笑えない話をしましょうか。
物心ついた時から、一つ年上の兄を『男』として見ていた。 緩く弧を描き波打つ黒髪は艶があり美しく、長い睫毛に縁取られた黒目は黒曜石のよう。アルカイックスマイルでさえ艶めかしいものに変える色気に、何回理性が飛びそうになっただろうか。 あの髪に触りたい。あの目に自分だけを映してほしい。あの肌に吸い付きたい。 兄に対する感情としては相応しくない、否、異常とされるそれ。 物心ついた時から、兄に恋をしていた。
「はじめ」
兄に対する恋心を認めた時から変えた、兄の呼び方。貴方を『男』として見ているという、小さな小さな主張。 それに気付かない兄は、少し寂しそうに笑った。兄と呼ばれないことにか、それともまた別か。
「空」
どうやら後者らしい。前者なら「兄さんと呼ばないのですか?」と直接言ってくる。 つきりと胸が痛む。もう分かってしまった。何故兄が、わざわざ会って話したいと言ったのかを。
「ごめんね、遅れて」 「いいえ、呼び出したのはこちらですから」 「でも待たせたのは確かだから」
向かい側に座り、鞄を隣に置く。店員を呼ぶことはしない。離れて暮らしている兄との貴重な時間を、邪魔されたくはない。 兄好みの喫茶店の中を見渡す。直ぐに、学校でよく見掛ける集団を見付けた。背中を向けているので、兄は気付いていないのかもしれない。 その中の一人から、憎悪混じりの視線を頂いた。何かしただろうかと訝しかんだ時、兄に名を呼ばれる。
「どうしました?」 「……何もないよ、ちょっとボーッとしてた。で、話って?」 「早速入りますか……」 「早く終わらして、デートしたいからね」
本当にそうなればいいのにという期待を込めて言った単語に、兄は可笑しそうに笑った。そして何故か、より一層後ろにいる人から睨まれた。刺殺されそうな勢いで。 それに内心驚いていると、あのですね、と兄が話し出す。
「結婚を、申し込まれたんです」
ヒュッと、息を飲んだ。視界から後ろの集団が消え、兄だけが映る。 近いはずの兄が、遠くに感じた。
「そ、う」 「中学卒業したら、一緒に暮らして」 「うん」 「十八になったら」 「もう、いいよ」
続く言葉は、予想出来た。 とうとうこの日が来たか、と目をきつく閉じる。そうでもしないと、何かが溢れ出そうだった。
兄には、三つ年上の恋人がいる。その性別は、兄と同じ男。兄の幼馴染みで、誰よりも兄を愛し、愛されている、羨ましくて憎い恋敵。 兄への恋心を自覚した時には既に、兄は男と付き合っていた。両親も納得済みのその交際を、何度壊そうとしたことか。 結局、兄に嫌われるのが怖くて何も出来なかったが。
喉が異様に渇いた。店員を呼べばよかった、と今更ながら後悔する。
「返事は、もうしたの?」 「はい」 「お母さん達にはもう言った?」 「空が一番ですよ」
一番相談に乗ってくれたのは、空ですから。 そう言って微笑む兄の顔が、まともに見れない。俯くと、優しい手に頭を撫でられた。
「断らないといけないと、分かっているんです」 「うん」 「正式な結婚も出来ない、子供も出来ない、周りに隠さないといけない」 「うん」 「そうと分かっているのに、断れなかったんです」
声だけで表情は見えない。然しそれでも分かる、兄の想い。 兄は悩んでいる。愛する人と添い遂げていいのか。愛する人から本来あるべきはずの幸せを奪って良いのか。 恋人を、男を、心から愛しているが故に。 だから、兄は呼んだ。何時も何時も相談に乗ってくれる妹を。それが、妹を傷付けるとは知らずに。
「馬鹿だよ、はじめ」 「……えっ?」 「あいつはね、はじめを愛してるんだよ。はじめと一緒にいることが、幸せなんだ」
断れば良い。たったその一言が、どうしても言えない。今までと同じように、兄の背中を不本意に押してしまう。
「はじめがいない未来の方が、不幸なんだよ」
その言葉に、兄の手が止まった。顔を上げると、目を丸くして見ている。 否、違う。兄は別の所を見ている。視線の先を追い、ああと納得した。
「ねっ?」
喫茶店の出入口に、兄の恋人がいた。兄を見、顔を綻ばせている。
「行きなよ」
今にも立ち上がりそうな兄に言うと、すまなさそうな顔をした。だが首を横に振ることなく、言われた通りにする。
「有り難うございます、空」
通り過ぎる際に言われた言葉に、天井を見上げる。俯いたら最後、堪えていたものがこぼれ落ちるだろう。 目の前に人の気配がした。視界の端に映るジャージで、先程己を睨んでいた人物だと判断する。
「ねえ。時間あったらさ、ちょっと付き合ってよ」
今更ながらに、目の前の人物が睨んできた訳に気付いた。兄は罪深い人だ、と薄く笑う。
「笑えない話をしましょうか」
兄を本気で愛し、兄の恋を応援してしまい、失恋した妹の話を。
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