その日、妙な時間に目の覚めたグレイ家の従僕(フットマン)は屋敷の裏手で煙草の煙をくゆらせていた。




すると三日間当主の部屋から出てこなかった近侍(ヴァレット)の名前が何食わぬ顔で歩いていたので、声をかけずにはいられなかった。




「いつから近侍ってのは当主の専属娼婦を指すようになったんだ?」





こんな時間に誰もいないと思っていたのであろう彼女は少し驚いた顔で振り返ったが、すぐに表情を変え 冷めた瞳でこちらを見返した。






「いいよな、女は旦那様を籠絡すれば三日サボってもお咎めなしなんだから」


「……仕事に穴を開けたのなら謝るわ」




三日ぶりに部屋からでてきた名前は当主と全く同じ香りをその身に漂わせていた。
本人に自覚があるのかないのか……あれじゃ、所有印(マーキング)だ。





(旦那様もああ見えて案外、独占欲が強いらしい)





正直なところ、従僕と近侍とでは仕事の領域が異なるのだから、名前がいなくとも何の支障もない。

だが、自分が働いていた時に彼女はオタノシミだったなんて嫌味の一つでも言いたくなるところ。



「じゃあ、あの旦那様をオトしたのと同じテクで今度俺も楽しませてもらうとするかね」




名前は従僕の軽口には応えず、彼の前に封蝋をした一通の便箋を取り出した。



「それより丁度よかった。旦那様にコレを渡して欲しいの」


思いがけない話に、男は煙草を咥えたまま眉をひそめた。



「……自分で渡せばいいだろ」


「今から急用ででかけるの。旦那様は眠ってらっしゃるし、私の帰りが遅くなったら代わりに渡しておいて」



強い口調で半ば強引に差し出され、彼は訝しみつつもその封筒を受け取った。



「絶対に開けちゃダメよ?旦那様の王室関連のお仕事に関することなんだから」




そう念を押すと名前は男に背を向け、森の方へと歩いて行った。

__それが、従僕が彼女をみた最期の姿だった。











***







思えばグレイ家に勤め始めたときからずっと、嘘ばかりだった。


(やはり最期まで嘘で終わってしまった)




従僕と別れて森を抜けると、まだ陽の昇っていない早朝の海辺は霧で覆われていた。




名前はまるで屋敷から逃げるように灰色の海の方へと脚を進める。




(はやく、はやく離れなければ。あの場所から……あの人の元から)




もう気がおかしくなってしまいそうだった。


これ以上彼のそばにいると欲張りになってしまう。
気が変わらないうちに、早くあの温かい場所から離れなければ。





チャールズ・グレイを殺せない。
それどころか暗殺対象であり仇でもある彼を愛してしまった。



(彼を殺せない私はフェッロファミリーからしたら……もう用無しだろう)




かといって父の殺害を許せるほど盲目にはなれなず、裏社会に身を堕とした女が彼と共に生きることはできない。


ならば……残された道はひとつだけだ。




きっと恋を自覚した時からこうなることは決まっていたのだ。



何のしがらみも因縁もない。そんな公爵令嬢が羨ましかった。
彼女のように普通の貴族の令嬢として生まれて、普通に彼と出会って、普通の恋がしてみたかった。




復讐も遂げられず、自分を殺した男に娘が心を奪われてしまったなんて知ったら父はどう思うのだろうか?

あまつさえ、その男に身も心も捧げてしまった。




「きっと呆れてがっかりさせてしまうだろうよね……」




切り立った崖の上に立ち下を覗くと、岩場の白波がまるで名前を手招きするかのように潮騒を立てていた。





「結局、私はセイレーンにはなれなかったけど……人魚姫、今ならわかるわ貴女の気持ちが」





ぎゅっと瞼をとじて、眼下の波間に(いだ)かれるようにその身を投げた。



母なる海はまるで深海の姫の帰還を歓迎するかのように、彼女の嘘も涙も何もかもを飲み込んでいった。













……こうして、彼女は海と一つになった。







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