short いきているといえるのでしょうか


いつもの通学路の風景だ。近所のおばさんが飼い犬の散歩をしていたり、私のように学生が学校へ歩いていたり、通勤途中の会社員たちが忙しなく駅へ吸い込まれていったりする。パン屋のシャッターは開いていて、焼きたてのパンの匂いが鼻をかすめる。踏切はゆっくりと閉じられ、電車が轟音と共に通り去っていった。

そんないつもの風景のなかに、もうひとつ欠かせないものがある。

駅前にある亀のいる池。その淵に、いつも座っている人がいる。深緑色の学ランを着ている。色は赤茶の、ふわふわと長く垂れ下がった前髪が特徴的だ。
コンクリートの淵に腰掛けた彼は膝の上で手を組み、駅の周囲を歩く人々を真剣なまなざしで見据えていた。
人を待っているのだろうか、時折誰かを探すように周囲を見渡す。しかしいつも誰も見つからないようで小さく肩を落としていた。

その人はいつでもそこにいた。私は登下校で駅前を通るけれど、彼がいない池を見たことがない。
しかし、私はじろじろと彼のことを観察し続けていた訳じゃない。私が学校で授業を受けている間に彼がどこにいるかなど知らないし、彼を認識していたとはいっても遠くから眺めては「あの人、今日もいる」と思っていた程度で、別段気にかけたことはない。

ともかく彼は私の中で不変の日常風景と化していて、関わることもなくいずれそこにいたということすら忘れてしまうのだろう。



6月。梅雨に入ってじめじめとした空気は最悪だ。
いつもより早く家を出たから駅前の人通りは少ない。しとしとと空が滴を落とすなか、私は傘をさして歩いていた。通学中に雨が降るのはその日が初めてだった。
なんとなく、彼がいるのか気になって池へ視線を向けた。しかしそこには誰もいない。朝も早いし雨も降っているし、彼はまだ来ていないのだろうと納得して通りすぎようとした。

「あっ」

軽い衝撃に思わずよろめく。進行方向にいた人にぶつかってしまった。
見覚えのある深緑色に視線を上げるとそこには彼がいた。
池の周囲を離れることもあるのだなと少しばかりおどろきながら、軽く頭を下げた。

「すみません、余所見をしていて……」
「いや、僕こ…そ……」

不自然に言葉が止まり、不思議に思って顔をあげる。彼は酷く驚いた表情で私を見つめていた。
何か変なことをしてしまったのだろうか。思案しながら、傾いた傘を持ち直す。
ふと気付く。彼はこの雨の中、傘をさしていない。もうずぶ濡れかもしれないけれど、無いよりはましだろう。そう思い鞄から予備の折り畳み傘を取り出した。

「あの、よければ使ってください」
「え?」

半ば押し付けるかたちで傘を手渡す。私の突然の行動に彼は狼狽えていたが、彼が受け取ったのを確認すると私は逃げるように走り出した。

ついとってしまった行動だった。儚げな瞳で誰かを探す姿に毒されてしまったのかもしれない。ただ、彼が風邪をひいてしまうのは嫌だと思った。

「待ってくれ! 君は――」

背中にかかった彼の声に、私は一度だけ振り返った。
駅前の、池を中心とした広場。学校へ向かう道への手前で彼は足を止めていた。
彼はいつでも池の周りにいる。



朝から降り続いていた雨もやんで、綺麗な夕日が町を照らしていた。
しかし私は、心の中のもやもやが晴れないでいた。もちろん今朝の出来事についてだ。
私は毎日彼のことを見ていたが、彼は私のことは知らないのだ。いきなり初対面の人間に傘を渡すなんて、困らせてしまったかもしれない。
なにより、彼は何を言いかけていたのだろう。
悶々と考えていても歩む足は止めずに、とうとう駅前へと着いてしまった。

池の前に彼がいる。いつもとは違い、せわしなく周囲を見渡していた。……私の傘を手に持って。
もしかして私を探しているのだろうか。

「あのっ」
「! ああ、よかった。もう来てくれないかと思っていたよ」

駆け寄ると彼は安心した、という風に笑顔を浮かべる。

「突然ですまないけれど、聞いてもいいかい?」
「はい?」
「君には、僕が見えているんだね」

質問というよりは確認のようだった。
彼の表情は真剣そのもので、私に何かを訴えようとしている気がした。

そして初めて気がついたのだ。彼の腹部に、向こうの風景を見通せる程の大きな穴が開いていることに。

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