アネモネを咲かせて ○
目を覚ますと暗い部屋にいた。 気を失う前も暗闇の中だったけれども、すぐに変化に気がついた。 シーツの感触に驚く。ベッドの上に横たわっている。枷のない手足を動かした。 ここがどこであれ、動けるうちにはやく逃げないと。そうだ、逃げなければならない。ここにいてはならない。外へ。 引き戸を開けて廊下に出る。おそらく、ここは病院だ。 幸い誰にも見られることなく、裸足のまま、建物の外へ出た。
あてもなく、暗い道を歩いていく。 遠くの空が薄らと白み始めていた。空から視線を戻したとき、一台の車が、こちらへ走ってきているのに気がついた。 助かるかもしれない。 一抹の希望を抱き、車へ大きく手を振った。
「……承太郎?」
ほどなくして停まった車から顔を覗かせたのは承太郎だった。 どうしてこんなところに。よぎった考えは同時に承太郎の口からもこぼれていた。
「一人で、歩いてきたのか? …体が冷えている、早く戻るぞ」 「な…んで、戻るの? 承太郎……早く逃げなきゃ、また、あいつが」 「待て、なまえ、お前……」
「俺のことがわかるのか?」
「え……なに言って」 「話は後だ、戻るぞ」
承太郎が記憶をなくしたなまえの傍にいたのは、もう二度と手離したくなかったからだ。それなのになまえの記憶はまた離れていった。
もう、なまえが言っていたような誤解はあってはならない。 どういうわけか、なまえの記憶が一段階戻った。これは、俺の行動が正しかったということだろうか。 ならば、となまえの傍から片時も離れないことにした。安直だが、なまえを安心させるために、まずはそれからだと思ったのだ。
目の前にいるなまえは、今にも泣き出してしまいそうなほど不安と混乱の渦巻いた表情で俺を見ていた。
金縛りにあったように動かないなまえを抱き上げて運び、助手席に座らせる。何も履いていない傷だらけの足で、これ以上は一歩たりとも歩かせたくなかった。 車を走らせ、病院へ向かう。その途中、なまえの様子を横目に見る。 拳を固く握りしめて震わせながら、窓の外を見ないようにかずっと下を向いていた。
病室についた頃には、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
「落ち着いたか」
なまえをベッドに座らせ、静かに問いかける。目を伏せたままなまえは頷いた。
「混乱してた、ごめん。少しずつ…思い出してきたよ。あいつはもういないんだった」
あいつ、とは犯人のことを言っているのだろう。
「どこまで、思い出した?」 「え……」
なまえは一度緩んだ肩をまた強張らせた。そして、ぱちり、瞬きをして、無くしたパズルのピースをやっと見つけたかのように、ああと息をこぼした。 戻る
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