ナマエは洗面器の前でうなだれるようにして口許を押さえていた。それでも治まらない吐き気に涙を浮かべる彼女は病的に肌が白いせいか、ひどく儚げであった。
ナマエが学生の頃から付き合っている三成と結婚をしたのは数か月前のことになる。それからは、たしかに彼とは子を成すような行為を幾度となく重ねてきた。しかしまだこのようなことになることなんて予想すらしていなかったのだ。 米の炊ける香りは普段ならば食欲をそそるものなのに、今は吐き気をもよおしてしまう。周りの先輩たちが言うような症状にナマエは一つの予想を立てる。外れているかもしれない。けれど、確認せずにはいられなかった。
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産婦人科というものは、なんとなく女性一人で行くのは躊躇われてしまう場所だと、ナマエは感じていた。周りは幸せそうで、伴侶が隣にいる者も少なくない。
三成は外科医である。それもとびきり優秀な。若干二十六歳にして周りの初老の人達でさえ、三成は正当な評価をさせる。それほど、彼は将来有望なのだ。 そんな彼を自分が縛りつけていいのだろうか、とナマエは考えるのだ。 時折、ナマエは三成が怖くなるときがある。彼は秀吉の期待に必ず応えようと努力をする。ときには自分を犠牲にしてまで、それは実行される。 医者になったのも、秀吉が企業を立ち上げたのにある。ここ数年で豊臣は財閥系に負けないほどの大企業に成長をした。医療機関を大本にした豊臣に貢献するために三成は現場へと身を置いたのだ。
別にそれが悪いとは思わない。むしろ彼のそういった危うさにナマエは惹かれたのだ。
「石田さん、こちらへ」
看護師に声をかけられ、ナマエは我に返る。少しだけおぼつかない足取りで診察室に向かった。
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三成が家に帰ると、愛妻であるナマエの様子がおかしいことに気がついた。食事はいつものように用意されているが、食卓に座るナマエがなんともうかない表情を浮かべていたのだ。
「ただいま帰った」 「……おかえりなさい」 「何があった?」 「あ、の……」
どうにも煮え滾らないナマエに三成は少しばかり苛立つが言葉の続きを待つ。 せわしなく腹部を気にするナマエの素振りに三成は違和感の正体に気がついた。ナマエが自分の顔を見ないのだ。何か自分には言えないようなナニかがあったことだけは確かなのだ。
「ナマエ、」
できるだけ優しい声音で彼女の名を呼びやる。反射的に顔を上げた彼女の顔は今にも泣き出しそうで。気がつけばいつの間にかナマエを腕の中にしまっていた。
「何があった?」 「……あ、かちゃん……」 「赤ん坊?」
三成が反芻するようにナマエの言葉を繰り返すと、彼女は力なく頷く。それからぽつり、ぽつりと呟くように言葉を続けた。
「三成との子……出来たの」 「本当か!」
突然のナマエの報告につい、語気が強くなる。三成の声にナマエは、少しばかり怯えるような瞳になる。それは彼にも見て取れたようで首を傾げる。 ナマエが自分との子を孕んだ。何よりも喜ばしいことではないか。
「気に入らないのか?」
思ったままにそう尋ねた三成の言葉にナマエは無言で頭を横に振る。けれどもやはり表情は未だに曇ったままだ。 その矛盾に三成は検討がつかないようで、眉を顰めた。華奢な指がゆっくりと子がいる腹を撫でた。 ナマエのその表情は陰を潜ませながらも優しいもの。
「三成は、」
ようやく理由を話してくれるようで、ナマエは眉を下げながら話し出した。
「私とずっと一緒にいてくれる?」 「無論だ。裏切りを私はもっとも憎む」 「うん。そうじゃなくて……」
口ごもる彼女が言いたいことを察するなんて器用な真似は三成には出来ない。だが、出来ないからこそ三成はナマエを安心させる。ということにおいて才が抜きんでているのだ。
「やっとナマエが私と一生をともにする理由がようやく出来たんだ。手放すわけがないだろう?」 「!三成、」 「私との子を産んでくれるな?ナマエ、」
涙を堪えるなんてことがどうしてできるだろう。悩む必要なんて最初からなかったことに、今更ながら気がついたナマエは気恥ずかしくなってしまった。
それぞれの幸福路
両親に似て色素の薄い肌が印象的な赤ん坊は、自分を抱く父親を凝視していた。感無量と言った様子で子を抱く三成は眉間に皺を寄せ、目を吊り上げている。 周りの看護師達は子供が嫌いなのだろうか。などと憶測を口にするが、それは違う。
「三成、嬉しそうね」 「やれ、我にも解りかねるぞ」 「ああでもしていないと、泣いちゃうんですよ。あの人は」 「あ、ぶー」
言葉などまだまだ紡ぐことの出来ない声が場の空気を和ます。テレビドラマの悪役よろしくな笑顔を浮かべる三成にさえ、赤ん坊は楽しげに笑いかける。
「ナマエ、」 「何?三成、」 「ありがとう」
桜が咲くまであとしばらくの時期であった。
(title byカカリア)
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