海の声を彼は聞く。
それは波の音であったり、潮の流れであったり。ときには太陽の光を反射する具合からであったりする。そんなこと、私には出来ないから、自分を守るだけの力もないからいつまでも土佐に置いていかれるのだ。とナマエは思っていた。
そう考えナマエが小さく溜め息を吐くと、元親に会いにきたらしい慶次が「どうしたんだい?」と心配そうにこちらをのぞき込んだ。純粋な瞳がナマエを映す。
慶次が人好きする性格をしているおかげか、それとも度々、この土佐を訪れるからか。ともかくナマエは最近では随分彼のこのような行動にも慣れた。少しでも心配をかけないようにと笑い
「何でもありませんよ」
と言えば、慶次は己の顎に手をあてる。そしてナマエを見て何か感じるところがあったのか「ははぁん」と含みのある笑みを浮かべた。もうこれだけで彼が何を考えているのかだいたいの予想がつきながらも、ナマエは律儀に「どうしたんですか?」と尋ねる。 その言葉を待ってましたと言わんばかりに慶次は笑い、そして両の腕を大袈裟に広げた。それはまるで歌舞伎のワンシーンのような仕草だ。その行動にナマエは思わず笑みを零す。
「いよっ、恋だね。ナマエ、」 「どなたにでしょう?」 「もちろん元親だよ。今も海に出ているんだろう?ナマエを置いて……寂しくないのかい?」 「ふふふ、そうですね。確かに寂しいけれど……でもそろそろ元親様も帰って来ると思いますよ」
これは予想というよりも、確信に近かった。長年彼の妻として連れ添うナマエもだんだんと元親が海に出ている期間をなんとなく感じられるようになってきていたのだ。 そのように発言をするナマエに慶次は尊敬するように感嘆の声をもらす。
ナマエが暇を持て余す慶次に茶でもたてようと提案をするのとほぼ同時に元親の部下の一人が不躾に襖を開いた。慶次は目を丸くさせ、ナマエは柔らかく笑みを零す。 その反応に男は照れたように頭をかいた。荒くれ者の多い元親の部下たちに品は求められないのだが、彼なりにナマエを気にかけたのだろう。
「どうかしたの?」 「へ、あ!アニキが今し方帰ってきたんすよ。アネキ、行ってあげてください」
日に焼けた肌とは対照的な白い歯が弧を描くのを見てナマエは、きゅうと胸の前で小さく拳を握る。そして慶次を一瞬見やり、彼女らしくもなく走り出した。 女中たちもナマエが珍しく走っている理由に検討がついているようで優しい表情を浮かべて見守る。
しばらく走り普段、元親の舟を停めている海岸線につくと、ナマエは息を切らせた。そして幾人の人の中でも一際目立つ銀髪を見つけ、顔をほころばせる。
「元親様!」 「ナマエ、」
ナマエの呼ぶ声に反応した元親は彼女を抱き留める為に両手を広げる。それにむかいナマエは彼の胸へと飛び込んだ。 潮の臭いのする彼の厚い胸板をこうして感じるのはいつぶりだろうか。この力強い腕にこうして抱き締められるのはいつぶりだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながらナマエは久方振りの夫を感じていた。
「いい子にしてたか?」 「はい。元親様もお怪我をなされませんでしたか?」
心配そうに自分を見つめるナマエに、元親は返事の代わりと言わんばかりに彼女を抱き上げた。不意に近くなる距離にあたふたと顔を赤面させるナマエがひどく愛しく感じられた。 元親は自分よりも一回りも二回りも小さな身体のナマエを慈しむように抱き締める。
周りに野郎どもがいようがいまいが関係などない。 しかしナマエはそうはいかない。
「も……元親様、」 「んー?なんだ?」
周りへの羞恥が勝り、耐え切れなくなったらしい彼女は彼の首に顔を埋める。甘えるような仕草はいたく可愛らしい。 元親はナマエが何を言いたいのか分かっていながらも、彼女を離す気など更々ない。むしろ見せつけてやりたいと、独占欲がむくむくとわき起こる。
しかしその空気は長くは続かなかった。 慶次が空気を代えるように明るい声を上げたからだ。
「お二人さん熱いねぇ!海にも恋の華咲かせようか!」 「慶次じゃねぇか。来てたのかい?」 「おう。ナマエが相手をしてくれていたよ」
同意を求めるように慶次がナマエに声をかける。その親しげな様子には、元親も少し妬けるものがあるらしく腕の中のナマエを降ろしやる。 そしてナマエを置いて、慶次のもとへと足を進める。
きょとんと二人を見つめるナマエをよそに元親は慶次と肩を組む。こそりと、アニキと呼ばれる彼らしくなく小声で話し出した。
「ナマエと何かあったか?」 「は?何かって……」
彼の表情から、そちらの方面には過敏なほどに敏感な慶次は口許を緩めた。 つまりはナマエが自分のいない間に他の男とちちくりあっていなかったかなどを気にしているのだろう。慶次は愛というものを知った友に、彼女が寂しがっていた旨をどのようにして話そうかと思案を始めていた。
やさしい奇跡を教えてよ (その、なんだ……。ナマエ、一緒に海に出るか?) (よろしいのですか?) (おうよ!お前は俺が必ず守るからな)
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