例えばで始まる無限夢想
例えばさ、幸村くんが私のことを好きになったとして、私たちが恋人同士になったとして、それで、それで……。 いつかそんなことを幸村くんに言ったことがある。私の馬鹿げた仮定を聞いた幸村くんは、私の予想通りにその言葉を馬鹿げた物だと一蹴して、それからどうしようもなく切なそうな顔をして、そんな仮定をしたって悲しくなるだけだと言った。幸村くんもきっと私と同じ様に馬鹿げた仮定をしたことがあるのだろう。だから私に傷つきたくないだろ? なんて言ったんだ。そう思ったらすごく切なかったのを今でも覚えている。
*****
「幸村くん、葉牡丹の鉢替えするから手伝って」 「かまわないよ」
帰り支度を整える幸村くんに声をかけたら、数秒と待たない内に了承の返事がかえってきたので小さくガッツポーズをした。部活を引退してからは比較的時間に余裕が出来た幸村くんは私が自分の時間を消費することをある程度許容してくれるようになったのだ。
「そんなに嬉しいの?」
目ざとい幸村くんは私がガッツポーズをしたことに気が付いたらしくいたずらっぽく笑って言った。それに対して私が勢いよく頷くと今度は困ったように笑う。
「俺は期待には応えてあげられないよ」
そんなことは知ってる。知ってるけど、私はそれでいいんだよ。
「えー幸村くんがいたら早く終わるよ」
だけど言葉の真意には気が付かないふりをして笑顔をかえした。幸村くんは小さな声で、それならいいけどと言って鞄を手に持つ。そのときに幸村の頬にさらさらとした横髪がはらりと滑って、彼はそれを手慣れた所作で耳にかける。 ああ、やっぱり綺麗だな。やっぱり好きだな。 間抜けな半開きの口から好きだという言葉が飛び出しそうになった。それを堪えるために顔をしかめると、幸村くんが怪訝な表情を浮かべて私の顔を覗き込んだ。 どうかした? なんて聞かれる。小さく首を横に振って、もう行こうかと言えば、幸村くんは笑顔で頷いて歩き出した。不意に胸が痛んだ。どうしてこの人はこんなにも綺麗に、私の琴線を乱すように作られたんだ、と……神様を呪った。だけど何を思ったってどうしようもないから、黙って彼の背中を追い始める。
*****
私は幸村くんのことが好きで、幸村くんは私のことが好きじゃなくて、私はそれを知っているけどその恋心を消すことが出来ないから彼に付き纏っている。ありきたりで陳腐な片思いの話だ。 幸村くんには好きな相手がいる。そしてその相手は幸村くんのことが好きではない。いや、好きには好きなのかもしれないが幸村くんが望むような意味で幸村くんを好いているわけではないことは確かだ。幸村くんの想い人は幸村くんの好意に気付いていないのだろうし、もしも彼の好意に気付いたら彼から距離を置こうとするだろう。幸村くんの想い人は誰よりも彼の近くにいて、誰よりも彼に愛されていて、誰よりも彼を大切にしていて、だけど決して彼を幸せには出来ないのだ。幸村くんの恋は私のそれよりもずっとずっと年季が入っていて、ずっとずっと重たいものだから、幸村くんはどうしようもなく救われない。そして幸村くんはその報われない恋心をどこかに捨ておいていくことなんて少しも考えていないのだ。
「幸村くん、」
細長い鉢に浅く土を入れてならす。土に汚れた指を見つめていた幸村くんは私に名前を呼ばれるとゆっくりと顔を上げた。
「なに? ……あ、一鉢に何株植える?」 「ああ、四株だよ。五株は入り切らないし、三株だと隙間が空き過ぎちゃうから」 「それじゃあ色は?」 「幸村くんの美的感覚に任せる」 「分かった。それで、なに? さっきなにか言いかけてたよね」 「あ……えっと、」
虚しくなったりしない? なんてことを問おうとしていたのだ。だけど、よくよく考えればその質問に対する答えは私自身が一番よく知っているから、それを言うのはやめた。
「葉の系統も好きなの使っていいから」 「そう? ありがとう」 「幸村くんは切れ葉の葉牡丹が好きだよね」
私がペットボトルで作ったスコップを手にした幸村くんがこくりと頷いた。それから少し驚いたように、
「言ったことあったっけ?」
と、頬をかく。白い頬が土に汚れた。
「去年聞いた」 「そうだったかな? よく覚えてるね」 「まあ、」
好きな人の言ったことだからね、そう簡単には忘れない。
「意外に賢いんだ、私」 「それは本当に意外だ」
幸村くんがさらっと嫌味なことを言いながら鼻で笑う。実際私という奴は幸村くんに一度だって賢いところを見せたことがないから少しも腹は立たなかった。
「これいくらで売るの?」 「バラで売ったら一株五十円、今鉢替えしてるのは一鉢百円」 「それ、バラで買う人いるの?」 「分かんない、先生はいるって言ってたけど」
私は先生に言われるがままに草や花を育てるだけだ。自分が育てた草花がどうやって売られるのかも、どんな人に買われるのかも少しも興味がない。いくらで売れたって私に労働の対価が返ってくることなんてないんだから。
「花好き?」 「好きじゃないよ。だって花って食べられないじゃん、先生に言われなかったら世話なんかしない」
私は幸村くんが花が好きだと知っているからあえてそんなことを言った。幸村くんは小さな声でそっかと呟いて、作業の手を再び進め始める。しばらくして私はもう一度口を開いた。
「嘘だよ。そうじゃなかったら農業クラブなんかやめてる」 「じゃあ俺のことは?」 「……好きだよ」
だけどそんなこと聞いて何になるの? 私に好きだと言われても、幸村くんは救われない。そんなことは私と君が一番よく知っているはずなのに。
「そう言われると少し気持ちが楽になるよ。俺なんかのことを好きでいてくれる人がいるんだって思える」
幸村くんは綺麗に笑って鉢替えした葉牡丹の葉にかかった土を払った。私は土で汚れたタッパーに詰まったIB化成を幸村くんに手渡す。
「嘘つき」 「俺は嘘なんかつかないよ」 「……ほら、またついた。幸村くんは嘘つきだよ。だって本当は私なんかに好きだって言われても虚しいだけでしょ」
私と目を合わせないようにして俯いた幸村くんは、土に汚れた指からIB化成の粒をいくつか落としながらかぶりを振った。
「そんなことないよ、本当に……そんなことない」
幸村くんの嘘つき。私はもう一度言って、作業に意識を集中させた。
*****
「そろそろ終わりにしようか」
土で汚れた手をこすり合わせながら私が言うと、未だ葉牡丹とにらめっこをしていた幸村くんはきょとんとした顔をして首をかしげた。まだたくさん残ってるけど、なんて言いながら私を見つめる。
「いいんだよ。全部鉢替えする時間なんてないし、それにバラで売るのがなくなっちゃったら困るもん」 「ああ、そうか。それじゃあもう帰る?」 「うん、帰ろう」
立ち上がった私は幸村くんに手招きをして水道の蛇口まで誘導する。そうして蛇口をひねって幸村くんがそのスポーツマンだとは思えないくらいにたおやかな手から土を洗い流しきるのを確認すると自分も両の手にこびりついた土を洗い流した。
「水、つめたいね」 「もう冬だもんね。最近はこういう風に外でする作業が堪えるようになってきたよ」 「これからはもっと手伝いに来ようか?」
ビニールハウスの入り口に放っていた登校用の鞄を抱えた幸村くんはそんなことを言って、先に歩き始めていた私の隣に並んだ。
「……私の手伝いをしたら好きな人と、」
帰れなくなるよ、そう言おうとしたのだが、言い切る前に視界にとある人物の姿が入ってきたからその言葉は飲み込んだ。それは幸村くんの好きな相手で、この寒いというのに門の前でずっと彼を待ち続けていらしい律儀な人間で、テニス部の副部長だった男だ。
「よかったね、幸村くん」
これで真田くんは幸村くんの帰りがどんなに遅くなろうと黙って彼が来るのを待つような男なんだって分かったから、やっぱりこれからも手伝いにきてもらおうか。そんなことを考えてから、苦笑する。幸村くんと一緒に作業が出来るのは嬉しい。当たり前だ、私は彼のことが馬鹿みたいに好きなんだから。だけど作業をしている間中ずっと彼を待つ真田くんの存在を感じていなければならないのだと思うと心は晴れなかった。むしろ鬱々としてしまう。自分を待つ真田くんに、落としきれない土のついた手で手を振る幸村くんなんて見たくない。報われない恋だと分かっていて一喜一憂する彼を見たくはない。
「真田」
愛しさを隠しきれない様子でその名前を呼んだ幸村くんは私を放っておいて彼の元へ歩いていった。別れの言葉すらない。分かってはいたことだがなかなか堪えた。そうして私には聞こえない声量でなにやら彼とやりとりをした幸村くんは私の方へちらりと視線を移す。寒さに堪えかねて内腿をこすりあわせる私を指差して真田くんになにやら耳打ちする。すると真田くんは難しい顔をしながらもこくりと頷いてその場を去っていった。幸村くんは後を追わない。
「どうして真田くんと帰らなかったの?」
幸村くんの元へ歩み寄って尋ねる。寒い中待たせておいて一人で帰らせるなんてあんまりだ。さすがの私も真田くんに同情してしまう。
「キミと帰るって言ったから」
幸村くんは曖昧に微笑んで私の手を掴んだ。思わず心臓がどきりと鳴る。
「これからは毎日でも手伝うよ」 「どう、して……?」 「だから毎日こうして手を繋いで帰ろう」 「幸村くん……?」
幸村くんは泣きそうにしている。私は幸村くんに捕まれていた方の手を軽く力を込めて振った。幸村くんの手はいとも簡単に私のそれを離れる。
「きっと真田は毎日俺を待ってくれる。だけど俺は真田とは帰れないんだ。……君と帰るから、君と手を繋いで帰るから、真田には先に帰ってもらうしかない」
そこまで言われてようやく気付いてしまった。幸村くんは私を真田くんへの当て付けのために利用しようとしているんだ。
「……幸村くんは嫌な奴だね」 「どうして?」 「私の気持ち知ってるでしょ?」 「…………」
沈黙は肯定だ。幸村くんは案外自分を偽るのが苦手だったりする。
「私も嫌な奴だから、今からすごく嫌なことを言うね」 「嫌なこと?」 「幸村くん、幸村くんがやろうとしてることは意味がないことだよ。だってそうでしょ? いくら真田くんへの当て付けのために幸村くんが私の傍にいたって、真田くんは幸村くんを幸村くんと同じ意味じゃ好きにならないんだから」 「……だけど、」 「本当は全部分かってるくせに。 例えば私が幸村くんと全く同じことをしたとして、幸村くんは私のことを好きになる? ならないでしょ?」
冷たい外気のせいで頬を赤くした幸村くんが頷いた。私の頬を冷たい涙がつたう。
「……例えば幸村くんが私を好きになったとして、」 「……やめなよ」 「私と付き合うことになったとして、」 「だから……!」 「……例えば例えばって言うけど、私全然思い浮かばないの……幸村くんとの恋人生活なんて、全然」
遂に幸村くんも泣き出した。はらりはらりと涙を流す幸村くんは、どんなに悲痛な表情を浮かべていたって綺麗だ。そして、
「……俺も真田との恋人生活なんて思い浮べられないんだ」
私と同じことを言う。 私たちは似た者同士だ。どうにもならない恋のせいでもがき苦しむ愚か者。そのくせ気持ちの捨て方も知らないから、熟れることのない果実が落ちてくるのをただひたすらに待っている。一生じゃない。だけど果てしなく長い間待ち続けるのだ。
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