「っは………ぁー………やっちゃった……」
手を離すと。彼女の口元には深紅が浮かんでいた。手の平にはぬちゃりと、また、深紅。
紛れも無い。
血だった。
「…………それ」
「ん? ああ、血」
「見れば、わかる」
けれど。
殴ってもいない相手から血が出るのは、彼にしてみれば初めての経験だった。
そう、信じられない。
なんなんだ。
この儚さは。
この脆さは。
この弱さは。
生きているのかが怪しいくらいに脆弱で虚弱で貧弱で。
まるで傷ついた霊獣のようだ。
「……保健室まで、運ぶよ」
「いい……このままじっとしとくから………あのね、なんか、吐きそうなの…………アンタの制服、汚しちゃう」
そうやってまた目をつぶる彼女を彼はただ見つめていた。
弱い。
なんて弱い。触れば壊れてしまいそうで、触れられない。
でも、命知らずな強さが潜んでいる。向こう見ずな強さが滲んでいる。
こんな生き物は初めてだ。尊い宝石を見つけたような、そんな言い知れぬ感覚に、鳥肌が立った。
「……いいよ」
彼は彼女の細い腕を掴む。
「そんなの、洗えばいいし」
「……ふ、あはははっ……」
壊さないように。
傷付けないように。
慎重に。慎重に。
これ以上ない柔らかな力で、彼は彼女を抱いた。そのままゆっくりと持ち上げると。信じられないくらいに軽かった。ちゃんと食べているのかとか、そういう問題じゃないくらいに。
「……優しいね、君」
「え?」
「あははははっ…………名前、教えてよ」
「……誘誘」
「ぷっ、面白い名前……じゃあ、誘くんだ。あたしは戦争谷騒禍」
「強そうな名前」
「弱いけどね…………誘くんは、強そうだね」
彼女はそう言って、彼の手を撫でる。
「いいなあ…………ははは」
「……………」
「誘くん」
「なに」
「ありがとう」
その言葉がじんわりと胸に広がった。薄く「どういたしまして」と返すと、彼は保健室へと向かう。
(なんだろう)
(これ)
(なんか、変だ)
(気持ち悪い)
(気持ち悪い、けど)
(――――けど?)
足でがらりと戸を空けると、誰もいなかった。適当にベッドを借りて、彼女を横たわらせる。神事を行うかのような、慎重な動作だった。
髪はシーツの上にちりちりと散らばる。見るだけで胸を締め付けられるほどか弱いこの生き物に、彼の目は釘付けになった。
「…………寝た、のかな?」
死んではいないかと不安になって彼女の口元に顔を近づける。小さいながらも確かな吐息。彼はほっとした。
「……………」
彼はその寝顔をじっと見つめる。
傍で、ずっと見ていたかった。
見続けていたい弱さだった。
不気味なくらいに儚くて弱くて脆くて。だからこそ強く美しい。その美しさに、果てなく魅せられていた。
ずっと隣にいたい。
見続けて、魅続けたい。
《強さ》が《弱さ》に負けて、砕け壊れてしまうまで。
「でも」
こんなに弱い生き物の横に、自分がいてもいいのだろうか。壊しはしないだろうか。傷付けはしないだろうか。
こんな綺麗な生き物を、殺してしまいはしないだろうか。
彼女みたいに弱い存在の傍にいるのには、自分はまさしく相応しくない。
「……………」
彼は、彼女の額を撫でた。
そして、ふんわりと笑う。
「騒禍…………ううん」
なら。
「“騒禍ちゃん”」
なら。
自分もそうであろう。
優しくなろう。
彼女を壊さないように。
柔らかく優しい存在に。
彼女と一緒にいるには、優しくなるしかない。
「えへへ……騒禍ちゃん」
そのときの彼の笑顔が、まぼろしい優しさと歪みに満ちていたことを、眠れる彼女は悟れなかった。
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