夢患いの診療録 | ナノ
鵺退治・前編 1/4

「ひとは夢に憑かれる。そう、君は言ったよね」
 もう毎日となっていた習慣の中で、彼女は口を開いた。
 僕は何度か瞬きをして「言いましたっけ」と返した。そんなことよりも、果実のように熟れた彼女の唇が、愛や悲劇でなく、素朴な問いかけを紡いだことのほうが新鮮だった。新鮮というか、懐かしいのだと思う。彼女の手元を見遣ると、台本を閉じていた。その少し上にある彼女の顔へと視線を移すと、どこか呆れたような顔で僕のほうを見ていた。
「言ったよ。自分の発言に頓着しない子だねえ。でも、そうだなって思ったんだ。夢に取り憑かれてるよ。叶えたくてそればっかりだ」
 そのときの僕もそういう意味で言ったわけではないのだろうが、あながち間違いでもないだろうと訂正しなかった。
 悪夢はひとの隙に巣食う。悪夢を見るのは、その悪夢の夢見主に思うところがあるからだ。たとえば、ストレス。罪悪感情。傷心。復讐心。虚無感。絶望。渇望。つまり、望みなのだ。
 ひとは叶えたいと思うものを夢見てしまうのかもしれないと、僕は思った。
「ありがとう。君のおかげで、夢にどんどん近づいていってる気がするよ」
 彼女が笑ったから満足して、僕は本質を見誤ったのだ。
 悪夢祓いは、夢を叶えるのが仕事じゃない。







 休日の学校は部活特有の声で賑わっている。雨が降っているのでグラウンド競技の活気は消えていたが、体育館からは湿気すら払うような躍動が聞こえた。合唱部や吹奏楽部の音色も同様だった。そのどれもをくぐりぬけ、僕たちが向かうのは弓道場だ。
「鬼林が言うには、二年が出るのは中盤だから、十一時くらいに順番が回ってくるらしい」僕は自分の左腕にある黒い腕時計で時間を確認した。「もう少しだな。急ごうか」
「練習試合だかなんだか知らないが、なんで俺まで見学に……」
「お前のためだろ」
「友達の応援なんだから、その友達のためだろ」
「絶好の機会なんだよ。お前だって、ずっと休んでたぶん、いきなり登校するのはちょっと怖いって言ってたし。まずは休日登校でちょっとずつ慣らしていくほうがいいよ」
僕がそう言うと、紫香楽空寝は、着こんでいたネイビーのパーカーに首元をうずめる。
 今日は、紫香楽空寝の登校復帰リハビリも兼ねて、鬼林の部活の見学に来ていた。
 先日、夢の夢の治療を終え、現実世界へと覚醒した紫香楽空寝。長時間眠りつづけていたことから、彼の体力は落ちるところまで落ちこみ、食も細まるところまで細まり、姉の微睡曰く、生まれたての小鹿よりも小鹿だったらしい。そこから毎日少しずつ体力をつけ、家の中をまともに歩けるようになったところで、外へと連れだす計画を立てた。
 僕のつけていた日記によると、はじめ、紫香楽空寝はたいへん拒んでいた。日の光を浴びた瞬間に「灼けるぅ」と呻き、数十メートル歩いたところで「づがれだ」と項垂れた。しかし、彼のためにも姉のためにも、なるべく早く学校に復帰したほうがいい。僕の放課後は、紫香楽空寝のために費やした。
 そうして迎えた今日は、紫香楽空寝にとっても本番前の練習でもある。学校の空気に慣らして、週明け、いよいよ登校復帰する算段だ。
「マジで骨がみしみしいってる。自重に耐えきれてない感じがする」
「がんばれがんばれ。あとちょっとで着く」
「酸素が薄い」
「お前の場合はその黒いマスクのせいだよ。周りから浮くし、外したら?」
「無理だ。外界に接触する皮膚の面積はなるべく減らしたい」
 気持ちはよくわからないが、紫香楽空音は露出を嫌う。仲夏のこの時期に長袖のパーカーを着こんでいるし、目元や首筋を見せたくないからと、伸びきった髪はほとんど切らなかった。地毛の黒さも相俟あいまって、長めの襟足と前髪は陰鬱な雰囲気を漂わせている。日焼けしていない肌はいっそ蒼白にも見えた。
「ていうか、ちょっと本格的に気分悪い。寒気がするし、耳鳴りもする……」
 そう言う紫香楽空寝の顔があんまり蒼褪めているものだから、無理をさせすぎたかもしれないと、僕は「座れるところ探して休む?」と気遣った。
「試合見学はどうするんだ」
「お前が落ち着ける場所を見つけてから行くよ」
「置いていくってのか? 薄情すぎるだろ。俺を一人にするなよ」
「薄情って言ったら僕がなんでもかんでも言うこと聞くと思うなよ。今日はお前のリハビリもだけど、鬼林の応援にも来てるんだよ。置いていかれたくないなら弓道場で休め」
 紫香楽空寝の手を引きながら歩いていくと、弓道場に辿りついた。ビニール傘を閉じ、雨粒を払っていると、傘立てにある傘の本数が異様に多いことに気づく。折り畳み傘まで散らばってあった。部員だけでなく、僕たちのような見学者もちらほらいるらしい。硝子扉から弓道場の中を覗く。すると、偶然、すぐに、順番を控えていた鬼林と目が合った。鬼林はニッと笑みを浮かべる。僕が小さく手を振ると、鬼林は視線を戻した。
 紫香楽空寝はと唸るように呟く。
「あのきらきらしてるやつが鬼林……?」
「そう。あの弓道着の集団の中で一番きらきらしてるやつが鬼林」
「一生相容あいいれない種族だ……陽キャ怖い……」
「怖くない怖くない。あいつは誰とでも友達になれるくらいいいやつだよ」
「誰とでも友達になれるやつってのは、友達になってない誰かに気づいてないだけだ。いいやつほど、誰にもばれない程度に線を引くぞ。いまに見ろ。俺たちみたいな鼻つまみ者、愛想笑いで片づけられる……」
「鬼林にかぎってそんなわけあるか」
「それより、想像以上に人口密度が高い……人がごみのようだ」
「やっぱりお前はどこかで休憩したほうがいいんじゃない? 僕が鬼林の試合を応援するのは絶対として」
「あんたが俺に付き添ってくれるのも微レ存だろ」
「とりあえず自販機で飲み物でも買おうか。手切れ金として奢ってやる」
「この男捨て去る気満々じゃないですかヤダー……」
 僕と紫香楽空寝は雨を避けながら、弓道場のすぐそばに建つ、校舎同士を接続する渡り廊下へと向かった。雨を凌ぐ屋根があるだけで吹きさらしの渡り廊下は、分岐した道をずんずんと突き進んでゆくと、食堂舎へと辿りつく。そこには自販機も設置されていた。品揃えは豊富で、その中でも紫香楽空寝は、コーヒーゼリー入りの炭酸飲料を所望した。
 紫香楽空寝は顔を顰めて「変な音が聞こえる」と呻く。
「大丈夫か?」
「だんだん大きくなってる。羽ばたきみたいな不気味な音だ。あんたは聞こえないのか?」
「聞こえないよ。耳鳴りだろう」僕はいよいよ心配になってきた。「微睡さんに連絡する? ずっと眠りつづけてたから体も弱ってるし。普通にまずいんじゃないか? なんなら病院に行ったほうがいいかもしれないし、」
 そのとき、あまりにも存在感のある声に、僕も紫香楽空寝も引きつけられた。
―――どうしてあたしを見ようとしないのだ? あたしはお前を見てしまったというのに」
 雨に紛れてもひときわ強く降り注ぐような声だった。僕も紫香楽空寝も思わず仰いだ。見つめた先は、食堂の隣にある校舎だ。二階の窓に人の姿が見える。委縮するほどの金色に髪を染めた、ショートヘアの女子生徒がそこにいた。窓の外へと吐息を漏らす姿は、まるで映画のワンシーンのよう。けれど、彼女にはシネマヒロインのようなたおやかさはなく、どことない禍々しさを漂わせている。
―――ああ、ヨカナーン。お前は死んだけれど、あたしは生きている。お前の首はあたしのものよ。やっと好きなようにできる。その唇に口づけることだって」
 彼女の言葉に耳を傾けながらも「ヨカナーンってなんだ」と小さく呟いた僕に、紫香楽空寝は「洗礼者ヨハネだろ」と同じく小さく返した。
「戯曲のサロメに出てくる登場人物。聖書が元になった話だったはずだ。王女のサロメはヨカナーンに恋をするが、ヨカナーンに冷たくなじられ、拒まれた。サロメは王に舞を見せ、その褒美にヨカナーンの首を望んだ。サロメはその首に口づけて、それを見た王に殺される」
「よく知ってるな」
「ネット界隈じゃ一般教養だからな、俺も履修済みだ」
 となると、彼女は演劇部かなにかだろう。今日活動しているのは弓道部だけじゃないし、芝居の練習でもしているのかもしれない。僕は心中で納得した。
 にしても、本当に惹きこまれる演技だ。迫真と言えばいいのか。飢えの渇きを宿したような声質は耳障りがよく、蠱惑的でもある。ただ見上げているだけのいますらも呑まれるようだった。浮世離れした佇まい。僕たちは時も忘れてその姿に釘づけになる。
 そのとき、彼女は物憂げに視線を滑らせ、そして、こちらに気づいた。
 どこか気まずい感情を覚えたとき、彼女は目を見開き、白い歯を見せるように笑んだ。
 その瞬間、窓の縁に足をかけ、飛び降りた。
「えっ」
 僕と紫香楽空寝の声が重なる。
 重い音を立てて彼女は落ちた。
 校舎の二階とは言え、かなりの高さだ。普通に怪我をしていてもおかしくなかった。
「嘘だろ!」
「だ、大丈夫ですかっ?」
 僕たちが駆け寄ろうとしたとき、彼女はのろりと立ちあがる。
 なんでもないように歩みを進め、僕らの、否、紫香楽空寝の目の前で止まった。
 紫香楽空寝は圧倒され、後ずさる。彼女はそれに合わせて一歩近づいた。女子にしては高めの身長。雨に濡れた鮮烈な金髪の根元は黒かった。果実を絞ったように色づく唇とは対照的な、目元の黒い隈。そんなおどろおどろしい目で見据えられた紫香楽空寝は、マスク越しでもわかるほど息を焦らせていた。
―――あたしは今も恋焦がれている」
 彼女は紫香楽空寝のマスクに指をかけ、取り外した。片耳にぶら下がるマスクを鬱陶しそうに掻き分け、彼女は紫香楽空寝の青白い頬に触れる。紫香楽空寝が震えたことで、その黒髪が一度だけ揺れた。
―――ああ、ヨカナーン、お前ひとりなのだよ。あたしが恋した男は。この世にお前の体ほど白いものはなかった。この世にお前の髪ほど黒いものはなかった。この世のどこにも、お前の唇ほど赤いものはなかった」
 彼女は一息ついてからその顔を寄せ、あろうことか、紫香楽空寝の唇を奪った。
 目を見開いて固まる。雨の音と、二人の口の中でくぐもった息だけが鮮明だった。僕も石のようになって立ちつくす。すると、彼女は唇を放し、囁くように語りかけた。
―――お前の唇は苦い味がする。血の味かい? いいや、これはきっと恋の味なのだよ。恋は苦い味がするからね」
 正気を取り戻した僕が彼女から紫香楽空寝を引き剥がしたのと、「あーっ! また憑いてる、、、、!」という悲鳴のような声が聞こえたのは同時のことだった。
 僕は声があったほうを見上げる。彼女が落ちてきた二階の窓だ。見知らぬ生徒が彼女のことを「部長!」と呼んでいた。その生徒は僕たちに対して「すみませーん!」と声を上げる。
「そのひと、演劇部のさかまたつぐみって言って! すごい迷惑かけたみたいで本当にすみません! ほら、部長も謝って! もうすぐ立ち稽古始まりますよ!」
 その生徒に急かされたのち、彼女はややあってから、スカートをひらめかせるように去っていった。僕はそのあまりにもあっけない、素っ頓狂な後ろ姿を見つめた。なんだったんだいまの、と呆けてしまう。咄嗟に紫香楽空寝を引き剥がしてしまったけれど。そこでハッとなって、僕は紫香楽空寝を見遣った。
 赤いんだか青いんだかわからない顔色だったが、いまにも泡を吹いて失神してしまいそうな形相だった。僕が「大丈夫?」と体を揺らすと、やっとというふうに紫香楽空寝は言った。
「はじめてだったのに……」
 紫香楽空寝はそのまま気絶した。
 結局、紫香楽空寝の介抱のため、僕は鬼林の応援をし損ねたのだった。







―――今宵の月はこんなにも綺麗だけれど、月の女神は残酷なの……ねえ、お願いよ、月の女神セレネ。その気まぐれでわたくしの願いを聞き届けて。どうかロミオをここへいざなって』
 くだんかいな彼女・鯱鶫は、演劇部部長の三年生らしい。演じる役への没入感が凄まじく、「悪魔憑きかと疑うほどの狂人」と部内外でも噂されているようで、役作りで奇行に走ることが多々あるそうだ。また、エチュードや創作の短編コメディー、一人芝居を動画投稿サイトにアップしていて、つぐつぐつぐみんのつぐつぐチャンネル≠ニ調べれば、彼女の動画一覧がピックアップされる。彼女が見せるそれぞれの役への類まれな七変化に、「憑依がごときトランス状態」「これはなんか憑いてる」「いつものぐみん」とコメントが寄せられており、そこそこの再生回数を稼いでいる。その界隈ではちょっとした有名人のようだ。彼女がジュリエットを演じる寸劇の動画を携帯スマホで見ながら、僕は「ほああ」と感嘆の息を漏らした。




◯ | 1 |
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -