1.序章



それは、朧げな記憶だった。


英瑠がまだ幼い頃。
たしかに、母と呼んでいた者がいたはずだった。

顔すら思い出せないその人は、幼い英瑠を優しく抱きしめ、何かを英瑠に言って聞かせたはずだった。

思い出せない。

その母が、何を伝えようとしたのか、今の英瑠には思い出せなかった。

しかし、その温もりだけは覚えている。
優しい声で諭すように話しかけてくれたことを覚えている。

幼い英瑠は、その母のことが好きだった。


しかし、その母はもう居ない。
英瑠が物心つく前に病で亡くなったと、父からは聞かされていた。





龍琉、字(あざな)を英瑠。

地方役人の父と、血の繋がらない継母を持つ英瑠は、幼少の頃から人の子ならざる力を発揮していた。

ある時は、近所の子供と喧嘩をすれば、軽く小突いただけで相手は地を転がった。

またある時は、大人が数人がかりで運ぶ荷を、一人で持ち上げてどこに置けば良いか尋ねた。

そしてまたある時は、体力作りのため父が庭で剣を振っていると、目を輝かせてやってきた彼女が剣を手にしたいとねだってきた。

危ないからとそれを拒否した父が彼女を宥めるために棒きれを与えれば、勇ましく棒を振りかぶった彼女が父に戦いを挑んできた。
やれやれという思いで緊張感なく剣でそれを受け止めようとした父は、次の瞬間には剣を落としていた。

何が起こったか一瞬わからなかった父は、どうやら英瑠に棒きれで手を打たれ、剣を叩き落とされたようだと知った。

ちなみにその手はしばらく痺れたままで次の日には痣になり、ひどく申し訳なさそうにしていた英瑠はそれ以来、父に挑むことはなくなった。

こんな光景を立て続けに目にした者は、人から獣の子が生まれただの、そういえば早くに死んだ最初の奥方は得体の知れない人であった、あれはきっといにしえの妲己のような妖(あやかし)だったのだ、だから人ならざる子が生まれたのだ、半人半妖だ……等と、口々に噂した。

父は、それらの噂をする使用人たちを解雇し、英瑠を屋敷から出さないようにした。

しかし、英瑠を産んだ亡き妻の後に迎えた後妻さえもが、英瑠の尋常ではない力を気味悪がるようになり、父は頭を抱え、英瑠の周りから力を必要とする行為を排し、学問と淑女たる礼儀作法だけを教えしとやかに暮らすよう英瑠に求めた。


しかし父の目論みも上手くは行かなかった。

歴史を学び戦場で武を振るった英雄たちの話に興味を持った英瑠は、次第に武芸に興味を持ち、父の目を盗んでは剣などを持ち出して遊んでいた。

それに協力していたのが、後妻が産んだ子……すなわち、英瑠の腹違いの弟だった。

幼少期から賢く神童とさえ言われていた彼は、半分しか血の繋がらない姉に懐き、その途方もない腕力を知り、称賛し憧れた。

たとえば英瑠の振るう武が見たかった彼は、自慢の知恵を巡らせ屋敷の者をうまく言いくるめて配置をずらし、死角をついて英瑠と屋敷を抜け出すと、森で英瑠と狩りに興じたことがあった。

茂みから飛び出してきた猪に弓を向けた彼だったがちっとも矢は当たらず、腰を抜かした弟を庇うように立ち塞がった英瑠は、一刀のもとに猪を仕留めていた。

英瑠の成果に飛び上がって喜んだ彼は、姉様は武芸を極めて将軍になるべきだ!と興奮気味に話していた。

ちなみにその猪は難無く英瑠が担ぎ上げ、屋敷まで持って帰り、驚きと畏怖を隠せない使用人の手によって、夕飯のおかずに供された。

度を超えたこの「おいた」は、後に父にこっぴどく叱られ、継母には忌み嫌われた。


成長とともに英瑠の膂力は増大していった。

しかしもはやそれを節操なく振るうほど子供ではない彼女は、父母の前では大人しく物分かりの良い娘に育っていた。

しかし、夜な夜な彼女が庭で剣を振っていたことや。

知るところには知られた彼女の力を借りようと、お世話にも褒められた筋ではない人間が荒事に彼女の助力を求めてきたり、それにすっかり役人の跡取りとして手練手管を身に付けた秀弟が彼女に協力して成功報酬を得ていたことや。

はたまた、その報酬を息子から没収しておきながら、あの獣の娘の母を務めるのはもう嫌だ、あの子の実母は本当は何者だったのかと後妻が訴えてきたことや。

その後妻との間に生まれた二人目の子……英瑠にとってはもう一人の弟が、上の弟とは違い、人々の悪い噂を信じてしきりに英瑠を忌み嫌っていたことや。

さらに、嫁にも出せば落ち着くかと適当な縁談を見繕おうとすれば、例の半人半妖の噂のためまともな家からは避けられ、やっと話をつけてきた家の男は、下衆な好奇心や物珍しさを隠さないろくでもない者ばかりで、少なくともまともな父親だった彼の方が憤慨して話を無かったことにせざるを得なかったりや。

もはや何もかも手に余ると悟った父は、武を振るうならいっそ悪しき道ではなく正しき道へと、英瑠を地元で有名な道場へ送り、また年若いながらも突出した智謀を持つ弟には中央の官吏の試験を受けさせるべく、英瑠から引き離したのだった。


こうして。

英瑠は道場で正しき心と力の使い方を学び、相変わらず人から請われて力を貸すことはあれど、あまりにも後ろ暗い裏の人間とは関わらずに済み、いつか力を存分に振るえる場所に辿り着くことを夢見て。

その武を、研ぎ澄ましていったのだった。



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