夢患いの診療録 | ナノ
鵺退治・前編 3/4

「別にいいんだ。鯱鶫だろうが、サロメだろうが。そのときの自分が感じたように生きる。全ては心次第なんだから、心のままに。むしろ、どんな役にもなりきれるこの好都合を有効活用しないとね。部活の演劇もそうだけど、動画の投稿だって、もっと活発にやっていきたいし」
 またもや「はあ」と流しかけた僕だけれど、よくよく考えるととんでもない発言をスルーしかけていることに気がついた。ちょっと待て。彼女は、なんと言った。
 別にいいんだ=H
 今の状況を有効活用しないとね=H
 この流れは、非常にまずいんじゃないのか。
「あの、鯱先輩……僕からしたら、いまの状態は深刻に見えます。その夢は、危険です。このままでは貴女は貴女を失ってしまう。こうして怪我までしているし、そんな隈まで作って。悪いことは言わないので治療しましょう。僕ならそれを治すことができます」
「よくわかんないけどいい。困ってないし。君こそいきなりなに? 危険なんだけど」
 僕はショックを受けた。
 危険と揶揄されたことじゃなくて、彼女に治す気がないことにだ。
 三戦錬磨―――さすがに百戦とまではいかない―――の僕ともなれば、この流れにも慣れたものだが、鬼林のときとも焼野原のときとも紫香楽空寝のときとも違う。鯱鶫は格段にやりづらい患者だと思った。なんせ、困っていない、悩んでいない、悪いものだと気づいていない、むしろいいものだと思っている節さえあるし、でなくとも楽観視している。深刻なのは僕ばかりだ。そのことに僕は煩悶した。
「でも、事実それで先輩は怪我だってしているじゃないですか。赤の他人をヨカナーンだと思いこんで二階から飛び降りたんですよ? おまけにそいつにキスまでした」
「げっ、それも夢じゃなかったの? 最悪〜」
「そうです、最悪です、誰にとってもいいことがない事件でした。その怪我、演劇のほうにも差し支えるんじゃないですか? 寝不足だって解消されないままだ」
「芝居の本番までには治す。絶対にね。でないと本末転倒だ」
「先輩はなにを考えてるんですか」
「夢のことを考えてる」
 戸惑う僕に、鯱先輩は「寝てるあいだに見るほうじゃなくて、将来のほうね」と添えた。
「役者になるのが夢なんだ。そのためにいっぱい努力したい。二年くらい前に受けたオーディションの審査員にね、役になりきれてないって言われたんだ。その役の気持ちがわかってないって。ただわかった気になって演じてるだけだって。芝居をしてても実感することがある。この役の心を理解できてないって。だから、夢を叶えるためには、誰かの心を理解しなくちゃいけないんだよ」
 あ、と声が漏れそうになった。実際に漏れていたかもしれない。けれど、鯱先輩は気にしなかった。それほど夢中だった。僕も、彼女の夢見る眼差しに、真摯な表情に、目を逸らせないでいた。
 悪夢祓いとして、彼女の見る胡蝶の夢を治療しなくちゃいけないのに、それはよくないものなのに、どうしよう、たぶん僕は生まれてはじめて、他人の心に共感した。
 このひとの気持ちをよくわかると思った。
 悪夢祓いになるために、ひとの心を知りなさいと言われた。ひとの心の震えるわけをお前は理解できないから、と。祖母の言うとおり、僕にとって、他人の心とはあまりに途方途轍もない代物だ。猟ヶ寺から薄情者と詰られるのも道理だった。紫香楽空寝の件に関しても僕は無力で、いまのままでは、悪夢祓いにふさわしいとは言えない。至らない未熟者だ。だからこそ、誰かの心を理解したい。
「サロメとして生きると、サロメの感情を実感できる。理解できるんだよ。その喜びや悲しみは見上げた月に似ていた。汚されたことのない生娘のように清廉な色で、情熱と血の紅が差していて、心はこんなにも燃えあがりそうなのに、彼から与えられるものは刺すほどに冷たい……もっと知りたい、サロメだけじゃない、いろんな心を」
 鯱先輩の焦燥がじりじりと空気を伝っていくようだった。僕はその情熱とも取れる温度を感知して、二の句を継げないでいた。
「知ってからでもいいでしょう、治すのは」
 鯱先輩が揺らぐことはなかった。
 ただ、僕が揺らいだ。
 その夢を叶えてあげたいと思った。知りたいと思った。彼女がどんな心に触れて、どのように変貌していくのか。







 さて。鯱先輩が「一応は病院にも足を診てもらうよ。サンキュー」と言って保健室を後にするまでずっとカーテンの向こう側で話を聞いていた紫香楽空寝は、開口一番に「なんでだよ」と言った。僕も僕自身に驚愕していた。鯱先輩を診るどころか、看過してしまったのだから。
 他人の夢を応援している場合か。
 僕だって悪夢祓いになりたいのに。
 冷静な判断ができなかった。完全に情に流された。
 けれど、僕はその判断を後悔していないのが、なによりも救えない。
 結局のところ、僕は、はじめてこんなにもまっすぐに誰かの心を理解できたことが、嬉しかったのだと思う。そこで有頂天になってのこのありさま。紫香楽空寝に「やーらかしたー、やらかしたー」と散々煽られても、文句の一つも湧いてこなかった。ええ、そうですよ、やってやりましたよ、という気分だ。その高揚は未だかつてないほどで、記録として日記を綴っているときから翌朝読み返すときまで冷めやらぬ、マグマがごとき熱だった。
 しかし、僕もタダで病を見過ごしたわけじゃない。
 その日の僕は鯱先輩に「芝居の稽古を見学させてもらう」という約束をとりつけたのだ。
「君もおかしな頼みをしたもんだ」鯱先輩は目を眇めた。「完成形は動画にも上がるのに、それ以前の工程を知りたいだなんて」
 ある日の昼休み、体操着姿の鯱先輩は、木陰の下で台本を読んでいた。体操着を着ているのは、次の授業が体育というわけではなく、ただ単に「衣装がないから」とのことだった。半ズボン姿が少年をイメージしているのだろう。演じるのは、中学の国語の教科書でお馴染みの、ヘルマン・ヘッセ著『少年の日の思い出』より、エーミールだ。
「でも、運がいいよ。いま読みこんでいる『少年の日の思い出』は、著作権法改正によってパブリックドメインでなくなったはずだから、ぶっちゃけ動画としてアップするのが怖くて、お蔵入りにしようと思ってたんだよね」
「え、なのに練習してるんですか?」
「うん。君へのファンサとして」
「ありがたいんですけど、すみません、僕、ファンじゃないんですよね」
「大丈夫。魅せてあげるから」
 魅せられた。鯱先輩の役の作りこみは、感情の掘り下げは、実に見事だった。どうしてそのように思ったのか、そうしてその行動を取り、その言葉を吐いたのか。国語の文章読解のように、僕に問いかけ、答えを提示してくれるのだ。
 またある日の鯱先輩は僕に語った。
「トゥーランドット姫の復讐心の根本にあるのは、嫌悪と恐怖だよ。異国の男のもと、絶望の中で死んでいったロウ・リン姫へ、ある種の共感をしてるんだ。己を求める男とはみんなそのような生き物なのだ。自分もこのようにはなりたくない。だからこそ、自身の虚勢を見破り、真摯に自分を見つめてくれたカラフは、その心に刺さったんじゃないのかな」
「わかりません。嫌悪と恐怖があるなら、カラフのことだって拒みきると思います」
「カラフはトゥーランドット姫に無理強いはしてない。そして、いつだって正攻法だ。彼女のなぞなぞを確実に解き、あまつさえ、彼女がその約束を違えようとしたときですら、自分もなぞなぞを出すことで彼女に猶予を与えたんだもの。そして、彼女の深層心理を見抜き、どれだけ冷たくされても本当の貴女はそんなひとではない≠ニ囁いた。そりゃあ、トゥーランドット姫も心を開いちゃうでしょ。カラフのそれはたしかに愛だと、そして、自分も彼を愛してしまったと認めざるを得ない」
「相手の尊重による不安の解消と、本意の言い当てによる心の壁取り、ってことですか」
「カラフの仕掛けた心理戦を分解するとそうなるんじゃない? ロマンスが息してないけど」
 まるで授業のよう。いくつもの作品を跨ぎ、胡蝶の夢で得られた感情を一つ一つ整理して、鯱先輩は僕に講習をおこなった。僕がその内容を記録につけるたびに、鯱先輩は面白がって懇々と語ってくれた。それに乗じて、僕もいくつか質問をする。
「傷つけられたほうにも理由はあると思いますか?」
「なにその抽象的な質問」鯱先輩は目を眇めた。「まあ、あるだろうね。大概はそのひとに理由がないと傷つけられないだろうし」
「大概∴ネ外だとなにがありますか?」
「傷つけたほうに余裕がない。たとえばさ、トイレが一個しかなくって、すっごいトイレ行きたいとするじゃん。そういうときって、普段なら先にトイレ行っていいですか?≠チて聞かれていいですよ≠チて返せるひとでもいや、無理です≠チてなると思うんだよね。でも、無理ですって言われたひとからしたらえ、なんで? 私はこんなにトイレ行きたいのに。このひと意地悪だなあ≠チて、傷つけられたって思うんだよ」
「でも、なんかそれ勝手ですね。こっちがどんなにトイレ行きたかったか知らないくせに」
「そうだねえ。相手を思いやる気持ちが欠けちゃってるねえ。だったら次はこう考えてみて。先にトイレ行かせてくださいって頼んできたひとが、大好きな友達だったとする。枕部はどう思う?」
「……譲るかもしれないです」
「逆に、先にトイレ行かせてって枕部が頼んだのに、そいつから無理って言われたら?」
「……けっこう切羽詰まってるんだろうなあ、だったらしょうがないなあ、って思います」
「そうなんだよ。相手への好意があるかないか、思いやるほど心が傾いているかどうかで、言葉の受け取りかたや返答まで変わってくる。心って本当に正直だよねえ。相手を傷つけたり、相手に傷つけられたりするのは、相手を思いやる心がないから。相手に興味がないからだよ」
 蝶よ花よと育てられてきたんだろうなと感じるほど暢気な人間の思考とは思えない、穿った指摘だった。鯱先輩と話していると、これまで気づかなかったことに気づかされる。それは、自分の意識だったり、深層心理だったりと、僕一人では気づくことのできなかったであろうことだった。
 そんなこんなで僕と鯱先輩の交流は続き、気づけば期末試験を迎える時期に来ていた。
「いや、だから、なんでだよ。あんた、あのひとの悪夢を治療するんじゃなかったのかよ」
 ある日の放課後、僕と紫香楽空寝はショッピングモールのゲームセンターにいた。以前、焼野原とも来たことのあるこのゲームセンターには、紫香楽空寝お目当ての、ミラクルプリティー☆RGBのトレーディングカードアーケードゲームが設置されているのだ。紫香楽空寝の放課後はそれに費やされる。久方ぶりに目覚めてこっち、好きなアニメのカードが発売されていると知った途端、紫香楽空寝は破竹の勢いで収集していった。今日も今日とてホルダーからカードを選びながら、僕に背を向けてプレイに熱中していた。先の発言は、そのブレイクタイムにおいてのことだった。
 プレイ画面を見ながら、僕は「治療すよ。もう少ししたら」と答えた。
「深刻だとか、早急に治療に当たったほうがいいとか、言ってたのにな」
「……鯱先輩は胡蝶の夢を上手く統御しているように見える。もしかしたら、悪性から良性に転じる可能性だってある。経過観察する猶予はあると判断したまでさ。僕も勉強になっているし、これは必要な過程だ」
「本当にいいのか?」紫香楽空寝は目もくれずに言った。「二人が保健室でしゃべってるときはこっそり話聞いてるけどさ、だんだんやばくなってきてるだろ、あのひと」
 このことに関しては、紫香楽空寝の言うとおりだ。
 近頃の鯱先輩の錯覚は著しい。話が通じないことが多くなった。ぽんぽんと飛ぶし、いきなりトリップするし、なにより 鯱鶫≠フ時間が格段に減ってきている。演劇の本番が違いからか、もうずっとサロメ≠フままだ。
 紫香楽空寝の問いかけに僕は押し黙る。
 すると、そのとき、誰かにガッと腕を掴まれた。振り返る間もなく引っ張られ、そのまま紫香楽空寝から引き離される。プレイに夢中になっている紫香楽空寝は気づかない。僕は自分を引きずる女の子女の子したシルエットを見つめた。後ろ姿でも、それが猟ヶ寺だとわかった。
 猟ヶ寺はそのまま僕をプリクラコーナーにまで連れてきた。ふわふわしゃらしゃらしたBGMがあちこちから聞こえてくる。ある一台のプリントシール機の中に入り、淡々とお金を投入した。僕は唖然として、その姿を見つめる。
「なんなの、いきなり」
「なにを血迷っているのかと思って」
 血迷っているのはそっちじゃないかと、シールの背景を選んでいく猟ヶ寺に思った僕だったが、そのあとすぐに「どうして祓わないの」と続けられ、押し黙った。
「鯱鶫の病の進行は相当よ。このままでは自分を見失うわ。初期治療でどうにかなる段階で対処しておくべきだったのに、なにをもたもたしているの」
 プリントシール機の「かわいくポーズをしてね」というポップな声が浮いていた。猟ヶ寺は撮影のタイミングで逐一キメていたけれど、話す声は冷たかった。
「……鬼林くんのときに私が言った言葉を覚えているかしら」僕は口を開いたけれど、それを待たずに猟ヶ寺は言った。「本当に危険だと見なしたときは、私のやりかたで終わらせる。忠告よ。鯱鶫の病状は近日中に末期を迎える」




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