その傷が一生残ればいいのにね

好いとう…と大人の男の人みたいなひたむきさで橘くんが言った時には、すでに夏が始まっていたように思う。少なくとも、たまたま二人きりだった部室の温度は一度上昇した。
「俺と…付きおうてみんね?」
橘くんの声は微かに震えていた。私もつられて緊張しながら、それでもしっかりと頷いた。同じ学年のテニス部の部員とマネージャーという立場でしか接したことがなかったけれど、人一倍の練習量をこなしながらも常に笑顔を絶やさず、同級生からは勿論下級生からも上級生からも慕われている彼はすごく好感のもてるタイプだったからだ。あと、伸ばした髪を金色に染めて悪ぶってはいても、人の良さを隠しきれていないところなんかも。
「桔平ー」
橘くんが口を開きかけたのを遮るように、長身の青年が部室に入ってきた。足元がゲタなのを確認するまでもなく、背格好だけで橘くんの友人の千歳くんだとわかった。部活の時間だというのに彼はだらしなく前を肌蹴た制服姿だ。正直言って、私は千歳くんが苦手である。彼は橘くん以外のありとあらゆるもの(例えば授業だとか部活だとか他人だとか)に興味がないように見えた。その癖橘くんにだけははっきりとした執着を見せつけるのだった。
「桔平はまだ帰らんと?」
「おいおい、まだ部活の途中だろ…」
「そんマネージャーさんが桔平の彼女になるんね?」
「聞いてたのか?」
「桔平の声ならいつでも聞こえとうよ」
よろしく彼女さん。そう言って口角を吊り上げた千歳くんの目に、友好の色は微塵もなかった。

「橘くん」が「桔平くん」に変わるまで、一週間もかからなかった。それに伴って私と桔平くんが付き合っていることは周囲に公認になったけれど、それを隠したりせず私を大切な彼女として扱ってくれる桔平くんは誰もが羨む自慢の彼氏だった。アッと言う間に私は桔平くんの虜になった。 「橘桔平の彼女」というブランドは私を 最高にハッピーにした。ただ一人、千歳くんが呼ぶとき以外は。
「珍しかね〜、彼女さんが昼休みに一人でおんの」
「千歳くんが学校にいることのほうが珍しいよ」
「桔平は?」
「後輩の進路相談にのってあげてるよ」
「桔平は相変わらずモテとるね」
談笑しているはずなのに千歳くんの大柄なシルエットは嫌でも私を怯ませた。桔平くんに早くここに来てほしいような、でも千歳くんには会わせたくないような、モヤモヤとした気分になる。
「千歳くん、カノジョつくらないの?」
我ながら随分刺々しい口調になってしまった。千歳くんは一瞬だけゾッとするほど冷たい眼をしてから、ゆっくりいつもの何を考えているのかよくわからないのほほんとした表情に戻った。その変化は水が氷に変わるように劇的で自然だった。この人はこわい。私への敵意を、千歳くんは隠そうとしない。
「彼女さんみたいな可愛い恋人なら歓迎ばい」

千歳くんはずっと桔平くんを見ている。その事実はもう疑いようがなかった。私は彼の代わりにその視線を受け止めて、嗤ってあげることにした。桔平くんは私のことが好きなのだから。私は桔平くんのカノジョなのだから。
「桔平くん、ちゅーして?」
「おいおい、ここでか?」
「いいじゃん…お願い」
「仕方ないなぁ」
桔平くんはなんだかんだ言いながらも、満更でもなさそうに私の唇に軽いキスを落とす。私は廊下にいる千歳くんの存在を全身で意識していた。見せつけてやろう。桔平くんは私のモノなんだ。私のカレシなんだって。
「ずっと一緒に居ようね、桔平くん」
「あぁ」

桔平くんと私は順調すぎる恋人同士だったし、その間も桔平くんと千歳くんは仲の良い親友同士だった。ある日、試合の最中に桔平くんが千歳くんに怪我をさせるという事故が起こるまでは。
「へぇ…まさか彼女さんが来てくれるとはおもっとらんかったばい」
「怪我、大丈夫?」
「大丈夫そうに見えっと?」
千歳くんは病院の寝台の上で可笑しそうに首を傾げて見せた。顔の右半分がほとんど包帯に覆われている様は思わず目を背けたくなるほど痛々しい。落ち込んで、項垂れていた桔平くんを思い出して居た堪れなくなった。このままでは彼はテニスを辞めてしまうだろう。けれど、千歳くんがテニスを続けることが絶望的なこともまた事実だった。
「桔平から、なにか伝言でも?」
「なにも…あれ以来桔平くんと会ってないし」
「そう」
お見通しだった、とでも言うように千歳くんは頷いてそれきり沈黙してしまった。私は今、千歳くんのことしか考えていないであろう桔平くんのことを思う。寝ても覚めても千歳くんに負わせてしまった怪我のことで苛まれて、それでも取り返しがつかないという単純な現実に責め立てられ続ける可哀相な桔平くんのことを。
「良かったね、桔平くんは今千歳くんのことばっかり考えてるよ?」
どうにもしてあげられない歯痒さのかわりに私の唇が吐き出したのは嫌味だった。千歳くんはゆっくり口角を吊り上げた。一生モノの傷を負って、辛くて辛くて堪らないのは彼のほうなのに。
「そりゃ、嬉しかね」
皮肉で返されてしまった。泣いてしまわないように、私は奥歯を噛み締めるので精一杯だ。千歳くんは続ける。
「知っての通り、俺は桔平のこつ好いとうよ…お前さんよりアイツのこと想っとる自信もある」
彼の大きな手が、自分の顔の上の包帯を撫でる。夏はもう終わっていた。気温はまだ高いけれど、それはほんの残骸にすぎない。その傷が一生残ればいいのにね。そしたらきっと桔平くんは、千歳くんへの贖罪だけを考えて生きていくことになるだろうから。




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