夢患いの診療録 | ナノ
鵺退治・前編 2/4

 あのあと僕は紫香楽空寝を保健室へ運びこみ、彼が目を覚ますまでそばで付き添った。微レ存だった。すっぽかしたこととその謝罪を鬼林に連絡していると、紫香楽空寝は目を覚ました。ベッドの上で震える紫香楽空寝は「基地外ヤンキー痴女に目をつけられた」「二度と学校なんか来ない」と言った。僕からしてみれば「しゃらくさいんだよ、お前のせいで鬼林の応援に行けなかったじゃないか、どうしてくれるんだ」と歯噛みしたものだが、紫香楽空寝にも同情の余地はある。とりあえず焼野原に相談すると「登校日は私が紫香楽空寝を迎えに行きます」という心強い返信があった。しかし、紫香楽空寝のトラウマは相当だったようで、登校日たる今日、彼は教室ではなく保健室にて引きこもっていた。
 というわけで、僕は昼休み、鯱先輩―――年上だったのでさすがに呼び捨てられない―――の動画を見ながら、ベッドで縮こまる紫香楽空寝をあやしていた。
「ねんねよ ねんね ようらん ねんねよ」
「やめろその不気味な歌。眠気を誘う」
「寝つけてなさそうだから歌ってやったんだろ」
「アロマを焚こうとするな。アイマスクを差しだすな。寝不足はあの鯱とかいう女のせいだ。夢に出てきそうで怖いんだ。助けて、エバーグリーン……」
「焼野原は次の授業が体育で着替えがあるからって今日はここには来ない」ふとんを被ってどんどん丸まっていく紫香楽空寝を、僕は睥睨する。「ていうか、夢のまた夢だったとはいえ、お前も一応は明晰夢の使い手だろう」
 夢に出てこないよう操舵すればいいと、紫香楽空寝に指摘した。
 紫香楽空寝の見た夢の夢は、彼の思いのままになる世界だった。自身が夢を見ていることを自覚し、夢の内容をコントロールできていた。あの復讐を成し遂げるための世界こそが明晰夢であるなによりの証拠だ。夢の夢から覚めてもなお、その感覚は残っているはずである。
 しかし、紫香楽空寝は断じた。
「そんな簡単にはいかない……あれはかなり自分の意識に左右される。夢の中で俺があいつらを完膚なきまでに叩きのめして圧勝できたのは、あいつらは俺になんて興味がない≠チて自覚、、してたからだ。だから、夢の中のあいつらは棒立ちだった。俺に気づいてすらいなかった。そうあるものだと、俺が思いこんでいる」
「そういうものなのか」
「結局、夢ってのは記憶の整理だから、自分が思いこめる以上のことはできないんだよ。出てこないと思ったら出てこないけど、出てくると思ってたら出てくる。あの女が夢に出てきたら、俺はビビったことを思い出して、どうしようもなくなる。敵わないって思った時点で負けなんだよ。陰キャはみんな泣き寝入りだ。狸寝入りだ」
「狸寝入りでやりすごせるならいいけど」
「そんで? あんたはなんでその女の動画なんて見てるんだ?」
 画面の中では、ジュリエットの衣装に身を包んだ鯱先輩が、『おお、ロミオ、ロミオ』と有名な台詞を唱えている。僕はじっと見つめたまま口を開いた。
「……紫香楽空寝、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「どうでもいいけど、なんであんたも焼野原も俺をフルネームで呼ぶんだ、どうでもいいけど」
「たしか、お前はあの日、僕には聞こえない変な音を聞いたんだったよね」
「変な音って……どうせ耳鳴りだってあんたが言ったんだろ」
 そうだっけ。
 寝れば忘れるほどの情報だったのだろう。
 日記でも端的にしか書かれてなかった。
 しかし、紫香楽空寝は「あんたが気にしてるのは、あの基地外ヤンキー痴女が、夢に憑かれてるんじゃないかってことか?」と核心を突いてくる。
 悪夢から病み上がりの人間は、免疫力が低下しており、且つ、感度は高くなっている。だから、他人の夢に反応しやすいのだ。たとえば、正夢から覚めたばかりの鬼林は、焼野原に憑いていた邯鄲の夢の鳴き声を察知した。紫香楽空寝の耳鳴りも、その一種なのではないかと、僕は勘ぐっていた。
「なにかに憑かれているような、鯱先輩の演技。目元には隈」
「憑かれてる≠ヘ単なる比喩表現スラングだ。芝居は普通に上手い。目元の隈はただの寝不足」
「寝不足は侮れないさ。睡眠障害を抱えている時点で、夢に憑かれている可能性は高い」
 そもそもの悪夢―――悪性の夢とは、夢見主に害を与えるものを差す。実際に睡眠障害を誘発させるケースや、無自覚または無意識のうちに蝕んでいるケースなどがあるが、例として挙げるなら、前者が鬼林、後者が焼野原や紫香楽空寝である。鬼林の睡眠不足と疑心暗鬼、焼野原の解離性障害、紫香楽空寝の昏睡状態、どれも治療しなければならないのに変わりはなかった。
「ていうか、初対面の相手にいきなりキスする奇行を、悪夢に憑かれているから、という理由以外で、僕は理解できない」
「やめろ……思い出させるな……」
「サロメってやつを僕も調べてみたんだけど、あのときの鯱先輩の台詞は、物語の終盤、サロメが斬首されたヨカナーンの首にキスをするシーンだね。お前の見た目がヨカナーンにちょうどよくて近づいたんだろうけど、にしてたって、鯱先輩の役への入りようは凄まじかった」
 あの日の様子を思い出したらしい紫香楽空寝は、制服の上に来ているパーカーのフードを被り、ふとんにくるまって「ガクブル」と震えた。
「別人に成り変わるという意味では焼野原のときと似ているけれど、お前が聞いたのは邯鄲の夢のような優雅な音色ではないようだし……診察もしていない現段階では、まだ確証は持てないな。やっぱり鯱先輩と直接会って確かめたほうが早いかも」
「またあの女に会うの? 勇敢すぎるだろ」
「いまのところ僕に被害はない」
「にしたって、不気味だった。なに考えてるかわかんなくて、得体が知れない」
「それこそ、病んでしまっているからかもしれない。もしも鯱先輩にそういった実害があるなら、早急に治療に当たったほうがいい」
「俺のときみたく、相手は実害がないと感じていたら? 第一、あんたはよく覚えてないかもしんないけど、あの女、まともに会話できるかも怪しかったぞ。そんな相手を前に、あんたはどうするつもりなんだ?」
たしかに、と僕がため息をついたそのとき、保健室のドアががらりと開いた。
 入ってきたのは、鯱先輩だった。
 目が引ん剥くかと思った。噂をすれば影というが、よもやこんなにもタイミングよく現れるとは。驚いて時の止まった僕とは裏腹に、紫香楽空寝は「シャッ」とベッドを囲むカーテンを閉め、立てこもるポーズを取った。どうあっても見つかりたくないらしい。一人、放りださされた僕を彼女が見つけると、「あの、先生は?」と声をかけてきた。
「外出してます。僕は保健委員なんですけど……怪我の手当てですか?」
「足が痛くて、捻挫してそうなの。湿布もらえる?」
「わかりました。ソファーに座っててください」
 彼女はそのハスキーな声で「うん」と返し、ソファーに腰かける。紫香楽空寝は懸念していたけれど、意思の疎通に齟齬はないと、僕は感じた。残存する彼女のイメージとは違い、落ち着いた印象がある。先輩の貫禄とでも言えばいいのか。堂々としているようにも、他人に頓着していないようにも見えた。僕は白衣に袖を通したあと、冷蔵庫で冷やしてあった湿布を彼女へと渡す。その湿布で覆えるか怪しいほど、彼女の足は大きく腫れていた。
「……病院に行ったほうがいいんじゃないですか?」
「そうかも。すっごく痛いんだよね。ただの捻挫じゃない感じ」
「下手したら骨にひびが入ってるかもしれないですよ。いつからですか?」
「たぶん……休日から、かな?」
「それって、二階の窓から落ちたときの怪我じゃないですか」
 たしか、鯱先輩がサロメとして紫香楽空寝ヨカナーンに口づける前、二階の窓から飛び降りていた。あのときはぴんぴんしているように感じたものだが、そういう怪我は高揚状態では痛みを感じにくく、あとからじわじわと疼くことが多い。
 僕は納得していたのだが、鯱先輩は不意を突かれたような顔をした。擦り切れそうなほどかすかな声で「夢じゃなかったんだ」とこぼす。僕はそれに反応した。
「夢じゃなかったっていうのは?」
「なんか、そういうことをしたような記憶は、あるんだけど、それが現実だったのかどうか、わからなくてさ。最近こういうことが多いんだよねえ……ていうか、君、なんで知ってるの」
「僕もその場にいましたから」
「え、うそ、覚えてない」
「まあ、そうでしょうね。そのときの先輩はサロメだったので」
 暗にヨカナーンに夢中で他が見えていなかったのだろうと伝えると、鯱先輩は息をついた。
 鯱先輩も自分の状態に気がついているのかもしれない。
「こういうことが多いって言いましたけど、似たようなことがあるんですか?」
「まあ……君も知ってそうだから言うけど、かると夢中になっちゃうから」ぼんやりとした目で鯱先輩は続ける。「でも、それがここのところひどくて」
「目の隈もひどいですね。寝れてないんじゃないですか?」
「寝てても起きてるみたいなんだよね。疲れるんだ」
「……なにかよくない夢でも?」
「ううん。生きてるんだ。たとえばサロメを、たとえばジュリエットを、たとえば鯱鶫を」
 ここにきてはじめての、要領を得ない返答だった。僕の聞きかたが悪かったのだろうかと訝しんだとき、鯱先輩は言葉を重ねた。
「夢の中で、サロメを生きてる。月のように純潔で冷たい男に恋をして、そして死ぬ。あるいはジュリエット。敵対する家の息子と恋に落ち、そして死ぬ。ありとあらゆる人生を生きて、目が覚めると鯱鶫。いいや、本当はサロメやジュリエットかもしれない。鯱鶫こそが演じている登場人物の名前なのかもしれない。自分の名前を呼ばれても自分の気がしないんだ。どれが自分自身か、わからないんだよ。あのときだって、演じてサロメになったんじゃなくて、君の言うとおり、サロメだった」
 まるで同一性障害。幼虫が蛹を経て蝶になるような完全変態だ。演者の感覚は僕にはわからないが、鯱先輩の様子を見るかぎり、それはまともな状態ではないのだろう。実害も起きている。眠っているあいだにすら蓄積されるだろう疲労感もだが、現在負っている怪我がまさしくそうだ。恋に没頭する女サロメだった鯱先輩は、己の身を顧みないほど狂っていた。役作りだと笑える範疇を超えている。飛び降りるなんて、一歩間違えていれば、階層が違えば死んでいたかもしれない。なにより危険なのは、その役でいるリアルタイムに自覚がないことだ。いまのように鯱鶫≠ナいるときは自覚できていたとしても、その役になっているときに鯱先輩の意識はない。鯱先輩自身も、どれが自分自身なのかわからないと言っている。強烈な自己の錯覚。
 悪性の夢に憑かれている。
 僕は確信した。間違いない。鯱先輩を脅かしているその悪夢は―――
「胡蝶の夢」
 と、鯱先輩は言った。
 まるで心を読まれたかのようなタイミングだったので、僕は息を呑んだ。
 しかし、鯱先輩は飄々とした態度で「みたいだよね。知ってる?」と続けたのだった。
「……知ってます。荘子の故事ですね。夢の中で蝶になって飛んでいた荘子が、目を覚ましたとき、蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分こそが蝶の夢なのかわからなくなったという。現実と夢の区別がつかないときの喩えとしても使われる言葉です」僕は一拍置いて告げる。「まるでいまの貴女のようだと、僕も思っていました。なにが夢で、現実で、本物で、偽物で、自分なのか。境界線のない意識の中で迷っている」
 そう言うと、鯱先輩は口角を上げた。
「でも、荘子の言葉には続きがあるよ……己も胡蝶も、形のうえでは違うものだが、主体としての自分に変わりはない、と。ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの『人の世は夢』に通ずるものがあるね。知ってるかな。岩窟に幽閉された王子・セヒスムンドを。彼は鎖に繋がれた人生と、王座に就いて暴君となった人生の、二つを体験するんだ。そうして彼は気づいたんだよ」
 鯱先輩は深く息を吸った。スエードを撫でるように優しい声音が、空気を震わせる。
―――僕たちは、生きるとは、ただ夢を見ることでしかない。人生は狂気であり幻。影であり見せかけ。いかなる大きな幸福とて、取るに足りない。まさに夢。夢は所詮が夢なのだ」
 僕は目を瞬かせた。鯱先輩の即興劇のようなふるまいに圧倒されたこともあったが、その言葉の意味を咀嚼しかねていたのだ。
「……人生は夢のように儚く、取るに足りない、意味のないものだという意味ですか?」
「えー、なにそのマイナス思考。そんなこと一言も言ってないじゃん。彼が言いたいのは、見せかけなんて気にしなくていいから、ただそのときの己の心に従え、ってことだよ。知らないかあ、『人の世は夢』、読んだほうがいいよ、人生観が変わる」
「はあ」
 僕の間の抜けた返事に頓着することなく、鯱戦先輩は「だからね、」と続ける。




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