夢患いの診療録 | ナノ
泣き虫はもういない 1/6

 放課後。僕は、保健委員集会のため、校舎西棟の三階にある小会議室にいた。
 基本的に活動の薄い委員会ではあるが、体育祭や文化祭などのイベント前や、光化学スモッグが予想された際など、適宜の会議が開かれる。今回は六月に開催される体育祭に向けての集会だった。意気軒高校は二学期十月に文化祭を設けているため、体育祭は一学期で催すのだ。体を動かすぶん、怪我の多いイベントとなるため、保健委員はリレーションを図り、有事に備えなければならない。
 というわけで、保健委員である僕も、今日、この集会に出席する必要があった。
 現在は、教室掃除で参加が遅れている生徒を待つ余暇だ。僕は最後列に居座っているため、前列のがらんどうぶりがよく見える。集合にはまだ時間がかかるはずだ。あまりにも手持無沙汰だった僕は、白虹の見える青空を、窓から一人分空いた席で眺めていた。
 これから梅雨を迎えるはずの空は、そんなことを意に介さないほどの快晴。新緑をさらに青々と磨きあげ、陽気の乗った風で爽やかに揺らす。麗らかな眩さに僕の自然と目は細められた。
 そこへ、窓の外の長閑のどかを遮る者が、視界に現れる。
 ある女子生徒が、最後列の窓際の席、僕の左隣の席に腰かけたのだ。窓から浴びる光のほとんどを吸収し、影を生みながらも眩輝する。
 虫も殺さぬような、儚げな少女だった。黒のカーディガンに映える、ビスケットのように香ばしい茶色の長髪。風に吹かれながら閃くその一本一本は光芒にも見えた。まるで挿絵本から飛びだしてきたラッカメア・フェアリーのような清らかさだ。そんな風貌とは不釣り合いの、獰猛な獣に嵌められた首輪のような、黒いビロードのチョーカーをつけている。
 外の景色を眺望するのをやめ、僕は黒板のほうを向いて頬杖をつく。特に見たいものがあったわけでもなし。眺めつづけるのは彼女に不躾だろうと思ってのことだった。
 しばらくして、空いていた席は埋まっていき、集会が始まった。司会を務めるのは、保健委員長である三年生の先輩二人だ。出席を確認するため、一年生から順番に、名簿の名前を読みあげていく。
「一年三組、焼野原やけのはらいくささん」
 僕の左隣に座った先の彼女が、か細い声で「はい」と答える。
 本当に小さな、消え入りそうな声だった。まるで羽音だ。風を切る鏑矢のような矢羽ではなく、耳元でなければ拾いあげられない虫の翅。隣にいる僕でさえやっとなのだから、黒板の前に立つ委員長の耳には、届くはずもなかった。
「焼野原さん。いますか」
 もう一度、委員長は彼女の名前を呼ぶ。
 彼女ももう一度、「はい」と返事をする。
 さきほどよりは大きかったものの、やはり委員長には届かない。
 委員長は困ったような顔をし、一年三組のもう一人の保健委員である男子生徒に「遅刻ですか?」と尋ねる。男子生徒は気まずそうな顔をして、「い、いえ……」と首を振り、おもむろに焼野原かのじょのほうを見遣る。委員長は視線の先を追い、やっと焼野原を見つけた。少し驚いたように目を見開かせ、咎める声音で「焼野原さん」と呼んだ。
「はい」
 鋭い声だった。あのか細さとは別人のような、凛とした、芯の強さ。声だけでなく、その眼差し、横顔に至るまで、高潔な牙が宿っている。
 焼野原を呼んだ委員長は怯んだ。顔を強張らせながら、「返事はちゃんとしてください」と告げた。
 僕は口を開こうとして、逡巡、焼野原を見る。
 焼野原の牙は抜け落ちていた。さっきの鋭さは微塵も感じられない。いまにも溶けてなくなりそうなほど儚い姿で、縮こまるようにして俯いていた。
 その様子は実に奇妙に思れたけれど、やっぱり僕は口を開こうとした。
 しかし、委員長が僕の名前を呼んだので、僕はそれに「はい」と返すに終わった。
 もしも覚えていたとしたら、僕はこのことを後悔したと思う。







「体育祭のリレーで思いっきり転ぶ夢見たんだけど……不吉だよなあ。ネットの夢占いで調べたら、トラブルに巻きこまれる前兆なんだってさ」
「お前、僕というものがありながら、夢占いなんてやってるわけ?」
 下校路を並んで歩きながらそんなことを言う鬼林に、僕は「恩知らずな患者だ」と呟いた。
 委員会後、僕と鬼林は二人で下校していた。普段なら弓道部に勤しまなければならない鬼林だが、今日は部活が休みらしく、「委員会あるんなら待ってるから、一緒に帰ろうぜ」と僕を誘ったのだ。一緒に帰ると言っても、僕は徒歩通学で、鬼林は電車通学なので、最寄り駅に着くまでの話だ。鬼林の悪夢を治療して以降、こういう機会が増えてきた。
 鬼林は、悪性の正夢の夢見主だった。
 性質たちの悪い夢に神経を擦り減らし、現実化現象に苛まれた、僕の一人目の患者だ。
 先日の施術を経て、正夢を見る頻度は減ったものの、まだ全快とはいかない。経過を診るために、闘病時代の朝の日課である夢報告は、いまも継続している。鬼林の朝練が長引いたときなどは、放課後に持ち越して行っている。今日も例のごとく、帰路のすがら、僕は鬼林の夢に耳を傾けていた。
「じゃあ、俺の主治医にも聞きたいんだけど、この夢ってどういうことだと思う?」
「夢は不安の表れって言うからね。それでじゃない?」
 そういえば、鬼林はクラス対抗リレーのアンカーに選ばれていたのだ。クラスの中でも足の速いメンバーを募り、最後はくじ引きで決めたのだが、さしもの鬼林でも、本命の陸上部員や、走るのに慣れたスポーツ部員を、彼らのフィールドで下す自信はないらしい。鬼林は「俺、どっちかって言うと持久走タイプだし」と不安そうだった。
「死ぬわけでもなし、気楽にいけばいいと思うけど……そんなに嫌なら辞退すれば?」
「や、別に、嫌ってわけじゃねーの。むしろ、リレーを走るのは楽しみなんだよ。本番でも転ぶんじゃ、って心配なだけで」
 他の人間の夢なら一笑に付せても、憑かれていた鬼林の夢となれば、心穏やかとはいかない。いくつもの夢が正夢となり、それに苛まれた鬼林自身、危惧しているのはまさしくそれだろう。
「僕から言えるのは、考えすぎるのもよくないってこと。夢は記憶や感情の整理だから、お前が不安に思えば思うほど、それは眠りに影響し、夢として反映される。そして、今度はその夢が現実に影響する。対悪夢で言うなら、忘れてしまうくらいがちょうどいいんだ。思い悩めばそれだけどつぼにはまる。悪循環だ。そして、それが悪夢だ」
 その悪性に、人間は耐えられない。鬼林の正夢は後遺症なく退治できたが、もっと厄介な夢が相手だったなら、ああも簡単にはいかないはずだ。
 しばらく歩いていた僕と鬼林は、人通りの少ない道へと差しかかった。この近辺は区画整理の途中段階で、だだっ広く均された土地に、公園広場と遊歩道があるだけの、閑散とした場所だった。煉瓦を敷き詰めた道の向こう側には、夥しい赤詰草。この草原の中を突っ切ってゆけば、すぐに線路は見えてくる。そこで僕らは解散となるわけだが、
「あれっ」
 鬼林の足が止まった。
 つられて、僕も停止する。
 鬼林はある一点を見つめていた。僕もそちらへと目を遣ると、意気軒高の制服を着た二人の女子生徒がいた。どちらも見覚えがあるような気がして、首を傾げる。そのとき、片方の女子の長い髪が、香ばしい光芒を描く。その様子を見た僕が思い出すより先に、鬼林は口を開いた。
「……五里霧中の焼野原」
 僕は驚いた。まさか鬼林も彼女を知っていると思わなかった。しかし、よくよく考えれば不明な発言をしていたのに気づき、僕は「五里霧中?」と鬼林に尋ねる。
五里霧ごりむ中学校の、焼野原。ほら、俺の異名である意気軒高のウィリアム・テル≠ニ似たようなもんかな」
 その異名は一寸も聞いた試しがなかったが、眠れば忘れる程度の情報だと納得する。
「ていうか、枕部、知らないのか? 俺の中学校でも有名だったぜ、五里霧中学校に、やばい女子がいるって。お前なんて地元なんだから、そういう噂だって聞いたことあるだろ」
「さあ……やばいって、なにが?」
「小学校のときに、同級生の鼻を折っただとか。担任の先生に怪我させただとか。一度キレたら手がつけられない問題児らしい。意気軒高に入学したってのは知ってたけど」鬼林は眉を上げる。「……やっぱり、噂は噂か。一匹狼みたいな女だって聞いてたのに、ちゃんと友達もいるみたいだし。ただの普通の女の子だ」
 鬼林はそう言っていたけど、僕は友達≠ニいう言葉が腑に落ちなかった。あの女子生徒が保健委員の焼野原だと気づくと、その隣にいる女子生徒のことも思い出したからだ。彼女は、焼野原を叱責した三年生―――先輩である保健委員長だ。
 一年生の焼野原と、三年生の彼女の接点は、保健委員であること以外にないはずだ。友達というよりは、ただの委員会の先輩後輩である。そして、今日の集会で一触即発の空気を生みだした当事者だった。
 委員長は焼野原になにか言っているようだった。焼野原は、肩にかけた革製のスクールバッグをぎゅっと脇に締め、俯いている。それが先刻の彼女の姿と重なり、儚く見えた。
 しばらくすると、焼野原が顔を上げた。縮こまるように丸まっていた体躯が正され、高踏な背筋を描く。まるで別人のような変わり身だった。
 その異様な変貌に、まただ、と僕が思うのも束の間、鬼林が「ん?」と不思議そうにする。
「なんの音だ? これ」
「え?」僕は首を傾げる。「なにが?」
「なにって、これだよ。ルルルルルって鳴いてるだろ」鬼林は虚空を指差した。「コオロギか? 優雅だなー。いきなり鳴りだしたから、びっくりした」
 鬼林は音の正体を探すように、赤詰草畑を眺める。
 しかし、僕は首を傾げたままだ。僕の耳はそんな音は拾っていない。第一、こんな時期にコオロギなんてありえない。
 僕は視線を焼野原に戻した―――次の瞬間、焼野原は、委員長の頬を勢いよく叩いた。
 乾いた音が反響なく鳴るも、その余韻を感じる間もなく、焼野原は畳みかける。まるで鞭のようにしなやかな動きで、委員長を蹴り飛ばしたのだ。
 委員長は、短い悲鳴を上げ、地べたに倒れこんだ。
 その声で鬼林はハッとなる。二人に駆け寄り、「おい!」と声を荒げた。
 しかし、焼野原が怯むそぶりはなかった。肩にかけていたスクールバッグを下ろし、肩紐を掴んで振りかぶる。
 バッグの重みが委員長に直撃する寸前で、鬼林は焼野原の体を突き飛ばした。委員長を庇うように前に出て、ふらついた焼野原に詰め寄る。
「なにやってんだ!」
 鬼林の剣幕に、焼野原はただ答えた。
「正当防衛」
 不遜には感じないのが不思議なくらいの、高踏たる佇まいだ。淡々とした口調で「さっき突き飛ばしたのはお前か?」と鬼林に尋ね返す。鬼林が「だって、そうでもしないとお前、なにするつもりだったんだよ」と言うと、焼野原は目を細めた。持っていたスクールバッグを落として、鬼林に拳を振り抜いた。呆気に取られるほど、鮮やかな動きだった。
 鬼林はすんでのところでかわして、焼野原と距離を取る。踏鞴たたらを踏みながら、焼野原を見据えた。とにかく委員長を逃がさねばと思ったのか、「行け!」と声を上げる。委員長は叩かれた頬を押さえながら、脱兎の如く走り去っていった。
 僕は焼野原の様子を呆然と眺める。
 ついさきほどまでの儚さは、いまやどこにもない。ただそこにある姿は可憐と言うにふさわしいが、拳を振るう様はまさしく獅子だ。姿かたちが同じなだけで、全くの別人。
 変わり身。
 僕には聞こえず、鬼林には聞こえる、鳴き声。
―――見つけた」
 迸る閃きに突き動かされ、僕は焼野原の手首を掴む。
 焼野原は目を見開いた。
「お前が、二人目の夢見主だな。焼野原戦」
 僕はじっと焼野原の目を見つめる。獅子のような勇ましさとて魅入みいるに値したが、なによりも瞳が格別に澄んでいる。黄昏の光を受けてきらめく様は、まるで精緻にカッティングされた宝石を透明の真珠が覆っているよう。しかし、その瞳は驚きから警戒へと色を変え、途端、急冷する鋼のように、研ぎ澄まされたものになっていく。
「……誰?」
「枕部狩月。お前を治してやる」
 焼野原はしばし黙ったが、「宗教の勧誘なら他をあたってくれ」と言った。
「お前は夢に憑かれているんだよ。悪性の夢……つまり、悪夢にね」
 焼野原は息を呑む。
 その反応を見るに、自覚はあるらしい。ならば、好都合だった。自覚症状のない鬼林と違って、懐柔はしやすいはずだ。せっかく見つけた二人目の夢見主を逃したくはない。
「察するに、相当手を焼いているんじゃないか? 僕ならそれを殺すことができる」
 焼野原は押し黙った。なにも言わず、僕を見上げている。
 しかし、瞬く間に、彼女は身を翻した。髪を靡かせ、くるりと回る。まるで踊っているようだと思った、そのとき、
―――僕の頭にひどい衝撃。
 なにが踊っている、だ。回し蹴りをされた。
 脳を揺さぶられ、前後不覚になり、僕の視界は暗転する。鬼林の僕を呼ぶ声が、朧になっていく意識の中で、閉じこめられるように消えていく。落ちた瞼の裏側に闇を見て、そのままゆらゆらと沈殿した。
 ころさないで。
 羽音のような声が、聞こえた気がした。






 眩しい刺激が目を焼いた。
 そう感じた途端、僕は目を開かせる。
 すると、今度は音が鼓膜を刺激した。それは、携帯スマホのカメラのシャッター音だった。
 気がつけば、僕は、公園の日陰棚パーゴラの下にあるベンチに寝かしつけられていた。それも、膝枕された状態で。僕の枕を買って出ているその人間は、寝ている僕と自分自身が映るよう、インカメの状態を携帯スマホを構えていた。画面に映るその姿に、僕は目を瞬かせる。
「……なにやってんの、猟ヶ寺」
「自撮り」
 ピースした猟ヶ寺は、はいチーズ、とシャッターを切った。構えていた腕を下ろし、携帯スマホをたぷたぷと操作し始める。それ以上の言葉はない。




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