誰かが死んだとき、まず忘れてしまうのは、その人の声らしい。

“私のこと、食べてみない?”

歌うような、甘いソプラノ。楽しそうで、幸せそうで、胸に溢れてくるような明るい調べ。
――――覚えてるよ、林檎。
たとえたったの数時間でも。
そんな関係だったとしても。
呪文のような言葉も。
誘惑めいてた言葉も。
何一つだって欠けることなく。
当たり前だ。
忘れたりするもんか。
全部が全部、あいつと俺を繋ぐ唯一なんだ。
今でも夢か幻かと思うくらいの細く弱い現実を。
確かなものにしてくれる。
大切なんだ、大事なんだ。
嘘みたいな本当を。
刻みつけてくれる愛しい音色。
忘れてない、忘れてないさ。


“×××、××××××××××××××××”

お前の言葉、忘れるわけがない。



*****



それは、ホバークラフトと化したレタス号三世で《バベル》へ向かっていた、まさにそのときのことだった。
波を渡り。木々を縫い。
賢明に走り続けていたレタス号三世が。


「…………っそだろ」


エンストした。

車内は少しの熱が充満している。ふしゅわしゅわとボンネットから白い煙りのようなものが湧いている。水が飛沫いて奇妙な熱を冷まそうとしてくれてはいるが、正常な動作に戻すという点では役には立たない。
凍るような悪寒のあと、じいんわりと身体の芯が熱くなっていく感覚。
隣では愛のお嬢ちゃんの驚愕の吐息が聞こえる。


「っそだろ……………。う」


動かない。
動かない。
車が、動かない。


「――っそだろ! 畜生!」


俺は車のドアを開け、ホバークラフトの浮き場を伝い、ボンネットへと向かった。慎重に触れてみるも存外熱くはない。
魚と硝子は焦燥げにこちらを見ている。愛のお嬢ちゃんも車から飛び出してボンネットに駆け寄ってきた。
俺は、がぱりとボンネットを開ける。そして、その光景に、息を呑んだ。


「…………お嬢ちゃん」
「うん。わかってる。言いたいことは、勿論わかってるよ」
「そうか。なら話は早い。お嬢ちゃんアンタ……わかるか?」
「――――わかんないよ」


やっぱりな、と、俺は小さく声を漏らした。

レタス号三世がエンストした。
ざっくばらんに言うと。
車が、故障した。
故障したなら直せばいい。
運よくこの場には、機械工学専であり開発者でもあるこの緑川萵苣と、乗り物大好きなトランスポータヴィア愛上尾愛がいる。そしてトランクには道具が詰まってる。ツいている。不幸中の幸と言ってもいいくらいだ。未来は明るい。すぐにでも修理するなりなんなりして復活出来ると、誰でも思うに違いない。

でも現実はそうはいかない。
好条件でもなんでも、そう上手くはいかないんだ。


「……ねぇ、萵苣くん」
「なんだよ」


だってこれは。
この発明は。


「どこにエンジンがあるの?」
「わっかんねぇよッ!」


赤果実林檎の力を得て成る発明だからだ。

レタス号三世を作っていたころの俺は、元ある俺の頭脳と、神童である赤果実林檎の頭脳で、飛躍的に明晰した、かつてない賢者だった。誰も辿り着いたことのない境地へと行き着き、されど腐り果てることはなかった、そんな存在。あのときの俺は世界一頭がよかった筈だ。何をどうすればいいかを本能の域でわかっていた。だからこの車を作ることが出来たのだ。完成させることが出来たのだ。
でも。
だからと言って。
それは過去の栄光だ。
今の俺には。
緑川萵苣には。
そんな力――――ないんだよ。


「くそ、なんなんだこりゃ!」


黒光りしながら七色に点滅するライト。不思議な薬液の入った四本のフラスコ状の棒に、意図も知れないパイプの数々。固くボルトで閉ざされた鉄塊、奇怪な形で接ぎ合わされた錆色の歯車。
なんだ。
なんなんだこれは。
こんな車の“ナカミ”、見たことがない。


多分、レタス号三世を作っていたときの俺は、大部分を“林檎”に浸蝕されていた。あの林檎に、だぞ? わかるか、これが、どういう意味か。
あの規格外な天才の考えることなんて、規格外でしかないんだ。最早このレタス号三世は――“車”と呼ぶにはあまりにもあまりすぎる“ナカミ”を、搭載してしまっているのだ。こんなのは車じゃない。車の形を模した、未知の最先端のトランスポートだ。
未知の代物に、俺とお嬢ちゃん二人で相手取れるわけがない。


「うわばばばばなにこれなにこれなにこれっ! ホントにこの車アタマオカシイよ!」
「おい! それはコイツに対する侮辱かゴルァ!」
「ちょ、萵苣くん製作者なんだからわかるんじゃないの!?」
「わかんねぇんだよそれが!」
「役立たず!」


うぐ、と俺は息を呑んだ。
だってしょうがないだろ。
わからないのは当たり前だ。


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