夢患いの診療録 | ナノ
違う穴の狢 1/5

 奇跡は人生に一度しか起きないから奇跡なのであり、起きてしまえばそれ以降はない。
 だから、彼はこの瞬間を覚えておくため、焼きつけんばかりに彼女を見ていたのだと思う。
 その日もいつもどおりの最低な日で、相も変わらず己の人間としての尊厳を凌辱してくるクラスメイトたちの気が済むのを、彼はただただ耐えていた。これ以上火に油を注ぎませんように、何事もなくやりすごせますように。そう心の中で唱えながら、擬死した獣のように身を縮こまらせていた。だから、己への暴力が病み、クラスメイトが「あん? 誰だ。なに見てんだよ」と呟いたとき、彼は自分になにが起きたかわからなかった。
「あっちいけよ、ブス」
 己に投げつけられたものではない暴言に混乱していたとき、彼は、クラスメイトの頬に鉄拳がめりこんでいく様を刮目した。
 彼の襟ぐりを掴んでいた手はほどけ、クラスメイトは吹っ飛ばされていく。その様子を、他のクラスメイトたちも呆気に取られて見ていた。誰もが、突如現れた、儚げな少女の研ぎ澄まされた瞳に、恐れをなしていた。
 硬直していたうちの一人が、やっとの思いでというふうに「な、なにすんだよ!」と叫んだ。
 少女は答える。
「傷つけられたから」
 凛とした声だった。その言葉は弱者のそれだったが、そこに弱さは微塵も感じられない。
「傷つけ返しただけだ。永遠にくたばってろ。泣きそうで、私は、虫の居所が悪い」
 苛烈な双眸に恐れをなしたクラスメイトは、「やばいぞ、あいつ、たぶん五里霧中の―――」と竦みながら、蜘蛛の子を散らしたように逃げていた。彼がついさっきまで強者だと思っていた者たちが、あんなにもみじめに消えていく。彼は呆気に取られながら、彼女を見ていた。
 彼らが満足するまで耐えなければならなかったはずの時間が、一瞬にして過ぎ去った。そんな奇跡の体現に、彼の心は震えていた。ありがとうの言葉が出てこない。颯爽と去っていく彼女の後ろ姿を眺めることしかできない。忘れたくなくて、覚えていたくて、焼きつけんばかりに見つめていた。
 奇跡は人生に一度しか起きないから奇跡なのであり、起きてしまえばそれ以降はない。
 こんな奇跡は二度と起きないことを、彼は知っている。







 付き合ってほしい、と僕が言うと、焼野原は目を見開いた。
 もの問いたげな表情をする焼野原に、「だめかな」と重ねる。
 焼野原はこれであっているのかしらとでもいうような控えめな調子で「……いつ、なにに?」と尋ねてくる。話が早くて助かる。僕が「放課後、寄るところがあって」と返すと、安堵とも得心ともつかない笑みを、焼野原は浮かべた。
「先輩、言葉が足りないです。勘違いしそうになった」
「そう? 口下手とはよく言われるけど……それで、時間空いてる?」
「大丈夫ですよ。放課後はどうせいつも暇なんです」
 弁当箱の蓋を開けながら、焼野原は了承してくれた。
 昼休みの時間、僕と焼野原は、保健室で昼食を共にしている。今日も例のごとく、先生の出払った保健室を我が物顔で貸しきっていた。なんなら、勝手に空調を弄っている始末だ。梅雨に入り、蒸し暑さを感じるようになってきた昨今、どちらかと言えば暑さに弱い僕は、カーディガンを自室のクローゼットの奥に仕舞ってしまった。焼野原も黒のカーディガンからベストへと衣替えしている。空調の聞いた快適な保健室にて、テーブルに向かい合わせで腰かけ、焼野原は手作りの弁当を、僕はコンビニで買ったサンドイッチを咀嚼した。
 ちなみに、昼休みを僕らが共にしているのにも、わけがある。
 先日、焼野原は邯鄲の夢から覚めた。己を傷つける他者に容赦なく反撃する、乱暴で勇ましい人格彼女は消え失せて、焼野原は、正真正銘の焼野原になった。ここで問題になるのが、焼野原が、真実、一人きりになってしまったという点だ。周りから五里霧中の焼野原≠ニ恐れられ、孤高を貫いてきた焼野原だが、それはひとえにあの虫がいたから耐えうれたことで、好き好んで孤高な立場に甘んじていたわけではない。あの虫のいなくなったいまの焼野原は、孤高ではなく孤独だった。鋭い印象は和らいだものの、依然としてクラスに馴染めないでいる。
 この子のことをよろしく頼む―――あの虫と交わした約束を守るために、僕は、昼食の話し相手になってやっている、というわけだ。
「でもさ……僕とばっか食べてちゃ、より馴染みにくいんじゃないか? 一緒に食べようって、普通に誰か誘ったほうがいいと思うんだけど。体育祭のときとかどうしてたの」
「体育祭マジックですよ。ハレの日ならラフに了解を取れるんです。ケの日じゃ到底無理です」
「女子って日によって親密度が変わるのか?」
「空気を読んでるってことです。せっかくの体育祭だしみんなで仲良くご飯食べようよ、みたいな、テンションの波があるんですよ。体育祭では、いい波が来てたんで私も乗っかってみただけです。サーファーとおんなじです」
 僕の前ではこんなにも饒舌なのに、他人の前ではおとなしくしているらしいのだから、ただの及び腰というか、弱虫なんだと思う。
「まあ、久しぶりの人生のリハビリに時間がかかるもんな。いいよ。当分はお前の一番の友達を僕がやってあげるし、この前送った画像も待ち受けにしていいから」
「えぇええぇ……あの謎のコラージュ画像ですよね……やたらめったらにデコってあるやつ」
 先日、猟ヶ寺から、僕と焼野原の写真がコラージュされた二人目おめでとう記念が、宣言どおり贈られた。伏線は回収する女である。いつどこから撮られたとも知れない、僕と焼野原の写真の切り抜きが、いい感じに並べられ、いい感じに装飾されている画像だ。
 せっかくなので、僕はそれを焼野原に共有したのだが、焼野原の反応は芳しくなかった。戦々恐々とした面持ちで、「よく出会って間もない後輩の女の子とのこんな画像作れるなあ……」と震えられて終わった。あんな画像を作ったのは、お前と出会ってもいない先輩の女の子だ。
「まあ、肖像権とかいろいろあるもんね。僕も浅はかだった」
「そういう問題じゃなくてですね……あの、他人の趣味嗜好に口を出す気はないんですけど、私にあれを送ってくるあたり、先輩の主義思考は、なんかその、変ですよ。初めて誘ってくれたときも、私のクラスまで堂々と来てくれましたけど、普通はああいうのって恥ずかしかったり怖かったりするんですからね」
「散々に言うけど、お前が人目を気にして目立ちたくないって駄々をこねるから、こうして人払いした保健室を間借りしてやってるんだろ」
「そうなんですよ。気は遣ってくれてるけど、なんていうか、鈍感で不器用なひとが、がんばって、空回ってる感じがするんです。常人とは思考回路が違うから、他のひとよりも経由地点が足りないっていうか……みんなが目を向けるところに気がつかないぶん、いろんなことをすっ飛ばした、突拍子もない行動を取れるんでしょうね」
 後輩に生態を考察されている。
 僕はいったい何者なんだ。
「先輩はもう少し周りに目を向けるべきだと思います。知らないうちに誰かのことを傷つけたりするタイプですよ。そしてそれを忘れてるタイプです。その薄らトンカチを治さないと、いつか痛い目見るんだから。先輩の厚意に甘えてる私が言うのもなんなんですけど」
「本当になん、、だな。もう甘やかしてやらないぞ」
「そんなこと言って。知ってますよ、あの子、、、と約束したこと。先輩は私を見捨てられないし甘やかさざるを得ないって。先輩が甘やかしてくれるかぎり、私はそれに甘んじる気しかないですからね。脅したって無駄です」
 もちろん、僕は彼女との約束を違える気は微塵もないのだが、同級生に物怖じしまくっている内弁慶な後輩のやや思いあがった言い草に、僕は内心で白けるなどした。
 だが、さきほどの焼野原の言い分はまったくの的外れでもなく、どころか言いえて妙の鋭い指摘だった。焼野原の言う薄らトンカチ=Aそして、幾度となく言われてきた僕の薄情≠ヘ、まさしく、知らないうちに誰かを傷つけ、あまつさえそれを忘れ去るような代物だ。そんな経緯があって、祖母からは心を知るよう言い渡された僕は、悪夢祓いの枕部の当主となるため奮闘しているわけだけれど、まだ祖母の望む基準とは程遠いのだろうと思っている。
―――それで? 放課後に私が付き合うその用事っていうのは、いったいなんなんですか?」
「ああ、そうそう。よくぞ聞いてくれました」
 僕は、ぱんっと、仕切りなおすように一度手を叩いた。
 話がかなり脱線してしまったけど、本題はそれである。
 少なからず僕に甘やかされている自覚があるのなら、その分、僕に協力してもらいたい。
「三人目の夢見主・紫香楽しがらき空寝そらねの治療に、付き合ってほしいんだ」
 僕の言葉に、焼野原は「ぱぇ」と素っ頓狂な声を上げた。
―――悪夢祓いの一門である枕部の次期当主として選ばれた僕は、その継承試験とも言える課題として、この意気軒高校に在籍する四人の夢見主を治療することを、僕には言い渡されている。
 一人目は、正夢によるストレスを抱えていた鬼林駆矢。二人目は、邯鄲の夢による一種の解離性障害に陥っていた焼野原戦。そして、三人目の夢見主は、意外なところで見つかった。
「家が経営してる診療所に直接受診があったんだ。自宅で昏睡状態の続く、紫香楽空寝」
 僕の言葉に、焼野原は目を瞬かせる。
「……紫香楽って、あの紫香楽?」
「僕はこの紫香楽しかしらないけど……知ってるの?」
「同じクラスなんですよ。ずっと学校に来てない紫香楽空寝くん」
「たぶん、そいつだね。不登校だったのか」
「本当は私の一つ上の学年で、留年してるって聞きました。このままだったら今年も留年って聞いてたんですけど、でも、まさか昏睡状態だったなんて……大丈夫なんですか?」
「眠りつづけること自体はそんなに悪いことでもないんだけどね。僕の祖母の飼ってる猫は一日中寝てる」
「猫と一緒にされても」
「猫も寝るほどの平和ってことさ。果報は寝て待てとも言うだろう。そして、実際、僕に知らせが届いた」僕は続ける。「僕が悪夢祓いだっていうのはお前も知ってると思うけど、この高校にはあと二人、悪性の夢に脅かされている夢見主がいて、僕はその治療をしなくちゃいけない。だけど、学校に来てない人間を僕が把握できるわけないからって、特別に、カルテを回してくれたんだよ」
 これは本当に朗報だった。祖母からの課題のにおいて、一番面倒なのは、意気軒高校から該当の患者を探しだすことだった。これが本当に大変で、僕もそろそろ手当たり次第に声をかけていくのが億劫になっていたのだ。このことに鬼林は「やっとか……」とコメントしていた。
「でも、診療所に来たのは紫香楽空寝の姉だったから、詳しい病態はわからないみたいで、ちょっと放課後に家に寄ろうかなって。そんなわけで、付き合ってほしいんだよね」
「そういうことなら可能なかぎり力を貸しますが、聞いたところ、私では力不足だと思いますよ。なんせ、五年ほど、夢を見つづけていたほどですから。眠りからの覚醒ほど、不得手なものはありません」
 言いえて妙だった。たしかに、ずっと夢を見つづけていた焼野原に、眠りから覚めない患者の治療を手伝わせるのは、不適材不適所と言える。
「私より、鬼林先輩に頼めばよかったんじゃないんですか? 友達なんでしょう?」
「それが、もうすぐ大会がるみたいで、部活が忙しいんだ。あいつの邪魔をしたくない」なるほど、と頷く焼野原に、僕はもう一度言う。「とりあえず一度診断してみないことにはなんとも言えないけれど、もし重度の患者なら、僕では施術が困難だ。そのための保険として、焼野原に協力を頼みたい。手術オペのための僕の手足に、メスになってもらいたい」
 つまり、鬼林の正夢退治のときのように、夢の中での施術に協力してもらいたいのだ。夢を見れない僕にとって、患者の夢への干渉は不可能に近い。それを補うのが、焼野原の役割だ。
 焼野原の了承を得て、放課後、僕たちは紫香楽空寝の家へと向かった。




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