あの頃の記憶が、全くないと言えば嘘になる。自分の意思で自分の手先を動かしていた感触だって覚えている。
でも、違うんだ。
あれは俺の力じゃない。
あくまで林檎の“栄養”で成り立っていたんだ。
ドーピングをやっている運動選手と同じようなものだ。やってるとやってないじゃ、明らかな差が生まれる。それが、俺の頭脳と林檎の頭脳の差。栄養価の違いによるアイロニカルなヒエラルキ。


「このまま動かないと?」
「ホバークラフト状態のままでストップしてるから沈む心配はしなくてもいいが……まず、ここから動けないだろうな」
「車体が重くて流石に泳いで押すのは無理だろうし」
「じゃあフルボトル姉妹たちは、どうなるの」
「どうなるかは、わかるだろう?」


ああ。もう。ほんと。最悪だ。

手詰まりだ。駄目押しだ。
俺にはもう策がない。
なんて役立たずな人間なんだ。
車一つ動かせない。
自分で作った物すら解せない。
誰かを助けることすら出来ない。
なんて馬鹿で浅はかで愚かしい、役立たずな人間なんだ。

――えー、そんなことないと思うけどな。
――萵苣はまあ優秀ってほどじゃないけど、皆とは違う素敵な答えを出せる人だもん。

ああ。なんで、こんなときに、思い出すのが林檎の声なんだろうか。なんで、俺はこんなに、あいつにしがみついたままなんだろうか。
その巡り行く、泡沫のような記憶のなか、一際鮮明に覚えている言葉がある。
それは、あいつの遺言だった。
あいつが、最期の最後に呟いた言葉だった。
いつでもなんでも知ったような口を聞くあいつらしからぬ、非現実的なもの。わかってたくせに。俺が自分を食べるって、わかってたくせに。それでもあいつはその瞬間。ちょっとした後悔を、小さく吐いていた。

――あーあ………。


――私まだ、この車に乗ってなかったんだけどな。


なんでお前は俺を恨まない。なんで死に際にそんなことが言える。いやだ。うんざりだ。思い出すに耐えない。でも、忘れたくない。あの匂いも、あの笑顔も、踊るような仕種も、達観したものの見方も、息遣いも、目の彩りも、発した言葉の、一字一句だって。


――私、萵苣に言わなきゃいけないこと、まだまだ沢山あったんだよね。


一字一句、だって……覚えている。
そうだ。
確か、あいつは。
俺に、なにかを、言っていなかったか?


――まずね、私、完璧ってつまんないと思うんだ。
――だから、“何があっても”、怒らないでよ。


違う。これじゃない。
これじゃない。
見透かしたようなあいつのことだから、薄気味悪いあいつのことだから。だから、だから。もしかして。思い出せ。俺。


――赤いカゴあるじゃん? ブルーシートがかかってるの。棚の上のやつだよ。


ああ。
覚えてるよ。
林檎。
お前の言葉。


――あれ。


俺とお前の記憶。
忘れるわけがない。


――使っちゃっていいから。


「やってくれたよアイツは!」


俺はホバークラフトから飛び降りて、腰まで浸水していた水濁を掻き進んで行く。
背後から三人の動揺が聞こえるが今は無視しておいた。
俺はあたりを見回す。

覚えてる。
覚えてる。
見慣れた景色だ。
俺のラボは――――すぐそこだ。

ビシャバシャバシャリと懸命に水を掻く。なんて重いんだ。手足に纏わり付いてくる海の魔物のようじゃないか。隙あらば引きずりこもうと画策している。でも、俺はもがきながらそれをかなぐり捨てた。
半分以上の体力が削がれたあたりで、見慣れた、けれどとても懐かしいプレハブ小屋にたどり着く。まだあったんだなと少しほっとした。
確認しないとわからないが、多分水が重くてドアを開けられないだろう。だが今俺には確認している時間なんてない。だから俺は助走を付けて体当たり、ドアをぶち破った。
流石ボロいだけはある。
一発で入れたぞ。
水は部屋になだれ込み、少し水に浸った。
もしかしたら今の水流で濡れてやしないかと懸念したが、その必要はないようだ。
その、彼女のように赤い“カゴ”は、棚の上にある。
どこまで見越していたんだ。
あの女は。
恐ろしすぎて鳥肌が立つ。
そうだ。そういえばあいつは初対面で。
“あっ、これ返すね”
スパナを渡してきた。
お茶目なあいつのことだ。エンジンどうこうの話をしていたとき。もし俺が林檎の力を借りたいと申し出ていたら、“ふっふっふー、これだよ!”などとウインクして取り出していたに違いない。演出極まりない。それともやっぱり、最初からこの状況を予測していたのかも。
どっちでもいい。
きっと、あいつは、本当に全てを“知っていた”だろうから。



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