図書室恋愛〜こころ〜

(しかし君、愛は大罪ですよ。
分かっていますか)

ここの本当の司書よりもどこに何の本があるかを把握しつくしているほどの、本の虫―

そういうだけでこの学校に通う者たちは誰のことを指しているのかすぐに分かる。それほどまでに彼は図書室に入り浸っていた。

窓際の一番左の席。
いつもそこに彼はいる。ナマエは胸に一冊の本を抱き、顔を少々強張らせその男に歩み寄る。


「お、大谷先輩。隣、いいですか?」


自主勉強のために図書室を使用するものも少なくないので、周りには座る場所がだいぶ限られている。
緊張ぎみに尋ねてきたナマエを見やると大谷は包帯の下で口許に弧を描いた。

意地の悪そうな、人が気味悪がる声音で笑うと、目元を緩める。


「ヒッヒ、ぬしは我の隣を望むか」
「知り合いが先輩以外にいないんです。その……迷惑ですか?」


他人を気にし、小声になるため大谷の耳元で話すナマエ。そんな彼女に大谷は「なぁに、好きにするとよかろ」と彼にしては優しく微笑んだ。
彼のその表情にナマエは安心したように隣に腰を降ろす。


「夏目漱石の“こころ”か」
「ええ。先輩も読まれたことがおありですか?」


愛しげにカバーを撫でる指。大谷はカタリと椅子を動かし、ナマエに近付く。

ナマエの視線の先は大谷が先ほどまで読んでいた本。ナマエは彼の読んでいた作品名を素早く記憶すると“こころ”を開く。

“こころ”という作品は人間のエゴイズムを描いた作品として有名であり、先生と呼ばれる“私”を語り手に使用している。恋と友情を天秤にかけ、悩み苦しむ様は誰もが胸を痛めるほどにリアルだ。
お嬢さんとKという互いに大切な存在に板挟みにされる心理描写などはまるで自分がそのような状況に陥ったような気さえするほど。

そんな作品を女子高生が好んで読むものかと大谷はナマエを見つめる。

ほんの知識程度に大谷はこんなことを話し出した。


「ぬしはこのような話を知っているか?」


ナマエにだけ聞こえるほどの音量で大谷は話し出す。きょとんとした表情でナマエは大谷の言葉の続きを待った。


「夏目漱石という男は心が酷く弱くてなァ、若い頃から神経衰弱に苦しんだそうだ。ソレがよくなりだしても次は胃潰瘍よ。不憫、フビン」


大谷の話にナマエは真剣な瞳で聞き入る。


「四十三のときに療養で出かけた旅館で吐血をし、生死の境を迷いおった。それから彼は写実性を深めながら人間のエゴイズムの探求をしたそうだ。神経衰弱を再発させてまで書いたのがこの作品よ」
「それは……きっと優しい人だったんでしょうね」


優しいという形容が正しくはないのだろうがナマエはそう言った。大谷はその切り返しを予想していなかったのか目を丸くさせた。
そしていつものように気味の悪い笑い声を上げる。


「ヒッヒ、そうか。人の心の深淵を覗くは優しい、か……。ぬしはまことに甘い、アマイ」
「え?」


そんなこと言われるなどとは思っていなかったナマエは自分が予想していた以上に大きな声を出してしまった。
周りに迷惑をかけてしまったかと思い、周囲を見回すが人もまばらになっていた。司書が訝しげにこちらを見ているのは、きっと本を読まないならば早く帰れという意味合いからだろう。

大谷もその視線に気がついたのか、足の不自由な彼の必需品である松葉杖で床を二度叩く。

ナマエは荷物を持つと大谷の隣に立つ。彼女の肩を使い大谷は立ち上がり「帰りやるか」と言う。

夕日の眩しい帰り道を二人並んで歩くのはなにも初めてのことではない。


「やれ、最後まで読ませてやれなかったな。すまん、スマン」
「大谷先輩は悪くないですよ。それにゆっくり読むのも楽しいですから」


少しだけ口許を緩めるナマエ。


「ヒヒッ、ぬしは本当に……」
「甘い、ですか?」


ナマエは数歩進んで下から覗き込むようにする。大谷はそのような行動をすると思っていなかったのか、目を丸くさせて身体を傾ける。足がもつれ倒れそうになる彼にナマエは小さく悲鳴をあげた。
男にしては薄い肩を支える。大谷は「悪い、ワルイ」と少々申し訳なさそうに言う。


「いえ、私も突然でしたから」
「ぬしは無意識に男を惑わすなぁ。まるでお嬢さんよな」


意地悪く言うのはこれ以上ナマエを自分に近付けないためか。ただの意地悪か。
ナマエはただ目を丸くさせて大谷を見つめることしか出来なかった。


「大谷…先輩?」
「気にするな」


そのとき、大谷は何を思ったのか。
そのようなこと知る術など何処にもない。


図書室恋愛〜こころ〜
(やれ、我も素直になれぬなぁ)
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