アネモネを咲かせて ○
その瞳は目の前の承太郎を見てはいなかった。 名前を読んでも聴こえないようで、空に右手が伸ばされる。
「たす、け……て」
その口から溢れた言葉を聞き逃さない。伸ばされた手を握り、力の抜けたなまえの身体を支える。 その時、消え入りそうな声で呟かれたのは承太郎の名前だった。
「なまえ……」 その数秒だけ、承太郎は記憶のあるなまえをみていた。名前を呼んだのは間違いなく承太郎を知っているなまえだった。
なまえが思い出そうとすれば何度でも、なまえ自身が忘れようとする。 まるでその全てで拒絶されているかのようだ。
「また来てくれたんですね、承太郎さん」 今度はなまえが目を覚ますまで傍を離れなかった。なまえは警戒心の欠片もなくふわりと笑った。
目を覚ますと承太郎さんがベッドサイドにいた。 ええと、たしかこの前は承太郎さんが帰った後に頭痛がして……そのまま眠ってしまったのか。 握られた手があたたかい。 少しだけ寂しそうな瞳で微笑んで、承太郎さんは私の額に口づけをした。 「わ、」 「おはよう、なまえ」 とたんに赤くなって狼狽える私を前に、承太郎さんは嬉しそうに笑った。 もうあの頭痛はない。どうしてか代わりに、胸が痛い。
その日から承太郎さんは一日をこの部屋で過ごすようになった。朝起きるともう承太郎さんはそこにいて、夜は私が寝たのを見届けて病室から出ていく。その後ろ姿をちらりと見た。 病室にいる間は専ら本を読んでいるけれど、大学生だと言っていなかったっけ。こんなところにいていいのだろうか。
以前、承太郎さんは友人だと言っていたけれど。彼から向けられる表情はそんなものじゃないとわかる。承太郎さんは、記憶をなくす前の私をどれほど大切にしていたのか。 それだけ大事にされていて、どうして私は承太郎さんを忘れてしまったんだろう。 承太郎さんと女の人の写真。きっとそれが原因なんだろう。だって、承太郎さんが他の誰かと一緒になるだなんて、そんなの絶対に嫌だ。承太郎さんを忘れてしまえば楽になるはずなのだ。だけど。 ――大丈夫だよ、私。 承太郎さんはここにいる。
「承太郎さん、いつもありがとうございます」 「気にするな。俺が勝手にやっているんだ」
承太郎さんにいれてもらった紅茶とケーキを味わいながら、またいつものように優しく笑う承太郎さんを見る。
カレンダーに目をやると、承太郎さんと二人で花を見に行った日からもう一週間経っている。 それなら、花壇の蕾もほとんど咲いているだろうな。あの花もきっと開いているのだろう。 戻る
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