例えば君がいなくなったら

微かに青が霞んだ空が夏の終わりを告げていた。鬱陶しい暑さが去ることを祝っているのか、校庭に生えた木々は風に身体を揺らしている。わたしには唄うような葉の擦れる音は確かに秋の訪れを喜んでいるように見えた。暦で見ると秋はまだ先の話だが、きっとすぐに上着を羽織る季節になる。吹きすさぶ風は日に日に身体の末端を凍えさせていき、街を歩く人々は首をすくめてより足早に落ち葉の積もる道を歩くのだ。


何度となく体感してきたこの街の寒さを思い出して、わたしは去年の秋の終わりに鬼道と一緒に食べた肉まんの味を思い出した。部活帰りに、冷えた指先を温めたあの柔らかな熱。持ち合わせが少ないからと、棚の中で一番安かった肉まんを二人で半分にしたのだ。もこっと立ち上った湯気と、鬼道の赤くなった鼻を妙にリアルに思い出す。あの時、わたしはこれ以上に美味しい食べ物にはもう一生出会えないだろうとじんわりと感じたのだ。口内、食道、そして胃からわたしたちの身体を暖めた食べ慣れていたはずの肉まんは確かにその時間の幸せの形だった。



「鬼道って肉まん食べたことあんの?」
「積極的に食べたことはないな」
「ふーん、おいしい?」
「あぁ」



わたしにとっては確かに幸せの形だった。ならば、鬼道にとっては。鬼道はそれが肉まんの形をした幸せだと思ったのだろうか。わたしと同じようにそれが極上の幸福なのだと感じたのだろうか。勿論、わたしは尋ねることなどしなかった。ただ、わたしのした他愛のない問いかけに、仄かに口元を緩ませたのだけが事実なのだ。ゴーグルで目元はわからなかったが、というか湯気で曇っていたのだけれど、わたしは鬼道の口元だけで彼の表情を理解することに長けていた。


無表情のように見えて、彼には確かに表情がある。目は口ほどにものを言う、とよく言われるが、肝心の瞳が隠れてしまっていては彼の微妙な感情の変化についていくのは難しい。だから大抵の人は鬼道にあまり関わろうとしないのだ、というか日常生活でゴーグルをしている人にはあまり近付きたくないのだろう。一見風変わりだから。でもわたしには分かる。彼の微笑み、苛立ち、感謝、さらには愛情まで。


わたしは鬼道の口元だけで彼の感情を理解することに長けている。他の人がわからない彼の感情の変化をいち早く察知できる。それはわたしにとっての密やかな自慢でもあり、誇りでもあるのだ。





○ ● ○





わたしたちが付き合い始めたのは高校一年の若葉が生い茂る季節だった。鬼道は入学式からすでにゴーグルを装着し、特徴的なドレッドヘアーをしていた。それだけならまだしも、当時、彼には妙な噂がついて回っていた。なんでも中学のときにサッカーで日本代表になったとか、世界一になったとか。正直、真偽は確かではない。それは彼の背後で微かにざわめく陽炎のようなただの噂話だった。

その出で立ちと経歴で、鬼道は良くも悪くも有名人だった。そしてわたしは、その妙な出で立ちと経歴に惹かれたのだ。


例えそれがただの噂話にしても、鬼道のサッカーセンスは素人目で見ても息を飲むほどだった。彼は内側から輝いていたのである。一瞬で、彼は他のサッカー部員とは格が違うのだと頭より先に体が理解した。鬼道の身の内から、右足から、目映い輝きが放たれていた。

わたしたちの学校は一応、サッカー名門校で、全国から名のある選手たちが集まってくる。世界で活躍する選手たちを生み出すことでも有名だった。そのなかで誰よりも輝いているということは、つまり、彼はきっとサッカーにおいてとてもすごい人なのだ。





それからほどなくして、この人生で初めて、告白というものをした。もう今では何を言ったかも、何を言われたかもほとんど覚えていない。霞がかったように告白シーンがわたしのなかで朧気なのである。でも、ただ一つだけ鮮明に記憶しているのは、鬼道の寂しそうに歪んだ顔。そのときのわたしは告白したことと、それに良い返事をもらえたことに有頂天で、それについて深く考えなかった。





○ ● ○





あれからもう一年以上たったのかと、わたしは窓枠に四角く区切られた紅葉色の空を見上げた。木々は、まだ紅くは染まっていない。山々の紅葉すら始まってはいない。なのに空がいち早く秋の顔をしていることが何だか不思議だった。


わたしは鬼道が好き。それはまさしく愛情であって、きっとそれ以外の何者でもない。ここまでの月日を彼と共に歩んだ事実はわたしの胸をほんのり暖める。身体の末端、爪の先まで彼との思い出で満ちている。付き合い初めてからのぎこちない会話、冬の始まりに一緒に食べた肉まんの温もり、進級後、また同じクラスになれたときの喜びと、時折合わせた彼の冷たい唇の温度。それらの思い出にわたしの身体は満ち溢れている。わたしはそれが酷く幸せなことなんじゃないかと最近、常々思うのだ。







夕闇が近い。わたしは毎日、放課後を教室で過ごす。帰宅部だからこれはもう日課のようなもので、鬼道と一緒に帰るにはこの方法しかない。サッカー部のマネージャーになりたいとも、部活を見ながら待ちたいとも鬼道に頼んでみたのだが、以前、断固として拒否された。理由を問い詰めてもうまくはぐらかされてしまって結局解らずじまいである。

グラウンドの見える席でその日の課題を終わらせて、わたしは毎日、部活の終わりを告げるチャイムをひたすら待っている。ただ待つことがこんなに楽しいことを理解してからは、放課後のこの時間が至極素敵なものに思えた。鬼道が必ず待っているとわかっているから、一緒に帰る道を想像していられるから、冬には顔が綻ぶし、夏にはじわりと甘い汗をかく。

今日はチャイムが鳴る少し前に教室を出た。一日、一日を過ごすたび、日の入りが早く訪れて、夜を過ごす時間は徐々に長くなり、一気に街は冬を着込む。一際大きな声でカラスが鳴いたのを聞きながら、わたしははやる気持ちを抑えてサッカーグラウンドに足を進めた。






「鬼道…?」


グラウンドの手前、小さな部室の裏で彼を見つけた。夕方のさらに暗いところで立ち尽くす彼に、声をかけるのが憚られる。なんだか、怖い。わたしが見たことのない彼が確実にそこに存在していた。しかも、鬼道と一緒に他に誰かがいるらしい。彼と同じくらいか、もしくはそれより少しだけ背が高い。髪は短くて、サッカー部のジャージを着ている。多分、部員の誰かだ。さらにわたしは鬼道に近づきがたかった。何か話をしているのだろうが、声は全く聞こえず異質な雰囲気は離れた場所にいるわたしのところまで伝わってきた。一緒にいるのはだれだろう、顔が影になってよく見えない。



「…え?」



部室の壁よりに立っていた鬼道に、相手が覆い被さった。それはまさに刹那の出来事だったのだろう。二人の唇が、合わさったように見えたのだ。鬼道を囲うように相手の両手が壁に置かれ、緩やかにお互いの顔が近付き、同じように離れていった。抵抗も何もなく、抗う気配など微塵も感じない。わたしは声をあげることも割って入ることもできなかった。まるでそれは司祭が教会で神に祈りを捧げているような、何か厳かな儀式にみえて、それでもただのキスシーンだったのだ。しかも、彼氏と他の男との。


それから何事もなかったかのように二人の身体は離れ、相手の顔が偶然にわたしの目に写った。こんな偶然なんて必要なかったのに、彼氏とキスしていた相手の顔なんて、知る必要がなかったのに、わたしはしっかりと見てしまったのだ。不動だ。鬼道と同じサッカー部でミッドフィルダーで、鬼道と同じくらい学内で有名な不動明王だった。思いがけない人物にわたしの視線がぴたりと不動に張り付く。赤々とした夕陽は彼の顔を不気味に、しかし美しく照らしていた。表情までは伺えない。彼は始まりと同じくらい呆気なく自然に鬼道から離れ、わたしに気づかないまま部室へと消えていく。



息をしろ。酸素を吸え。ひゅっと喉を空気が通り抜ける音が一つ鳴った。二人は唇を合わせていた?例えば、鬼道の頬についていた睫毛を優しい不動取ってあげたとか。いや、鬼道は普段からゴーグルをしているし、なにより不動は優しくない。仮に二人が話をするにしても、あんなところである必要がない。こそこそと、人目を忍ぶように会う必要などないのだ。鬼道を信じて、自分が今見た光景を否定できないことがただただ悲しかった。



鬼道と不動、彼らが犬猿の仲だということは周知の事実だ。決定的な場面を誰かが見たという訳ではないが、そこはかとなく二人の不仲は噂されているし、なにより二人を知っている人間であればそれはただの噂だと反駁するわけがない。むしろ真実だと肯定するのだろう。ならばなぜ、キスなんて、荘厳な空気を醸し出すような、美しいキスなんて。


わたしはふと、自分が告白した際の、鬼道の悲しげに歪んだ顔を思い出した。あれは、なんだ、つまり、こういう意味だったのか。わたしの胸にすとんと答えが落ちてくる。あの時、鬼道の心のうちにはすでにわたし以外の誰かがいたのだ。そして、それはよりによって、彼と同性だったのである。

二人の逢瀬はわたしと鬼道が付き合う前からあったのだろうか。一体何時から始まって、具体的にはどういった名前の関係なのだろうか。確かめるすべなどあるわけがなかった。ただ、わたしの混線した頭で理解できたのは、初めて帰り道に指を絡めたとき、二人の吐いた息が白く染まって互いに笑いあったとき、部活の休みに一緒に海に旅行に行ったとき、そのわたしたちが一緒に過ごしていた間にも鬼道の頭のなかには常に不動が存在していたということだ。



この距離から見てもわかる。鬼道のことなら悲しいことに、わたしは全てわかってしまうのだ。部室の壁にもたれ掛かって呆けている彼は確かに嬉しそうだった。厳しい練習が終わったからでも、これから暖かなベッドが待っているからでもない。不動と口づけを交わしたという現実が彼の口元を緩ませている。こんな特技、持っているだけ無駄だった、と頭の奥が鈍く痛む。鬼道との交際を全身で喜んでいた一年前の自分を張り倒してやりたくなった。


鬼道がしきりに、わたしに部活に来るなと忠告してきた意味を、ここにきてようやっと理解する。鬼道が時おり見せた自嘲のような寂しそうな笑みの意味を理解する。彼の心は苦しいのだ。わたしと不動の板挟みにあって、秘密を抱えながらも、彼はやはり優しい人だから。他人を傷つけることに躊躇いを覚えてしまうような、悲しくも愛しい人だから。告げられずに、胸のうちに抱えて、一人できっと自分自身を傷つけている。

だとしても、今見たことを鬼道に告げることなど、わたしにはきっと不可能だ。わたしから別れを切り出すなど、サンタクロースは実在するという希望より非現実だ。だってわたしは鬼道が男が好きという事実より、鬼道がわたしといるときより幸せそうにしている現実より、何よりも、いまこの時も、鬼道を失うことを恐れているのである。






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