そう思ってくれていい
気がついたら、眼鏡の奥のアンバーは、春風と共にやってきた小さな王子様にかっさらわれていた。 青春学園生徒会長兼テニス部部長、手塚国光。 俺の、片思いの相手である。
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俺はおそらく、元々ゲイだった。 どちらかというと興味が向くのはいつだって男で、女に対してはかわいいとは思っても欲しいとは思わなかった。 手塚と出会ったのは一年の後期、生徒会に会計として加入したときだった。手塚は同時に副会長として加入していて、選挙に出ているのを遠目に見て、ああ、好みの顔だな、と思っていた。 ただ、それから。 よろしく、と手を差し出されたとき。生徒会の仕事で放課後は全て潰れる日にラケットバックを持ってきたこと。ふと窓の外を見やる横顔。帰りがけに見た、レギュラージャージを羽織る瞬間。コートを見つめる、どこまでも澄んだ湖面のような、アンバー。
うつくしいものが、好きだった。 俺にはどうあがいたって持てないような、愚直なまでのまっすぐさ、とかそういうものに俺は焦がれてやまなくて、それをうつくしいと表現するのが好きだった。 差し出された、13歳とは思えない堅い手。使い込まれたラケットバック。ふとした瞬間、じれたようにゆがむ横顔。誇り高きレギュラージャージ。眼鏡に隠された、苛烈なアンバー。 手塚国光という男は、まさしく、うつくしいものの固まりであったのだ。 焦がれなかったら嘘だった。 かつて出会ったことのない、美しい存在がそばにいて、好きになるななんて、そんなこと。 だから、ゆっくりゆっくり距離を詰めて、そして、2年の終わり。
生徒会の引継を終え、青春学園生徒会長となったあいつに、俺は告白した。 だめなんて承知の上だったし、実際だめだった。「今はテニスに集中したいので、受け入れることはできない。」とか、じゃあおまえがテニスに集中しなくなるのっていつだよと、場違いにも大笑いしそうになった。そもそも一般的に問題にするべきは同性の友人に告白されたこと、もしくは友人がゲイであったことだ。しかし手塚はそこには全くつっこまず、それ以降も以前と同じように俺に接し続けた。 だから俺も、ただ「生徒会での手塚の友人」というポジションを維持し続けることができたし、せっかく崩れなかったこの場所を、また揺るがそうとはどうしても思えなかった。
そして、桜舞う向春の候。 王子様が、やってきた。
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一世を風靡した、とは言わないまでも、校内を風靡したことは間違いがなかった。「青学テニス部一年ルーキー」の名は。
慣例を曲げた手塚の意図は測れなかった。手塚は先例にこだわるタイプではなかったが、慣例は慣例になり得るだけの理由があると考えて、むやみやたらと慣例を変えるようなこともない。 その手塚が、あえて慣例を曲げ、初めてのランキング戦から王子様を参加させたのは、なぜだったのか。聞いたところで答えてはくれず、測るには俺はテニスを知らなすぎた。 手塚に近づこうとするなら、テニスを始めるのが一番よかっただろう。だが、今から始めたところで幼少期からラケットを握っていたような人種に追いつけるはずもない。その他大勢に埋もれるのはごめんだった。 だから、今まで俺はテニスにいっさい関わらず、青学テニス部の手塚国光から第三者に立つことで、自分の存在を手塚に認識させようとした。 それは、成功していたはずだった。少なくとも、手塚と同学年のテニス部非レギュラーよりは、手塚に近しくいれたはずだ。 けれど、第三者であるが故に、俺は王子様に対する手塚の感情を、見ていることしかできなかった。いや、見ることすらもほとんどできなかったと言っていい。俺はテニス部の練習なんてほとんど見ることはなかったし、校内であの二人が頻繁に交流しているはずもない。けれど、手塚のふとした仕草、廊下ですれ違うときのすい寄せられるようにさまよう視線だけで、俺には十分だったのだ。 大笑いしてやろうかと思った。なぜ惹かれたのかは知らないが、あの堅物が、王子様に。 あの子はついこの間までランドセル背負っていたんだぞとか、からかうような言葉を投げたりもしたのだけれど、そんな言葉でその瞳が揺らぐことなどあるはずもなかった。 だから、もう何もいえなかった。あの子はよくて、なぜ俺はだめなのかなんて茶化してすらも聞けない。もう、それをそばで見続けるしかないのだと知った。
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王子様のおかげか、そもそもベストメンバーだったのか。俺には判断が付かなかったけれど、青学テニス部は近年稀に見ないほど高みに駒を進めていた。それに有頂天になった教師どもは、中継で全国大会の上映会、というものを行った。 生徒会はひたすらに準備に追われ、面倒であるという認識しかなかったが、当日になって初めて、テニス部の試合を見るのは初めてであると言うことに気づいた。 最高列のパイプ椅子に座り、腕を組んでそれを見つめる。なあ、手塚。何で俺は、お前がお前ではないような、そんな不安を覚えているんだろうな。
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全国大会、決勝。青学の部長としての最後の試合は、文字通り、命を懸けるような、そんな試合だった。あんな手塚を、俺は知らない。なぜ、なのだろう。同じ三年間を過ごしてきたはずだった。テニス部と、生徒会。年数は一緒の三年間のはずなのに、なぜ俺は、あの表情を見せてもらえない。
「ずりぃな。」
「なにがあ?」
「いや、手塚はこんなくそめんどくさい準備に参加しなくても良くてうらやましいことだな。」
「はは、そりゃあ、手塚は生徒会長である前にテニス部だからな。」
「……そうだな。」
隣に座っていた副会長が、笑ってそう言った。それに笑みを張り付けながら同意して、唇をかむ。
会長である以前にテニスプレイヤー、であるというのなら。 手塚国光、俺の初恋のひと。 なぜ俺の前に現れたんだ。
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王子様が負ける。 そのとき、体育館に波紋のように広がったのは、手塚に対する不信だった。 いくら何でも贔屓しすぎじゃないのか。青学の優勝をかけた試合に一年を出すなんて。 そんなささやきを、けれどあいつは気にすることなど無いだろう。そして、あいつが気にしないのなら、俺にはどうでも良かった。 あいつは、自分が信用して、任せた相手を見限ることだけはしないと。 それは、王子様のためと言うよりは、自分のためだった。見限られることが無いというのは、俺にもいえることだと、そう思っていたから。 俺は、生徒会の中では一番手塚と仲が良く、そして信頼されていた。あいつが一度一度信頼した相手を裏切らないと言うのは、俺が手塚の中にある居場所を確保し続けるという確信を支えていた。 けれど、一瞬画面に映った手塚、は。
*
「手塚は、なぜあの王子様を使ったんだ?」
「……それをお前に答える義務はないだろう。」
ちらり、こちらを見た手塚は、だけどまるで興味がないとでも言うかのように書類に視線を戻した。 バカな質問だ。以前問うて答えてもらえなかった問いに、再び答えてもらえるはずもない。手塚は言わないと決めたら何度聞いたところで言わない。それとも、言うまでもないとでも考えているのか。 少なくともテニス部の奴らは、手塚が王子様を最終試合に使うことに異議を唱えなかっただろう。テニス部員から見れば、王子様を使うのは当たり前のことなのだろうか。いくら幼くても、一年でも、テニスの実力がひどく高ければ、当然だと。 けれど、テニス部ではない、俺からしてみれば。
「王子様は、記憶を失っていたんだってな。」
「……取材班か。」
「お前が映像に映さないように頭下げたんだって聞いた。」
王子様はあの決勝の時、記憶を失っていたのだという。それを知っているものはほとんどいない。生徒会と放送部で構成された取材班に、手塚が頭を下げたのだという。映像にはベンチを映さず、またこのことは他言無用、と。 そして、俺たちが決勝の試合を見ていたそのとき、テニス部員たちはあらゆる手段を尽くして記憶を取り戻させようとしていたのだと。けれど、それは。
「あの子は、テニスをするしか存在する意味がないんだろうか。」
「……なに?」
「取材行ってた奴がそういってたんだよ。あそこまでして、思い出させなきゃいけなかったのか、ってな。」
青学の全国優勝は悲願だった。だからこそ、部内で一番強いであろう王子様の記憶を何が何でも取り戻したかったのは理解できる。だけど、感情として。 記憶の無かった、不安だったのであろう彼に対してのその扱いは、まるでテニスがなければ意味がないと言うかのようで。 あのアンバーは、まるで、試合に勝てないお前に意味はないと言っているようで。
「手塚は、」
「……なんだ。」
「お前は、王子様のどこが好きなんだ。」
以前問うても答えてもらえなかった問い。答えるはずのないことはわかりきっていたから、これはもはや問いではない。ただ、手塚が答えないと言うことを確認するためだけの、ずるがしこい言葉だ。
「お前は、王子様のテニスが好きなだけで、王子様本人が好きな訳じゃない。」
疑問形で言わなかったのは、そう思いたかっただけか。それを言って、どうなるとも思っていなかった。ただ、そう、ほんの少し。 テニスの王子様にかっさらわれたアンバーが、ほんの少し、目をそらせばいいと思っただけで。
「……そうか。」
けれど、もう。 そのアンバーは、再びこちらを向くことはないのだろう。
「そう思ってくれていい。」
奴が、テニスから目をそらすことなど、ありえないのだから。
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