思い出を枯らせて 9
触れた唇の優しさを知った。温度を、やわらかさを感じた。 それらは全てはじめてのはずなのに、その姿が、懐かしさと共に記憶の底から溢れ出す。
触れるだけのそのキスは、承太郎は今でもなまえのことを愛しているのだとわかるほど、優しいキスだった。
滴がこぼれた。ただぽたりぽたりと落ちていく。
「承太郎」
名前を、呼んだ。全てを思い出した。彼の背中の大きさも、伝えたかった感情も、なまえの惨めな想いも。
「なまえ……記憶が、」 「私、承太郎のことが好きだった。だから、」
承太郎がなまえの涙を拭おうとしたがその手を掴んで止めた。承太郎の手は濡らしてはいけない。この涙が落ちるのは冷たい地面で充分だ。
「幸せになって」
なまえは微笑んだ。 今のなまえにはこれが精一杯だった。
なまえはそれを無くした時期を明確には覚えてはいなかった。薄暗い地下室で過ごす間はいつも記憶が曖昧になっていた。なまえにとってそれは大事なものだったが、それでも、忘れていなければ自身の心を守ることなどできなかった。 はっきりと線引きがなされたのは、病院で目が覚めるまでの意識を失っている間だった。無意識のうちに、なまえは覚えていることで傷付くことを回避しようとした。そうして、その後は断片すら脳裏によみがえることはなくなった。
なまえが無くしていたのは承太郎の記憶だった。 戻る
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