ読めない。だが、なんとなくわかることもある。付き合いが長いだけに。
「おまえが先に落ちろ」
「…! バッカ、ココ、四階っ」
 布団たちとともに姫川の身体を強引に押し投げる。遥か下、兵たちの真ん中へと。まるで身を捧げよといわんばかりに。姫川は呆気なく落下。暗いなか、一緒に投げられたシーツが白く浮かんでいた。それが下に着いて、すこしだけフワリと浮かんだ。姫川が生きて無事だという証拠だ。神崎はそれだけ見てふんと鼻を鳴らした。先に言った言葉を心のなかで反芻する。
【おまえが先に落ちろ】
 要は、先があればその先もあるのだ。二人だけの援軍まだなしな二人組、つまり、おまえの次におれが落ちる。神崎は長い槍を両手持ちしながら姫川の落ちた側へダイブしていった。咆哮とともに。四階からでも、布団というバリアなしでも構わない。神崎は自分のことを信じ切っていた。だから身体を守るなにかを身にまとわずともそのまま飛び降りていけた。姫川のまとったシーツがどこにあるのか、見えなくなっていたけれどそれでも問題などなかった。おれもおまえも、生きている。それが理解できれば十分だ。
 衝撃。それは下になった誰かさんらのほうが確かにひどいだろう。足の裏と、つこうとした片手にずしりと重い衝撃。重くおもい。すぐに態勢を立て直す。自分よりももっともっと、上にのしかかった名も知らないこいつのほうがきっと何倍も衝撃は大きかっただろうことは、攻撃するまえにへたる様子でよく分かる。まったく容赦のしようのない攻撃。さっきまで考えていたことなど頭のどこかへぶっ飛んでいた。痛みも感じない。姫川のことがふと瞬間、よぎったけれど、すぐ忘れた。必死で槍を振るう。その指先には小気味好い振動、のようなものが神崎の指にも伝う。目の前の兵士は完全武装で、全方向を取り囲まれたまま臆することなく神崎は槍で斬ったり突いたりし、さらに血を浴びた。重工な音、金属の音が耳に響く。嫌な音だ、そう思ったが気にしているひまなどない。なぜなら今、生命のやりとりをしているからだ。と、その途端、熱さが神崎の身体の中心を襲うように広がっていく。それはやがて一箇所の傷みとなって彼の脳内を突き刺す。焼かれるような傷みは斬られたものだと理解するのに、時間にして数秒。会話のひとつもしようものならばあっという間に終わる時間。だが、命の取り合いのなかでその時間とは永遠にも感じられる傷みだ。熱さは増して、彼の意識をも焼くように襲いかかる。避けたいけれど避けられない傷に、神崎は堪らず歯噛みした。傷みに負けて命を落とせば、この生命の取り合いから脱落することになる。それは嫌だった。それだけは。いつだって、殺してたい。神崎は痛みのなか槍を振るった。ザクン、と手に馴染む衝撃。誰かの腕を飛ばした。上がる野太い悲鳴は趣味に合わないけれど、傷みがスッと引くような感覚。このために生きてきたんだと感じられる、そんな胸の疼き。そのまま槍を横に凪いで隣と隣の誰かの首を飛ばす。血飛沫と崩れてゆく姿のスローモーションに歓喜を覚える。このために槍を振るってきたのだ、と。だがそれが間違っていたのだということを瞬時に悟らざるを得ない事態に陥る。目に、飛沫が入ってきたのだ。血で前が見えないなんてこの状態ではあってはならないことだ。だが、余裕のようなものがそれを呼び込んでしまった。パチパチと何度も瞬きを繰り返し、神崎は己の生理的な涙で血を洗い流そうとした。だが、どうにもうまくいかない。片目をほぼ奪われた状態で、この兵士たちのなかを駆け抜けなくてはならない。自分自身の落ち度に独り歯噛みする。パッチリと開けない目で周りを見渡しながら、血に澱んだ世界を見やる。その間にも槍を突き上げ、凪ぎ、突き刺し、裂く動きも忘れはしない。悲鳴と血と崩れ落ち倒れていく砂埃、そして鎧らの金属と金属とがぶつかり合う音たちが、不協和音のように響きあって戦のなかを駆け巡る。その嫌な音たちのなか、傷みを思い出す。それは引き攣れるような傷み。体から力が抜けていく。いやだ。このままここで倒れたくない。また思う。ころしつづけてたい。ふ、と気弱な気持ちが思い出させるのだろう、二葉のハツラツとした笑顔が瞬間浮かんだ。だがそれはすぐに消え、倒れないという気概へと切り替わる。足を踏ん張ってその場でつよく立つ。それこそが大事ではないかと神崎は思うのだ。負けても、死なないことと、立ち続けようとする気持ちこそが大事なのだ、と。
「……ぐ、っ……!…」
 後ろからの軽い衝撃と、それに対する守りができていなかったことで、神崎の身体は大きく押し出されるような格好になった。どうやら棍棒のようなもので突かれたのだろうかと感じる。砂埃も足元から邪魔くさいほどに舞う。周りの視界が遮られた、この瞬間を好機と見て、神崎はすぐさま考えを変えた。ここでは逃げたほうがいい。なぜなら、自分は怪我も負っている。本来なら殺して、コロシて、ころし尽くして壊滅させて退却したい。そんな思いが脆くも崩れ去ったのは、この帝国兵たちの数、数、数のせいだ。兵と兵とのあいだには動けるほどのスキマはあったけれど、見渡すかぎりの帝国兵らの姿。そのうえ、神崎自身は視覚も奪われる、さらに傷をも負っているという弱味。ならば出直したほうが勝ち目もあると誰もが思うことだ。歯噛みしながらもそうせざるをえない今の状況に満足などするはずもない。せめてもうすこし勝ち目のある勝負に挑みたい。なにより、こいつらを殺しつくすまでは、言葉的にはおかしいが自分が死んだとしても、死にたくもない。神崎は走り出した。砂埃が舞うなか、うまく逃げ切れると信じて。走る。そこになにかがあると信じて。
 舞うのは煙たい砂埃ばかり。神崎は咳き込む間もなく、見上げた空に高いたかい塔のようなものを見た。それは、先だって逃げたばかりの城から近い建物。つまりは城の砦のような部位に当たるところだろう。本城に比べれば微々たる建物であるため、目に入っていなかったようだ。神崎はその入口に向けて走っていった。駆け寄っていくそこは、暗い扉を携えた城の一部なのだと、近寄るほどに解る。神崎はその扉を無造作に開け、すぐさま閉める。兵たちが入らないようにすることが、周りを見るよりも先決だ。空気が澱んでいることと、暗いこと以外に気がつくことすらない。それほどに神崎自身もまた今の状況について、平常ではないのだといえよう。扉に二重鍵をかけてからようやく、暗いなかを目を向けた。そこは、石でできた冷たい様相、と感じたのはおおよそ気持ちに余裕ができたせいであろうが、先に回ってきた城と造り自体はそう変わらないこの建物のなかを見回すことが始まりだ。
 誰もいないようだ、と分かればようやく全身の力を抜き体全体でため息を吐き出す。ようやくここで身を休めることができる。部屋のなかを見回すと、明かりが届かない場所もありよく分からない。ずるずると倒れこみながらその暗いほうへと目をやる。この短いあいだだけ、身体を休めることができるという安心感に身体が悲鳴をあげていた。傷みはいくらか和らいだ気がするが、それは気が抜けたせいで増した気もするのだった。ここでこのままいたら眠ってしまうかもしれない。神崎はつかの間の休息を終わりにすると身体をなんとか起こし、歩き出した。片腕はもはやあまり役に立ちそうもない。なかは暗いのでよく見えないが、その傷みの先にはおおよそ血が滴っている。たぶん濡れたような感覚があるのはそのせいだろう。傷みのせいでそのほかの感覚は鈍っているが。それを気にしないようにして、暗がりへ向けて歩を進める。冷たい壁と硬い階段。階段は上へ向かうものと階下へ向かうものの二手に分かれている。神崎は呼び寄せられるように階下へと進んだ。低い唸りのような音が聞こえる。こんな古い建物のなかにあるものなど高が知れていると思っていたというのに。足を出すたびに感じる。神崎はこの気配を昔に感じたことがあった。暗い階段から落ちてしまわぬよう、壁に手をつきながらゆっくりと下へ向かう。そのたびに感じる、独特な空気の澱みと冷たさについて、いつ感じたものであったのかぐるぐるぐるぐると頭を巡らせ続けていた。ついでに酷い臭気。なまぐさいような、いやな臭いが神崎の鼻を突いた。階段を降りた先に見たその光景に、神崎は声を発するのも忘れた。



***



 竜と呼ばれる生き物は、伝説とされてきた。
 それは、永く生きる。
 人間をはじめとした様々な生物たちよりも賢く、なおかつ、強い。ちなみに、人のように武器を造るわけでなく、手前で持つ爪なり牙なり、強い武器を生まれながらに持っていることが挙げられる、かもしれない。
 彼らは人間という生き物を弱く下等な生き物だと思っている。よって心を開くことはしない。知ろうとも思わない。アレらのやることは稚拙で間が抜けていて愚かである。興味の対象にすらなり得ない。
 だから竜は人と交わることはない。
それゆえに伝説と呼ばれたのかもしれない。少なくとも、そう称しているのは人間だからに他ならない。竜自身は、こうしてずぅっと生きてきた。人ではないものたちとの共存を経て。だが竜同士の交流などはない。風の噂にどこどこにこんな竜が存在したとかするだとか、そういった曖昧な話だけは幾度も聞きつつ。

 人間たちが大きな戦争をしていることはとうに知っていた。そんなことを彼らは何年も、何百年もまえから、それは飽きないのだろうかと思うほどにまえから、人が変わり──人というものがせいぜい100年未満ほどの生命であることも、竜たちはとうに知っている。──戦さの理由が変わり、町を作り直したことも踏まえてそれでもなお、人は争い続けて壊し合っていることを解っていた。だからこそ竜は彼らとともにあることを拒んだ。
 すくなくとも、親が子に餌をやるために殺めることとは違う、無意味な戦さについては、竜とて辟易していた。否、今もだ。それを「ばかばかしい」と形容しただけのこと。
 それが理由かどうかは分からない。竜は常のように上空高く滑空していた。なにも別段おかしなことではない。遥か下方から大きな音がする。こんないい天気の日には相応しくない、なにかの合図のように。
 その音のせいだろうか。それとも単に竜も平和ボケしていたのだろうか。回避が一瞬、だがそれでも、ほんの一瞬だけのことだ。回避のタイミングが遅れた。広げた翼の脇のほうだが、ひどい衝撃。揺れる視界。耳に届く爆音。
 不思議だった。まるで予測でもしているかのように、一撃が決まると何発も何十発も、竜の身体には鉛の塊のようなものをぶつけられ続けた。頭が揺れて、まともな思考が働かなくなる。これは人間のつくった機械なのだろう。昔からいろんなものを利用して生きているのは知っていた。まさか、こうして竜を撃ち落とせるほどの力を得るなどとは、思ってもみなかったが。竜は落ちながらに大きな砲台を見た。今まで見たことのないような大きさの鉛玉を吐き出すもの。あれに撃たれたのだと睨みつけながら、竜はそれを恨むでもなく目を閉じた。せめて五月蠅くなければ良かったのに、と心のなかだけで独りごちた。

 目が覚めると身体が動かなかった。首を動かせる範囲で動かすと、ふとい鎖で竜の身体のあちらこちらを縛りつけてある。これでは動けるはずもない。動こうとするとぎり、ぎり、と食い込んでくる。さらに身体じゅうに痛みが増す。これだけ身体に力が入らないのは、身体じゅうを駆け巡る血液が失われているからだ。そう思えたのは見える範囲で血が流れているのが目に入ったからだ。このまま血が止まらなければ、死ぬのだろう。竜はしずかにそんなことを思った。死ぬことなど怖くはない。だが、人間に殺されることになるなどとは予想もしていなかった。気づいたときには、相手も進化しているということか。それならば、もうすこし人間というものを見ておいても良かったような、そんな揺らいだ気持ちになった。こんな気持ちになることは初めてのことだ。死が迫ると気持ちというものは揺れるのだろう。そんな悠長なことを竜はぼんやりと考えていた。それもつかの間のこと。やがて竜も体力が続かなくなっていった。



***



 なまぐさい臭いは、血によるものだった。大量に流れる血という血。こんなに流れるのは当然だろう、神崎の目の前にいるそれは彼よりも、もっとずっと大きく雄々しくそこに存在していた。しかも、弱っていると一目見て分かるほどに深く傷ついているらしい。なおかつ鎖にぐるぐる巻きに巻かれ捕縛されているといった出で立ちだ。だが、それでも可哀想だと思えなかったのは両親の仇という思いがあったからだろう。神崎はしばらくその弱ったものを見上げていた。苦しそうな呼吸だけが彼の生命を紡いでいた。同情する気にはなれないけれど。
「……竜。どうして、こんなところに」
 ほかに口にできる言葉など持ち合わせてはいない。神崎は流れ出た竜の血に触れた。それだけで、どくん、と強く自分の心臓が高鳴ったのが分かる。まるで、燃えるような気持ちになったかのような。そうなろうと思ってしたことではないというのに。その事実が神崎の胸の奥をざわつかせた。恐る恐る、もう一度垂れ流しの液体へと手をやる。
「……っ!」
 神崎は唇をつよく噛み締めた。脈動する生の流れ。竜の血とは、これほどまでに人体に影響のあるものなのか、と驚くことしかできない。神崎は驚くと同時に、数年前に竜について調べていたことを思い出していた。あのときは復讐にかられてさまざまな文献を無作為に読み漁っていた。竜についての伝説のようなものたちをたくさん。そのときは眉唾ものだと鼻で笑っていたのだけれど、ただ竜の血にふれた、それだけのことで変わる自分がいるのだ。あながち嘘ではないのかもしれない。当時、鼻で笑った文献の内容というのは、ほんとうに馬鹿馬鹿しいことだったから。神崎が足を踏み鳴らす音で竜はうすく目を開けた。目の届くところに人がいた。部屋じゅうには不快なほど血のにおいが充満している。これほど不快を覚えるのであれば、どちらの血も結構流れ出ているのだろう。竜がちゃんと人の姿を認めると、それが傷だらけでふらついているのも確認できた。どうやら、満身創痍の人と竜だけがこの空間にいるのだ。
「竜。テメェは生きてんのか? けど、もうすこしでくたばりそうだな」
 竜は夜目が利く。くたばりそうだといっているほうが顔色が優れないのではないだろうか。強がってはいるものの、人間とは脆い生き物だ。竜よりも先にこのまま放置しておけば人は死ぬだろう。短い生だ、と思うだけだ。だが不思議なことに人からは怒りにも似た感情のうねりのようなものが感じられる。それがなんなのか、竜にも解らないのだったが。
「ハ、まあ俺だってズタボロだ。外のやつらにやられっちまった。だからって死ぬわけにゃあいかねえけどな」
 人の目にはつよい光りがあった。言葉のとおりズタボロのはずなのに、力強さを感じさせるなにかがある。それがなんなのか、竜はすこし気になった。光る目を見続けていると、外からガタガタと不快な破壊音が聞こえてきた。外からなにかがやってくるのだと思った。人もそれに気づき音のほうへと目をやる。
 上の入口に、かんぬきをかけていたのは間違いではなかったようだ。人こと神崎はそう思いながら首をあげた。下ってきただけに、上から誰かがくるのは当然のことであり、また、この場所に敵がいないことこそがこれまでの時間、ありがたかったのだと今このときに気づいた。神崎は弱った身体を持ち上げて、自分の刀を二本、両手に持ってちらりと一瞬だけ竜を振り返った。なにかいいたそうな顔をしていたが、それを口にすることはない。弱ったままの身体を持ち上げ、彼は階段を駆け上っていった。戦いへと向かうのだ。先に終わらなかった戦いの火蓋はまだ収まってはいないのだから。
(なぜ───、)
 竜の思いは言葉にはならなかった。
 なぜなら─────


「うおおおおおおおおおおおおっ!」
 神崎は帝国兵らに刃を振るった。これまでとなんら変わりなく、おまえをころす、そのつもりで。一撃で、とまではいかなくとも彼はなるべく簡素に帝国兵らの命を、まるでもののように奪っていく。血も飛ぶだろうし、傷だって負うだろう。だが、それでもやめることができないでいるのはきっと、やめられないからに他ならないだろう。やめることができないから。その理由については、やめれば死ぬから。やめたくないから。やめることができないから。
 死んだり、致命傷を負い倒れたりすることで、一人、ひとりと兵が減っていく。それでも、ワサワサと終わらないゲームみたいに兵の数はこれといって減ることはない。ゲームならば敗因は簡単だ。ゲームが疲れることはない、根負けだ、と言い切ることができるだろう。だがしかし、それが現実である以上、口に出すことができないでいる。先に感じた傷みはいつの間にか消えていた。しかし後から気づけば苦笑いするしかない。傷みがコロスという現実に勝ちそうになっている。また思う。いやだと。殺してたいのだと。
 ガンっと後ろから殴られた衝撃。前へつんのめるようになりながら、それでも周りのだれかさんを突いた。今さらながらに思う。どうして腰を抜かして逃げるような兵士は一人もいないのだろう。神崎はもう一人、首を飛ばしながら考えた。帝国兵のやつらの統率はここまで強固ではなかったはずだ。隣の兵の首が飛べば腰を抜かし小便をもらし足音高らかに逃げてゆく兵の姿はかならずあったはずだ。だが、ここのところの帝国兵たちの様子は違っていた。それを思い出そうとしていると、今度は腹部への衝撃。ぐう、と口から血が吐き出されるのが分かった。分かっていてもこれは生理的な現象、止められるはずもない。腹を切られた。深くはないが、浅いわけでもない。吐き出される血がぼたぼたと神崎自身の軽鎧や靴や地面を、数秒という時間で容赦なく汚していく。この量はまずい。感じたよりも深かったのかもしれない。神崎はすぐにハッとした。ここにいれば、間もなく終わる。終わってしまう。それがいやで堪らない。分かりやすくいえば、死にたくない!
 神崎は踵を返した。戻る道すがらも、兵たちの足音は神崎を追ってくる。戻るところなど本当はない。ここはホームではないのだから。戻りたいが重い足取りのなか、神崎はまえに読んだ本の眉唾ものの言い伝えについて、記憶を掘り起こしていた。その伝え文句というのが、人と竜との契約についてだ。どのようにするのか分からないが、人と竜とが互いに心臓を交換すると契約が完了する。人が竜の力を得るのだという。本の内容はめちゃくちゃだと思った。むろん当時は笑った。だが、笑えないような気になったのは、ふれてしまった竜の血のせいだ。あのときの胸の高鳴りが、神崎の気持ちをザワつかせて離さない。もしほんとうに、ほんとうに契約できるのだとしたら。この逆境をブチ壊せるのかもしれない、そんな希望的観測。そんなものにすがるほど、帝国兵の存在は数年という短いスパンのあいだにそれほどの脅威へと育ってしまったのだ。すべて払い除けられないほど、血気盛んな兵士ばかりが不自然に集まったものだ。そんな兵士らを忌々しく思いながらも神崎はふたたびかんぬきをかけた。その視線の先には捕らえられた竜の姿がある。竜がゆっくりと神崎の姿を認めた。さらに傷に覆われ、それこそ血と泥にまみれながらよろめきつつ歩み寄ってくる。竜はそんな人を見て目を細めた。ボロ雑巾のような人間が、とても面白いもののように映った。これの頭のなかを知りたい、と唐突に感じた。
『死なないんじゃ、なかったの?』
 挑発を含んだ声が神崎に届く。その声の主が竜だと気づくまで、しばらくの沈黙。そして、驚きに目をまんまるにして一歩後ずさり、しかも足を段差に引っ掛けて、ヒザがカクカクカクっとなって、地味に転んだ。まぬけな倒れかた。よろめきながらすぐさま立ち上がり、竜に声をかける。
「竜っつーのは、喋れんのか。…そりゃ便利だ」
 強がりな笑み。身体の痛みは相当なものであろうことはその顔色からも容易に窺い知ることができた。強がる理由について、竜は理解できないでいる。なぜなら、竜は個体で行動するものだからだ。自分が決める、自分で動く。それがすべてだから。人間というのは、個々が個々と力を寄せ合うのだということを知っていた。風の噂やらで。個々でないことはとても面倒なことだとしか思えない。周囲が自分と逆のことをいった場合、決まるものも決まらなくなってしまうではないか。そんなことは時間のムダで、決めるのは自分だけでいい。すべてを自分の翼にのせて生きていくのが竜だ。今の竜の姿はあまりに無残なものだったが。折れた翼を人が乱雑に掴むと、それだけで身体じゅうに傷みが走った。だからといって状況が悪化するというわけでもない。竜はどこまでも冷静だった。
「俺と契約しろ」
 聞き違いか、と思うほどに突拍子もないことだ。竜は言葉を発さずに、人の顔を見つめ続ける。
 契約。久しく聞いていない言葉だと思う。竜と人との契約とは、あまりにも竜にとって分が悪いことが多すぎるのだ。また、契約ができるのは竜だけではない。精霊やらの伝説とされる生き物たちは、じつは人里から隠れたところに生きており、ときに人と契約を結ぶものもいるのだということは、竜も聞き及んでいた。そして契約者は契約者のことが判る。契約したものと契約されたものは一心同体となり、生き死にをともにすることとなる。つまり、竜の強靭な力をもつ代わりに、人間のすぐ死に至るもろさを持たなければならない。そんなこと、答えるまでもない。竜は口を利く気にもなれなかった。
「このままだと、オメエは死ぬぞ。俺はあいつらを殺すために、なんとしたって生きたい。力が、ほしい…!」
 ガタガタと扉を破ろうとする兵士たちが立てるざわめきが耳にうるさい。竜は扉のほうを見た。だからといって今の自分にできることなどなにもない。ここを動くことすらできやしない。
 神崎は武器を手にして構えた。扉がガンガンとうたれ、その間から見えた腕をいとも簡単に、まるでもののようにサクリと斬り落として時間を稼ぐ。竜と神崎がいる部屋には腕と血がぼとりと音立てて落ちた。気の狂った光景だ、竜はしずかに思った。血のにおいがまた不快感を呼び覚ます。どんなに交戦しても、やがてかんぬきを外されて、数十人ほどの兵士が部屋のなかに入り込んできた。すぐに神崎はそいつらに斬りかかった。一人、また一人と容赦なく切り捨てていく。ここでは命などただの捨て牌なのだ。
「うらぁあああ!!」
 入ってきた順から切っていく。鎧がすべて身体を守ってくれるとは限らない。開いた箇所を狙うのは当然のことだった。すでに肩で息をして苦しげに喘いでいる。竜は人へと思念を送った。竜は声を出さずに思う人へ伝えることができる。それを声として取るか、思念として取るかは分かりづらいため、慣れるまではどこから聞こえたのかときょろきょろとしてしまうことが多い。
『どうして力がほしいと思う?』
「どうして、だって? コイツらをぜんぶ、皆殺しにするためだろうが!」
 睨みつける。竜は睨みつけられる。人が竜を鋭く睨む。そしてつよくいい放った。
「そうじゃなきゃ、おまえは死ぬ。契約するか、死ぬか。選べよ。契約すればおまえも生きる」
 契約のことを軽々しく口にする人間。契約の詳細を知っているとも到底思えない。竜は複雑な思いを抱いた。竜は死など恐れない。だが、人間と関わるのはごめんだと思い続けてきた。それなのに、こんなかたちで関わり合うことになるとは。そう思いつつも、彼への興味はふつふつと湧き上がってきている。その気持ちにも嘘はつけない。竜はそんな自分自身を持て余してもいた。竜の気持ちなど人にわかるはずもない。だが、目の前の人は爛々と高揚した光りを放った目をしていた。
「契約か、死か」
 ぎらりと光った目が、暗い部屋のなかでもよく映える。むろん、竜は夜目が利くのだが。その光りは生死を彷徨うもののそれではなかった。それほどにつよく強く光り輝いている。これだけ痛めつけられた肉体を持ってしてもなお。強い口調は、さらに続く。竜と人間との契約を知らないものがそれを望んだとしても、その光りは契約についての詳細を知ってもまだ、輝きを失わないのだろうか。それもまた気になるところだ。竜の気持ちは女心のようにぐわんぐわんと揺れていた。そのなかで彼は続けた。まるで、追い討ちかのように。
「契約か、死か。……選べよ」
 時間はそう長くはない。選択するための時間は。生命力に換算すると、どのくらいもつものだろうか。竜は初めて気づいた。自分の余命がどの程度なのか、意外にも自分では知り得ないのだということに。そう、自分で測れると思っていたことが測りきれないとき、竜であろうともそれは不安に変わる。この不安を生んだのが人間だということに、違和感を抱きながら。
『それを選ぶまえに教えてよ』
 目が合う。ぴしり、と冷たい空気が竜と人とのあいだに通る。音が鳴るかのように空気が凍りついた、そんな気がするほどに。竜は見上げながらに人を見下した目をしている。その目について、なにかを感じるような面倒なタイプではない人間は、身じろぎせずに続く竜の言葉を待った。凍りついた空気のなか。
『────…なまえ、を。』
 なまえ、とは個体を識別するための、ただの固有名詞。だが、それに意味があることを竜は知っていた。とおくの記憶のなかで。なぜなら竜は、
「俺の名は、神崎一。親に付けられた名前は一だ」
 ずぐん、と胸の奥に響く。竜はわずかに震えた。名前、固有名詞。ハジメ。それが目の前にいる人間の名前。ただの一体の人間だと思っていたそれの固有名詞を知ること、それがこんなに気持ちが揺らぐものだなんて、竜は生まれて初めて感じた。名前というものが、ただの決められた『語』がまるで意味があるみたいに。
「で?」
 神崎は竜に歩み寄る。竜がぼんやりとしているあいだに、室内の帝国兵らが斬り殺されていた。血のにおいが充満する部屋。この部屋にはできれば長居したくない。そんな思いを抱きながら竜は、神崎の冷たい視線を全身に受けている。彼の問いかけの意味がわからずそのまま静止した。それを汲み取ったかのように神崎はふたたびいう。
「さっさと選べ。──契約か、死か」
 竜とはそれだけの生き物なのかもしれない。危害を加えられないのであれば人間にとってはもしかしたら。竜は顔を神崎に向けて少し寄せた。そして口を薄く開いて舌先を彼へと向けて伸ばす。それは神崎にとっては恐怖と思わなかったのかもしれない。彼はされるがまま、垂れる血液を竜に舐めさせた。身体を固めることがなかったというのが、恐怖ではないのだろうと思う所以だ。
 死にたくないわけではない。この世界はつまらない。ほかの竜というものもどこかに生きているらしいが、それにも会ったことはない。そのせいか、ほかの竜について気になるとも思えないのだった。なにより群れない生き物である竜は、誰かに心を奪われることなどほとんどないといっていい。そう、つまり今の状況は、ばかに珍しい気持ちに陥っているのだと思わざるを得ない。目の前にいる神崎一という一人の人間に対して、その目の輝きに気持ちが奪われているのだという事実に、竜もまた己の気持ちについていけないのだった。だから事実だけを神崎に向けて竜は告げる。
『わかってる? 契約ってのは、竜の力を得る代わりに、お互いの心臓を交換することなんだ。もしかしたら、その交換の儀式のあいだに死ぬかもしれないよ』
 竜が伝え聞いた話では、様々な感情や感触や、いろんなものたちが心臓と心臓との交換の際に、人と竜とに感じられるのだという。竜はそれに耐えうるけれども、人は竜に比べとてももろく、耐え切れず息絶えるものもいるという話も聞いたことがある。もちろん体験談としてではなく、過去にそんなことをどこからか聞いた、のような曖昧なものではあったが。それでも、交換のやり方は分かっていた。これはきっと竜の本能のようなものなのだろう。誰かに教えられたわけでもない、それなのに当たり前に行うことのできるのが契約というものだ。神崎の鋭い視線は、竜からの脅し文句にも屈することはない。
『あと、契約すると失われるものがかならずある。それはとても大事にしてるもの。命以外で』
 契約はどこまでも弱いものにやさしい。だからこそ大事なものを奪うのだ。ふとそんなふうに感じた。神崎は愚問だ、といわんばかりに首を横に振り、その視線はまっすぐなまま竜を見据えている。変わらない意思にもうなにも竜から伝えるべきことはなかった。
『───いいよ。よくわかった、きみの本気が。契約しよう』
 これこそが、すべての始まりにしてすべての終わり。終わりの始まりだということに、竜も人も『女神』も、まだ誰もが気づいてなどいなかった。渦巻く不穏というものに。
『俺の力を使うといい』
(きっと、もてあますのだろうけど)



つづきを読む 2017/10/29 15:46:16