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鬱蒼とした空気を醸し出す、黒い屋敷の一室。

埃と蜘蛛の巣に覆われた屋敷の中で、唯一清潔な状態に保たれているその部屋にカノンは居た。
年頃の娘が暗い部屋に閉じこもり、怪しげな薬を調合している姿はどうも不健全に見える。

先日まで埃を被っていたらしき古い家具や調度品は丁寧に掃除されており、彼女がこの屋敷に住まう者から手厚い歓迎を受けているということが見て取れる。
机やチェストの上には所狭しと薬瓶が立ち並び、空いたスペースには何冊もの本が積み上げられている。そんな部屋のソファに座ったカノンは、こぽこぽと音を立てる薬瓶を見て満足げに頷いた。


「教授が言ってた"均等な大きさの気泡"って、このことだったんだ…」


カノンは夏休みに入ってから碌に外へ出ていないのだろう、彼女の肌はホグワーツの冬景色のように真っ白だ。

何故彼女がこんな生活をしているのか…理由は、数週間前まで遡る。






***






闇の帝王ヴォルデモート卿の復活、そしてセドリック・ディゴリーの死という大事件が起きた年が終わったその日。


カノンは帰りのコンパーメントの中で、待ちぼうけをくらっていた。
彼女はスネイプからの"汽車が止まっても、そのまま降りずに待つように"という指示に従っているのだ。

あたりがシンと静まり返った頃、彼女のいるコンパーメントへ一人の魔法使いがやってきた。
ガラリと勢いよく開かれたその向こうに立つ人、その人の顔を見たカノンは目を丸くして驚いた。



「ミネルバ先生?」
「ええ、そうですよ。大広間で会ったぶりですね、カノン」

にこりとおだやかに笑ったマクゴナガルが、カノンの方へと近づく。

「私、てっきりスネイプ教授かとばかり…あの、こんな手紙が届いたので」
「あら…まぁ、これでは、分からないのも無理はありませんね」

カノンが持っていた簡潔過ぎる手紙を見て、マクゴナガルは小さなため息を吐いた。
彼女はコンパーメントの戸を閉め、辺りに向かって杖を振るう。きっと邪魔避け呪文だろう。他人に聞かれたくない話でもあるのだろうか。

カノンが首を傾げながら見ているとマクゴナガルは彼女の方へと視線を戻し、いつものキビキビとした声で話し始めた。

「さて、これから貴女をある場所に連れて行きます。今年はマルディーニ邸ではなく、別の場所で貴女を保護せよという校長先生の指示がありました」
「ほ…保護?」
「ええそうです、保護ですよ。例のあの人が復活した今、守りの弱まりつつあるマルディーニ邸にひとりで居させるのはあまりにも危険です。私やスネイプ先生もそれに同意して、今年はとある場所に連れて行こうという事になりました」

カノンはマクゴナガルの言葉に頷きながら、帰宅を楽しみにしていた邸宅をぼんやりと思い浮かべた。


「あまり重要なことをここで話す訳には行きませんからね…先ずは移動を始めましょう。ああ、トランクは私が持ち上げますから、あなたはそのまま出てよろしい」

マクゴナガルが指すがまま、カノンはコンパーメントを出て駅のホームへと降り立った。

閑散としたホームは、いつもの活気あふれる雰囲気とは違ってどこか寂れた風景に感じる。
そんな寂しい風景の中から、突然鮮やかな紫色の頭がひょっこりと出てきた。


「わあ! あなたが例の? とっても可愛いのね! 初めまして、私はトンクスよ!」
「あ、え、えっと、初めまして、Ms.トンクス」
「やだ、やめてよそんな呼び方! トンクスって呼んでくれればいいわよ。…あなた、聞いていたよりもずうっと美人ねぇ」

出て来るや否やマシンガントークを発揮するトンクスに、カノンは一歩後ずさりした。2年間もスリザリンで過ごしていると、こういうフレンドリーな人には少々抵抗があるのだ。
だが、トンクスが良い人だというのはすぐに伝わってきて、カノンもおずおずと笑顔を返した。

「あらトンクス、あまりこの子に詰め寄ってはいけませんよ。そういう触れ合い方には、あまり慣れていない子なのですから」
「ああー、ごめんなさい」

カノンの後ろから現れたマクゴナガルがそう窘めると、トンクスは両の眉を下げてシュンとうなだれる。
カノンはなんだか自分が悪い事をしているかのような感覚になり、思わず笑顔で首を左右に振った。

「ううん、大丈夫。年上の友人が出来たみたいで嬉しいから」
「ほんとに!? わあぁ、ありがとう!」

トンクスは落ち込んでいた表情をパッと明るくさせ、カノンへと飛びつく。後ろではマクゴナガルが「トンクス! 大人しくなさい!」と声を荒げた。



「さぁ…あまりここに長居するわけにもいきませんからね、出発しましょう」
「あの、どこに行くんですか?」
「それはね、着いてからのお楽しみよ」

カノンの隣でトンクスがウインクしてみせる。
彼女の明るい言動に、カノンは落ち込んでいた自分の気持ちが少し浮上するのがわかった。

「先ずは中間地点まで姿くらましをします。カノン、あなたは未だ姿くらましを習得していませんから、私と共に行きましょう」
「はい」

マクゴナガルは付き添い姿くらましをするために、カノンへ向かって腕を出す。カノンはその腕を取り、ギュッとしっかり捕まった。
隣ではトンクスがカノンのトランクを手に取り、一緒に杖を振る。

バシッ!という地面を鞭打つような音と共に、3人の姿は跡形も無く消えて行った。








窮屈なチューブの中を無理やりねじ進むような感覚がしばらく続いたと思うと、次の瞬間にはもう一度バシッ!と音が響く。

カノンが目を開くと、そこはまだ夕方にも関わらず夜のような暗さが漂う路地裏だった。
ぼんやりと辺りを見回すカノンをよそに、マクゴナガルは近くにある小さな戸を叩いた。

「到着しましたよ」

彼女がそういうと、その小さな扉がカチャリと開く。

「思ったよりも早かったですね」

そう言いながら出てきた男性。カノンはその人に見覚えがあった。
鷲色の髪に、傷だらけの肌、ぼろぼろのローブを身に纏った男性…リーマス・ルーピンだ。


「ルーピン先生…」
「ははは、久しぶりだね。調子はどうだい?」
「悪くはありません」

カノンがそういうと、ルーピンは彼女の肩に手を置いた。

「背中の傷はどうだい?」
「ええ、もう傷跡も綺麗になりました。マダム・ポンフリーに毎日診て頂いたので」
「そうか…良かった」

ルーピンは息を吐きながら、ニコリと笑った。
きっと去年の学年末からずっと気にかけていたのだろう。

「それじゃあ、急ごうか」と言ったルーピンは、倉庫の中から3本の箒を取り出す。
カノンはそれを見て、なにやら嫌な予感を感じながらマクゴナガルへと視線を向けた。


「今からとある場所へと向かいます。勿論、箒で」
「わ、わ、私も、ですよね」
「ええ。私達は貴女を迎えに行ったのですから、貴女を連れ帰らなければ意味がないでしょう」
「大丈夫! 怖くないわよ」
「飛行中の護衛は主に私が受け持つよ。カノン、君はマクゴナガル先生の後ろに乗って…トンクスは彼女のトランクを頼む」
「オーケー! 落としたりしないから安心してね」

着々と用意を始める3人に観念したのか、カノンはマクゴナガルのすぐ後ろに立つ。


「ああ、忘れるところでした。カノン、少し目を閉じていなさい」

カノンは疑問符を浮かべながらも、言われるがままに目を閉じる。
マクゴナガルの杖が彼女の頭を一度つつくと、そこから冷ややかな液体が全身を包むような感覚が広がった。
それは頭の天辺から足のつま先までを覆い、カノンは一度身震いした。

「目くらまし呪文です。箒に乗っている姿をマグルに見られたくはありませんからね。さあ、箒に跨って…大丈夫ですから。ああ、そんなに腕を閉めては私が動けませんよ!」

目くらまし呪文のせいで見えないが、青い顔をしたカノンがマクゴナガルの背中にしっかりと捕まる。

先ずルーピンが上昇し、次にトンクスが空へと舞いあがる。
2人の合図が出た瞬間に、マクゴナガルはスムーズな動きで上空へと箒を浮かばせた。
上へ、上へと進んで行くにつれ、薄暗い空に彼女たちの姿が溶け込む。


「あ、あああわわ、い、今どのくらいなんですか!?」
「大した事はありませんよ、怖ければ目を瞑っていなさい」
「わ、私っ、5メートルが限界なんです!!」
「では、今その限界を超えることが出来ましたね」

カノンの前で、マクゴナガルがどこか楽しげな声でそう言った。

そして次の合図と共に、勢いよく3本の箒は前へと進み始める。
ロンドンの上空、キングズ・クロス駅からそう遠くない空から、断末魔のような少女の叫び声が響いた。




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