かたっぱしから思い出して笑えるような



 若の居ない生活に慣れても、こころに空いた寂しさに一生慣れることは出来ないのだろう。

「萩之介くん、今日は何処へ出掛ける?」

 隣に並んだ、桜が咲き誇るいまの短い季節に似つかわしい色のワンピースを着ている彼女が、思いがけずやさしい声色で問う。くぐもってしまうことを知らない、クリアな響きを持つソプラノから紡がれたというのに、何気ないそのことばが若を沸騰させて、嗚呼、もうきみの声は二度と聴けないんだね、と、思うと、哀しくてたまらなくなった。傍らの彼女は歴とした女性であって。だから、自分と同じ男性で、ちょっとカサカサしたような、意地の悪さが滲み出ているような音吐を持つ若とは、声のトーンが全く異なっているのに。それでも。若が、休日を迎える度に必ず尋ねてくれた『今日は何処に行きたいんですか?』……そのことばが、いまの彼女の唇から紡がれたソレと、きれいに重なってしまったんだ。同時に、未だに、ひとつ年下である彼を思い出して哀しんでいることに満足もしていた。きみの存在が褪せていない自分を誇りにすら思う。別れを告げられたからといって、そこで彼を嫌いになれるわけはないし、ましてや、そこで薄れてしまう愛なんて、本当の愛じゃない。俺の、若への想いは正真正銘の“愛”であって、自分と共に最後まで堕ちることを選択出来なかった彼と別れ
た痛みや、彼への膨大な愛を、たかが365日で忘れるわけがない。当たり前だ。彼と離れたいまでも、俺は別れを告げられた若に囚われている。囚われ続けることに満足もしている。……俺は、彼が居なければしあわせじゃないのだから。


「……萩之介くん?どうしたの、そんなに考え込んだ風にして」
「……いや、何でもないよ。気にしないで」


休日の朝。いまはもう四月の中旬なのだけど、秋の訪れのように涼しくて。空の色は、絵の具の色でも表せないような、壮大なる蒼が際限無く拡がり、気持ちの良いくらい澄み切っている。いたずらな風は頬を引っ掻くようにつめたいけれど、ソレが心地好く感じるし、爽やかなこの時間帯の空気はとても好きだった。俺は夜より、朝の方が好きなのかもしれないね。日曜日だというのに、車の通りがいつもより少なく、空が漆黒の色彩に染まる頃には絶対に聴くことの出来ない小鳥の鳴き声や、揺れる木々のさらさらとした緑の音が、無理に凝らそうとしなくとも、自然と耳にすべり落ちてくるほど穏やかで、とてもやさしい。そんないちにちの始まりに。彼女の提案で、最近新しくオープンしたという、落ち着きと華やかさを備え、尚且つ、フランスの国を連想させるほどにお洒落な外観をしたカフェにやってきた。九時開店ということで、店内はまだ、自分たちを含めても十人にも満たない。天上から注がれるきらきらとした朝の陽光で漲っている雅やかなテラスがあり、庭に咲き誇る薔薇の華を眺めながら、ティータイムの時を紡げる雰囲気のいい店だった。未成年の年代に引っ掛かる自分たちが
此処を利用するのが贅沢に感じられるほど、優雅なオトナの雰囲気がそこかしこから醸し出されている。「素敵なお店だね」と、本音そのままを言うと、彼女はまるで、自分が褒められているみたいに、嬉しさの情を湛えた、はにかみ笑いを浮かべた。『お好きな席へどうぞ』と、にこやかな店員さんに言われ、俺たちは一番奥にある丸いテーブルの席に腰掛ける。おおきな硝子窓からはたっぷりとひかりが射し込み、白い壁紙がその明るさを際立たせる。そんな店内の傍に見えるのは勿論、花々の女王と湛えられる薔薇が空を仰いで、きらきらと華美なオーラを放っていた。ホワイトの色をした菱形のクロースにも、繊細な花の刺繍が施されていて、その上に置かれたメニュー表をふたりで眺める。種類は沢山あったけれど、決まるまでに大した時間はかからなかった。キャラメル・ラテと、ローズマリーの紅茶をそれぞれ選び、メニューの見本として貼られている写真映りの美しさ、というか、美味しさに負けて、俺ときみはデザートにと、レアチーズケーキも頼んだ。朝ご飯がケーキになっちゃったな、と、こころの隅っこで苦笑を零しそうになれば。そこでまた思い出す……若は甘いものがニガテ
だった、と。お祖父さんお祖母さんが好みそうな和菓子や煎餅ならよく食べていたけれど。俺がはちみつをたっぷりとかけたホットケーキや、生クリームがふんだんに入っているロールケーキを食べていたりすると、忽ち、げんなりとした顔付きでいじわるなことばをサラリと吐き出されたものだ。店内に流れる古い洋楽のレコードは全く耳に入り込まず、そう、過去の記憶を鮮明に浮かび上がらせていると、すぐにやってきたレアチーズケーキは、程好い甘さでフランボワーズソースと絡めると、一層美味しくなった。文句の無い味で、このお店の雰囲気に合っている、ひとことの感想を述べれば、まさにそんな感じだった。銀にひかるこのフォークを口許に近付けて若に食べさせたら、きっときみは、苦虫を噛み潰した顔をするんだろうね……なんて。食べさせてあげることなど出来るわけがない。再び逢うことすら、もう叶わないのだから。


「今日の萩之介くんは考え込んでばかりだね。何か悩み事でもあるの?」


至極心配したように問う彼女のソプラノによって、俺は現実に呼び戻される。そんなきみのちいさな右手には、金の縁取りがつき、誰の目から見ても高級品なのだと明瞭している繊細なティーカップ。その中には、自分も好んでいる、香(かぐわ)しいローズマリー。先程までケーキに一点張りしていた顔を上げて俺を見る彼女は、少し困ったような、申し訳なさそうな表情を浮かび上がらせている。言わなきゃよかった、とでも思っているような顔だ。……そのとき、朝の空気を乗せた爽やかな風が、彼女がいま手にしているローズマリーの色にも似た、きみのやわらかな髪をいたずらに撫で、ふわり、舞う。きれいだと、一瞬眼を奪われていたところで俺は唇を動かした。


「ねぇ……きみは忘れられないひとっている?」

「若くんのことを思い出してたんだね?」
「……うん、そうだよ」


彼女は、異端者であろう俺のことをよく理解してくれた上でお付き合いしている。自分がそういう種類の人間なのだと打ち明けたときも、全く驚きはしなかった。『気持ち悪いと思わないの?』と、嘲笑気味に尋ねても『どうして気持ち悪いの?』と、逆に真面目な顔で返されたくらいで、拒絶や不快をこれっぽっちも表さなかった。だからその先も躊躇うことなく、すらすらと話せたのだと思う……自分は、同性である日吉若を愛していて、若を一生愛すつもりでいて、それは絶対変わらないことだと伝えた。日吉若という人間が、どれほど自分のこころを占めている大切なひとか、どれほど俺の人生に置いて欠けてはならないひとかも含めて、すべて伝えて。それでも。彼女は異端な俺を『愛してる』と言った。若のことも含めて、全部の俺を愛すと言った。だからこうして、ふたりで居る。


「……若くんを思い出して、哀しいと思う?」

「そうだね、思うよ。どうしていま、俺の傍に居てくれないのかって、若を恨んだりもする……毎日思い出して眠れないんだ」

「この一年間、ずっと?」


彼女のことばに迷うことなく縦に頷いてみせる。……めまぐるしく変化するせかいの中、一年間ずっと、俺は彼を想い続けている。目の前にいる、自分の視界の中心に映る、このやさしい女を裏切りながら、ずっとずっと、彼は俺の中に在り続けている。彼女とキスをするようになっても、抱き合う夜を迎えても、俺は彼女に愛のことばはひとつも言わない。たとえこの先、雰囲気に流されるように『愛してる』のことばを彼女に告げたとしても、ソレは明瞭な嘘になってしまう。『愛してる』のは、若ひとりだけなのだから。彼にもう一度愛される、それこそが俺の本望なのだ。嗚呼、自分は同性愛者である前に、ひどく愚かで卑しいにんげんなのだろう。


「……萩之介くん。そろそろあなたは幸せになるべきだと思うの」

「どうしてそんなこと言うんだよ……俺は幸せだよ」


考えるまでもなく、返すことばは決まっていた。だから俺が自信満々に言い切って微笑んで見せると、彼女は、花模様の入ったソーサーに音を立てずカップを置いて、両の眉を綺麗に下げると泣きたいような顔で笑い返した。俺の意思が、たとえ何にぶちあたろうと揺るがないことへの諦めを見せて、それ以上説得をするのを辞める。ローズマリーの紅茶と調和しているような彼女は、とてもやさしい。俺の嫌がること、悲しがることはしない。しつこく言えば、俺が嫌がることを知っている、頭のいいひと。せかいでいちばんの理解者だ。……けれど、彼女の言っていることは間違っている。幸せになるべき?


――俺はとっくに幸せだ。


若を思い出して哀しむことは決して不幸せなんかじゃなかった。『貴方を嫌いになったわけじゃありません』と、言った若の最後の後ろ姿は俺を息苦しくさせたけれど。それ以外の彼との思い出は、いつも穏やかに、たとえばそう、朝のひかりのようにきらきらと輝いて、俺のこころを落ち着かせた。彼はナマイキなひとだけれど、自分にとっては、春の日溜まりなのだ。若と過ごした三年間の日々こそが、俺の生涯での、いちばんのしあわせ。彼が視界に映らないいまとなっては、その日々を思い出すことが、たったひとつの至福なのだから。……だから俺は、しあわせだよ。


 いまもほら、こんなに彼を想っているんだから。






main 




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -