夢患いの診療録 | ナノ
鵺退治・後編 1/4

 朝起きてあたりを見回すと、自分の部屋でなかった。その部屋の中では僕と同じように、子供たちがふとんにくるまって眠っている。親戚が泊まりに来ているのだ。僕も、自分の部屋ではなく、同じ部屋で眠るよう言い渡されていた。
 覚醒しきり、自己を意識したとき、まず初めに思ったのは祖母に会うことだった。
 僕はふとんから這い出て、祖母の部屋へと足を進める。
 しかし、祖母は部屋にではなく、庭で草花に水やりをしていた。
 祖母は僕に気づくと、「おはよう。狩月。目が覚めたのかい?」と尋ねた。
「ねえ、おばあちゃん」
「うん?」
「僕、悪夢祓いになりたい」
 僕の言葉に祖母は「おやおや」と目を見開かせる。
「どうやったら、悪夢祓いになれる?」
「ううん。悪夢祓いの定義はいろいろあるからねえ。知識も必要だし、度胸もいる。施術をおこなうための才格や、経験だって重要だ。それより、どうしたんだい? いきなり。昨日までそんなこと、言ったことがなかったじゃないか」
「そうだっけ?」
「そうだよ。相変わらず、お前は眠れば忘れちまうねえ。それだけ、お前にとっては、取るに足らないものだったろう、悪夢祓いは」
「おばあちゃんのことはすごいと思っていたよ」
「ありがとう」祖母は微笑んだ。「それで、どうして悪夢祓いになりたいと思ったんだい?」
 祖母の問いかけに、僕は「なんでだっけ」と呟いた。草葉を瑞々しくきらめかせる朝日や、微笑ましい雀の囀りを感じながら、ぼんやりと意識をさまよわせる。
「……呆れた子だねえ」
 祖母はどこか寂しそうに言ったけれど、思い出すことを諦めた僕は、なんとも思わなかった。
「それで、おばあちゃんみたいにすごくなるには、僕はまずなにをすればいい?」
「そうだねえ……じゃあ、眠ってる子たちを起こしてきてくれないかい? 水やりを手伝ってほしいんだよ」
「それって悪夢祓いに関係ある?」
「夢から現実へ目を覚まさせてあげるのも、悪夢祓いの仕事だよ」
 なんとなく煮えきらなかったけれど、祖母がそう言うので僕は部屋へと戻る道を歩んだ。
 これが、夢を見ない僕が夢見るようになった最初の記憶だ。もちろん、そんなこともきれいさっぱり忘れてしまっていたけれど、僕はその日、そんなことを、思い出したのだった。







 鯱先輩の悪夢を祓うことができなかった。
 結局、あのあと、猟ヶ寺は鯱先輩を僕に預け、去っていった。気を失った鯱先輩を保健室で介抱しているあいだ、僕はずっと後悔していた。
 ひとの心を知りたくて、鯱先輩に共感してしまって、そんな身勝手な感情で判断を誤ったせいで、鯱先輩を危険な目に遭わせた。挙句、自分の手には負えなくなってこのざまだ。ぽつぽつとあぶくのように、怒りだか悲しみだかわけのわからない気持ちが湧いて、どうしようもなかった。いっそ猟ヶ寺まで恨んでやりたかったけれど、彼女の行動は理に適っている。僕が誤っていたから忠告して、力不足だと判断したから自ら処置した。悪手だったのは僕の心理にほかならず、誰かに責任を押しつけることもできない。
「んっ」
 僕が煩悶していると、鯱先輩の瞼が震えた。
 浅く呻きながら身を捩らせた鯱先輩に、僕は「気づきましたか」と声をかけた。
 鯱先輩は上体を起こし、ぼんやりとした声で「枕部?」と僕を呼んだ。それからの覚醒は早かった。鯱先輩は自分の体を不思議そうに見下ろす。拳をにぎにぎと開閉させた。
「……寝覚めすっきり」
 いつもよりしわがれた声だったけれど、顔色は格段によかった。憑き物が落ちたとはまさにこのことだ。それを鯱先輩も感じているようだった。鯱先輩は滔々と語る。
「ずっと、朝起きると、そこは夢の続きみたいで、いつも誰かを探していたり、なにかを募らせていたり、ふとしたときにやっと、自分がなんだったのかを思い出したりして……でも、もう気づくまでもない。僕は、鯱鶫だ」あるかなきかの笑みを浮かべた。「やっと落ち着けたよ、僕はずっと疲れてたんだなあ」
 鯱先輩が心の底から安堵しているように見えて、僕は泣きたくなった。けれど、食いしばって耐え、椅子に座ったまま、土下座するように、彼のふとんに頭を擦りつけた。
「すみません」
「なんで君が謝るのさ」
「貴方を危険な目に遭わせました」
「ほざけ、ちゃんと覚えてる。僕のほうこそ危険な目に遭わせてた。怪我してない?」
「してません。うまいことやってくれたやつがいるので……」
「あー、あの、変な刀を持った美少女。あれも夢かと思ってたんだけど、全部現実なのか」
「……すみません」
 僕がもう一度謝ると、鯱先輩は「だからー、」と苦笑した。
「僕が自分の意思で選んだことだよ。ドクターストップかかってんのに、調子に乗って踊っちゃった。気に病んでくれて申し訳ないくらいなんだからやめてよね。さては枕部ってけっこうネガかい」
 いつもの掠れたテノール。やや筋張った手。役のために伸ばしていたであろう髪を鬱陶しそうにいじる姿。こうしていると、もう彼は彼以外の何者にも見えない。憑いていると言わしめた鯱鶫はすっかり感じられなくなっていた。
「夏休みにまたオーディションを受けようと思ってたんだー。欲を言うなら、そこまで味わっていたかったけど……限界だったんだ。そろそろ羽を休めたかったんだよ」
「発表会やそのオーディションは、どうしますか?」
「もちろん演じきるよ。僕は変わらず役者を夢見る鯱鶫さ。だから、そんな顔をしてないで、いつも稽古に付き合ってくれたときみたいに、目を輝かせていいんだよ。枕部のしけた面も、あんなふうに驚いてるときは、人間くさくていい」
「そんなこと思ってたんですか」
「うん。いつもはしけた面、いまもしけた面」
「そっちじゃなくって」
「ああ、きらきらしていたよ。だから僕も楽しく演じられた、楽しすぎて止まれなかった。ごめん、責めてるみたいになっちゃった、でも本当に枕部は悪くないんだ。むしろ、ずっと僕を視ていてくれてありがとう。おかげでいい夢が見られたよ」
 そうやって、鯱先輩が励ましてくれようとすればするほど、僕は罪悪感と後悔でいっぱいになった。精神状態はめためただったし、死ぬほど病んでいたかったけれど、寝れば忘れてしまえる僕の体質はそんなことも許してくれず、ただ漠然とした「僕はだめだったんだな」という喪失感を抱いていて、日々を送ってしまった。
 そして、その後あっけなく、テスト期間を乗りきったのだった。
 テスト最終日の今日、解放されたという爽快感で午後を満喫できるはずが、僕は家の縁側で、茫然と中庭を眺めていた。深い軒下のすだれの影は、僕の額にしか被らない。庭の木々の葉すら貫通してくる日差しは、容赦なく僕を焦がした。風に髪を弄ばせながら、僕はうちわを扇ぐ。
 じゃり、じゃり、と庭の土が踏み鳴らされる音がした。
「さげぽよみたいだねえ、狩月」
「……おばあちゃん」僕はブーケのように夜来香イエライシャンを携えた祖母へと振り返った。「そんな言葉、どこで覚えてくるの」
「水散ちゃんが教えてくれるんだよ。若者言葉ってのは移り変わるもんだねえ。チョベリバって、いまはもう使われてないんだろう? 意味は知ってるかい?」
「一応、知ってる。死語だけど」
「言葉を使う人間が生きてるのに、死んでるなんておかしな話だねえ。最&低さいアンドていってやつさ」
「猟ヶ寺……」
 我らが一門の当主・枕部金になんて言葉を教えてるんだと、僕は唸るように呟いた。
 二人は意外と気が合うようで、祖母は猟ヶ寺をたいへんかわいがっているし、こんなふうに若者言葉の輸入も気安くおこなっている。
 祖母はけたけたと笑った。
「猟ヶ寺、かい。血族相手に名字で呼び合うなんて他人行儀だよ」
「親戚って言っても遠いよ、再従姉妹はとこだし。あっちが親元を離れておばあちゃんのところに来るまで、ほとんど顔も合わせたことがなかったから」
 猟ヶ寺は僕の再従姉妹であり、祖母の弟の孫にあたる。同じ枕部一門として、近畿地方の悪夢祓いを統括する家の子だ。中学のころ、高齢の祖母を手伝うため、一人、居候してきたのだ。
「お前たちがまだ小さかったころはそんなふうには呼び合ってなかったさ」祖母は懐かしむように言った。「継承争いってやつかねえ。可哀想だよ、大人に振り回される子供は」
 祖母が隣に座ったので、僕はうちわで扇いでやった。催眠香を作るために摘み取ったであろう夜来香の馥郁たる香りがたなびく。すると、部屋の奥から「みゃおん」と鳴き声がした。とたとたと小さな足音ののち、祖母の愛猫が、僕の膝の上を通りすぎた。僕と祖母のあいだで香箱を作る。僕は目を瞬かせた。
「珍しいね。みけらん、、、、が起きてる」
「みけちゃんは気配に敏感だからねえ……嗅ぎとったんだろう」
 僕はみけらんの背を撫でてやる。陽光を吸った温かくなめらかな毛触りが心地よい。手持無沙汰なほどのどかだった。こうやって怠惰に自分を焦がすことしかできない現状を、僕は持て余していた。
「……おばあちゃん」
「なんだい?」
「聞いたと思うけど、僕、失敗した。四人目の夢見主の悪夢を治してやれなかった」みけらんを撫でる手を止め、僕は祖母の横顔に問いかける。「僕はもう、悪夢祓いにはなれない?」
 僕が次期当主として指名されたときは賛否両論だった。
 そもそも、僕が悪夢祓いになること自体への反対派も多い。
 夢を見ないという体質は天性の才で、病にかからない医者になれる素質がある―――僕は自分の体質をそのように思っていたけれど、施術の際には大きなアドバンテージとなるのだ。何故なら、僕の体質は悪夢に干渉されない代わりに、悪夢に干渉することもできないのだから。
 まず、悪夢祓いとは夢見主の夢の中に実際に入りこみ、悪夢を退治する≠烽フである。そのために眺診器で夢見主の状態を探り、夢の中へと侵入する。たとえば、紫香楽空寝のときに焼野原のやったことが、まさしくそれだ。夢の中での直接的な治療が、悪夢祓いの主な施術法だった。夢に干渉できない僕など、手術室に入れない医者と同義だ。
 だからこそ、いくら直系といえど、僕を支持する者はそう多くはなかった。僕の父や母が悪夢祓いでないことも大きい。僕の周りには後ろ盾と呼べる大人は少なく、他の家にやや後れを取っていた。僕が悪夢祓いになることは、歓迎されていないのだ。そこにきての継承試験の失格となれば、名実ともに悪夢祓いには不適格だったと言われてしまうはずだ。
 祖母は「たしかに、ちと難しいかもしれないね」と返す。
「これ以上私がお前を推すと、老害の過保護だと後ろ指をさされるだろう。別に私はそれでもかまいはしないけど」
「僕は、僕のせいで、おばあちゃんが馬鹿にされるのは嫌だ」
「お前がいい子で、私は嬉しくて悲しいよ」
「だから、証明したかった。僕にもできるって。それなのに……よりにもよって、猟ヶ寺に尻拭いをさせることになるなんて」
 猟ヶ寺は、次期後継者の最有力候補だと噂されていた。
 悪夢の施術にあたっては、夢の中でも思うがままに自分の体を操るすべを身につけている必要がある。つまり、明晰夢の使い手であることが悪夢祓いの大前提だ。猟ヶ寺は、僕たちの代で誰よりも早く明晰夢の使い手となった、正真正銘の実力者だった。
 また、現当主の弟・枕部金比良カネヒラの孫であることから、その筋の後押しも強い。




◯ | 1 |
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -