夢患いの診療録 | ナノ
違う穴の狢 2/5

 携帯スマホのモバイルマップを頼りに辿り着いたのは、学校からも、うちの診療所からも近い場所に位置する、二階建てのハイツだった。群青色の壁と、モダンなタイルに彩られていて、まだ汚れきっていないところが築年の浅さを感じる。階段を上り、二階の一番奥の部屋へ。表札は掲げられていなかったが、そこが紫香楽の家だった。
 モニターのないインターホンを押すと、ややあってドア越しの「はい」という声が聞こえてくる。僕が「こんにちは。お約束していた枕部です」と答えると、ドアはすぐに開いた。
 中から出てきたのは、大学生くらいの女性だ。癖のない黒髪に、フリルの多い小花柄のワンピースを着ていて、おとなしそうな雰囲気がある。おそらく彼女が紫香楽空寝の姉であり、弟に変わって診療所に足を運んだ、紫香楽微睡まどろだろう。
 紫香楽微睡はほんの少し目を見開かせてこちらを見つめていた。
 そりゃあ、医者を寄こしてくれると思ったら、学生が来たのだから、驚くのも無理はない。
 しかし、すぐに「枕部先生から話は聞いています。どうぞ」と玄関に通してくれた。
「あの、それで、こちらの子は……?」
 紫香楽微睡は焼野原を一瞥して尋ねてきた。なるほど。話は通っているはずなのに微妙な反応をすると思ったら、腑に落ちていないのは焼野原のほうらしい。
「僕の後輩で、診療のサポーターです。早速なんですが、くだんの患者さんはどこですか?」
「部屋にいます。こっちです」
 僕と焼野原は奥へと案内される。
 2LDKのゆったりとしたこの部屋には、紫香楽姉弟の二人だけで暮らしている。部屋のインテリアのほとんどは、紫香楽微睡の趣味らしい、レースやフリルをあしらったものだ。ただ、和室の襖を開くと、雰囲気はがらりと変わる。紫香楽空寝の部屋であることはすぐにわかった。
 壁を犇めく大型のカラーボックスには、大量の漫画や小説。背の低いテーブルの上のノートパソコンにはマイク付きのヘッドセットが繋ぎっぱなしになっていた。小型テレビのそばにはコンシューマーゲームのソフトやコントローラーが押しのけられるようにして置かれていた。部屋にはカラフルなポスターが色褪せないまま貼られてあった。
 紫香楽微睡は「すみません。散らかってて……片づけたんですけど、間に合わなくて」とどこかぎこちなく告げた。僕は「いえ。大丈夫です」と答え、それより、と視線を下方へ移す。
 畳の上に敷かれた布団の中、音も立てず眠る姿を認める―――彼が紫香楽空寝か。
 僕はその枕元に膝をつき、彼を覗きこむ。
 さらさらとした黒髪は姉のそれと同じだ。長らく切っていないため、前髪と襟足は長く、顔や首元を完全に隠している。その隙間から、彼の青白い顔が覗けた。唇も乾ききっている。
「食事や排泄はどうされているんですか?」
「しています」
「一年以上眠りつづけているんですよね。どうやって?」
「たまに、一週間に一度くらいかな、起きてはいるんですよ。そのときにまとめてやります」
「完全に寝たきりというわけではないんですね」
「はい。だけど、たとえ起きても数時間、それも、ほとんど夢遊病なんじゃないかってくらいで……それに、普段はどれだけ揺すっても目を覚ましません。弟が寝ているあいだ、定期的に私が体を拭いてやっているんですが、そのとき起きることもありません。こちらからの呼びかけでは、絶対に、目を覚まさないんです」
 なるほどね、と僕は頷く。
 ずっと目を覚まさないならまだしも、定期的には目を覚まし、活動をおこなう。そのおかげで、病気ではないだろうと、病院でまともに扱われることもなかったらしい。それでも、ほとんど目を覚まさない弟を憂いて、藁にも縋る思いで、うちの診療所を尋ねたのだという。
「そこで、枕部先生に相談したら、うちの息子を派遣するって言われて……聞いたときは弟と同い年って聞いてびっくりしましたけど」
「そうですよね。あの、なんなら、敬語じゃなくて大丈夫ですよ」
「いえ。診ていただくわけですし。枕部先生からもそういう案件なら僕よりも適任です≠チて言われているんですよ」
 父さんも枕部の人間ではあるが、悪夢祓いではない。僕の試験のことがなくとも、いずれはお鉢が回ってきただろう。
 僕は「ちょっと診てみます」と、鞄の中から眺診器を取りだした。夢を見ない体質である僕が、他者の夢を視覚的にでも認知するには、この器具に頼る以外にない。
 紫香楽微睡は「最近の医療器具ってVRゴーグルみたいなんですね」と呟いた。説明はめんどうだったので省かせてもらった。焼野原は僕の隣に座り、指示を待っているようだったが、まだ大丈夫だという視線を送ると、こくりと頷いた。
 僕はチェストピースを紫香楽空寝の額に当てる。
 突如、まるで沼の中に落ちていくような、没入感。半酩酊。艶めかしいとばりをくぐり抜けていく。目まぐるしい暗闇のその先へと沈みこむと、幾重もの緞帳どんちょうが視覚の上から降り注いだ。
 山吹、赤銅、石竹せきちく、緑青、梅紫、瑠璃、桑茶色―――そのとりどりは、まるで襲色目かさねいろめの華やかさ。オーロラのようなヴェールには金のタッセル。一面が布で覆われている。ひらひら、ふわふわ、ふかふかの、夥しい布団が折り重なった、穴蔵のようなありさまだ。僕は視覚として捉えているだけなので、触れようはずもなかったけれど、きっとそこは、とても快適で、安らいでいて、身を委ねてみたくなるのだろう。そんな夢だった。
 なるほど。こんな世界なら、目を覚ましたくもなくなるのかもしれない。
 そう納得しかけたとき、僕は彼を見つける。
 紫香楽空寝だった。温かそうなブランケットと、柔い枕に身を委ね、手足を丸まらせて、横たわる姿。現実世界よりも黒い髪はすっきりとしていて、息をするたびに震える睫毛は長い。寝顔も血色がよかった。よっぽど生気を感じる寝姿だ。そう、寝姿だ。
「……まじか」
 僕の呟きに、現実世界から「どうしたんですか」という焼野原の声が返ってくる。
「ね……寝てる」
「えっと、それは、見れば、わかりますけど」
「そうじゃなくて。夢の中でも、寝てる」
 僕は眺診器を外し、現実だろうと夢だろうとおかまいなしに眠りこけている紫香楽空寝を見た。すやすや気持ちよさそうにしやがって。
 半永久的な昏睡状態。
 夢の中でも眠る夢見主。
 これは、思った以上に厄介な案件だ。
「悪性の夢だが、これはただの悪夢じゃない―――夢の夢。または、夢のまた夢」
 夢の夢。
 夢の中で見る夢のこと。
 極めて儚いことを意味する喩えとしても用いられ、豊臣秀吉も辞世の句として詠みあげている。また、到底叶いはしない、実現不可能なことの比喩としても用いられる。
「率直に言うと、お前の出番だ」僕は焼野原を見る。「僕は夢を見ない。夢のまた夢なんてなおさらだ。いま、ここにいる、現実世界の紫香楽空寝の夢は覗けても、夢の中にいる紫香楽空寝の夢は覗けない」
 夢を見ない僕は、夢の中には入れない―――それを可能にするのが眺診器だが、夢の中の夢を覗くとなると、まさしく、手が届かない。何故なら、夢の中で眺診器を出すという芸当すら、僕にはできないからだ。僕にできることといえば、せいぜい声をかけることくらいだ。夢の中の夢を覗くことができるのは、夢を見れる人間だけだ。
「お前が眺診器で紫香楽空寝の夢の中に潜り、夢の中にいる紫香楽空寝の夢の中に潜れ」
 混乱してきた、と呟きながら、焼野原は額を押さえる。
「でも、私は彼の夢の夢の中でなにをすればいいんですか? 私は医者じゃないので、そこの判断はつきませんよ」
「安心しろ。僕も覗くから」僕は鞄の中からもう一つ眺診器を取りだした。「紫香楽空寝の夢を覗くお前を、僕が覗く。これで視覚は共有されるし、指示も出せる」
 再び眺診器を装着しようとする僕に、紫香楽微睡は「あの、」と声をかける。
「よくわからないんですけど……弟は、どうなってるんですか」
「それを今から確かめます。もう少しだけ待っていてください」
 焼野原も眺診器を装着した。
 焼野原は、僕は、紫香楽空寝の夢の中へ潜る。
 目まぐるしい暗闇を抜け、再び、布団まみれの穴蔵のような場所が見えてきた。焼野原はそこに降りたっていて、ふかふかと不安定な足場をなんとかこらえながら、歩き始めていた。
 大した肝っ玉だ。こんなよくわからない体験をしたら、怯えてもしょうがないのに。そもそも、他人の夢に干渉するなんてことが、常人からすれば異常なのだ。それを、焼野原は容易く受け入れ、あまつさえ、自由に行動できている。僕は「玄人か」と呟いた。
「邯鄲の夢を見つづけていたときの感覚に近いんですよね」僕の声を拾った焼野原は、歩みを止めぬままに言った。「あの子といたときは、私の思いどおりになる夢を、延々と見ているようだったから」
 そうか。焼野原の見た邯鄲の夢も、一種の明晰夢にあたるのだ。
 明晰夢とは、それが夢だと自覚し、自分の思うがままにコントロールできる夢のことだ。焼野原の見た邯鄲の夢は、焼野原が夢見て生みだした人格だった。焼野原自身が夢だと自覚しているし、自分の思うがままにふるまうことができる。あくまでも彼女は焼野原戦であると考えれば、その人格を使いこなす感覚は、明晰夢のそれと合致している。
「いいね。明晰夢は訓練しないと見れない夢だ。鬼林よりセンスあるよ」
 焼野原は「よくわかんないけど褒められたのは嬉しいです」と少しだけ笑った。そのまま歩きつづけると、体を丸めて眠る紫香楽空寝の姿が見える。現実世界よりも小ぎれいなのは、ここが夢のなかだからだろう。時間がそこで止まっているのだと悟ることができた。
「とりあえず、揺すったりして起こしてみて」
 焼野原は「おーい」と紫香楽空寝の体を揺する。しかし、反応はない。身じろぎ一つしないのだ。他にも、耳元で声をかけてみたり、脇腹をくすぐってみたり、焼野原はいろいろ試してくれたが、紫香楽空寝はびくともしなかった。やはり、直接覗くしかないようだ。
 僕は焼野原に「眺診器を着けろ」と囁く。焼野原は困ったように首を傾げる。なるほど。焼野原は鬼林と違い、真に受けないタイプらしい。いくら夢が外部刺激に左右されやすいといっても、夢見主によるところが大きいようだ。焼野原の妙に頑ななところや、影響されにくいところは、この状況に直結している。僕はもっと具体的なワードを用いて、焼野原に眺診器をイメージさせた。すると、焼野原は「こうですか」と呟いた。瞬く間に、その手元に眺診器が現れる。結局は自分の力で創りだしてしまうなんて、本当にセンスがある。
 焼野原は創造した眺診器で夢の中にいる紫香楽空寝の夢を覗いた。同時に、その頭の中を覗いている僕の視界も塗り替えられていく。紫香楽空寝の夢の夢の中へ。
 ずぶずぶと沈んでいくと、焼野原は暗がりに滲む石畳に降りたった。不気味な火が細々と灯る、洞窟のような場所だ。現実味のない空間だった。まるで、ゲームに登場する、ダンジョンのようだ。おどろおどろしい風が吹き、焼野原の身を竦ませる。
すると、身構える焼野原に、が現れた。
 地響かせながらこちらへと歩み寄ってくる、岩の塊でできた怪物。ゴーレムだ。禍々しい赤の目を光らせて、そいつは焼野原へと近づいてくる。
 焼野原は「えっ、えっ」と顔を蒼褪めさせていた。そんな焼野原の目の前に、コマンド、、、、が現れる。たたかう。にげる。アイテム。アイテムってなんだ、と僕は突っこみたくなったが、焼野原の「に、にげ、にげたい!」という声に反応した。
「いや、逃げるな」
「なんでですか!」
「おそらく、夢の夢が攻撃を仕掛けてきている。これを倒さないと、本懐の紫香楽空寝には辿り着けない。戦え」
「うそ、むり、そんなの聞いてない! 怖い! やだ!」
「落ち着け、焼野原。お前は幸運なことに、明晰夢の使い手だ。あんな怪物なんとでもなる」
「ひどい、もうこんな先輩知らない、先輩じゃない、今日から先輩なんて枕部くんだ」
「枕部くんでもなんでもいいから、戦え」
 焼野原が「子々孫々末代まで恨んでやる……」と呟きながら、縋るような面持ちでアイテム≠フコマンドを選ぶと、その手元に黒いチョーカーが現れた。焼野原は目を見開き、そのチョーカーを見つめる。ゴーレムは焼野原へと固い拳を振り下ろそうとしていた。僕が「焼野原!」と叫ぶのと、焼野原がチョーカーを首につけるのは同時のことだった。刹那、聞こえないはずの涼やかな音色が、ルルルル、と聞こえてくる。
「えっ」
 僕が放心していると、焼野原はゴーレムの固い拳を、大きな跳躍で躱した。振り下ろされた拳に飛び乗り、そのまま腕を伝っていく。そしてまた一つ跳躍し、猫のようなしなやかさでくるりと身を翻らせた。薄暗い天井の壁に着地、そのまま天井を蹴る勢いを利用し、弾丸の速さでゴーレムの頭上へ。一度回転したかと思うと、焼野原はゴーレムに見事な踵落としを食らわせた。ゴーレムの頭はそのまま砕け落ち、瓦礫となってごろごろ転がった。
 地に降りたった焼野原の背筋は、高踏な勇ましさを湛えていた。あの虫が蘇ったようなありさまに僕は息を呑んだが、焼野原が首のチョーカーを撫でたことで、これは自己暗示によるトランス状態なのだと理解する。
 夢の世界において、想像力は創造力である。特に、明晰夢の夢見主にかぎっては、己の創造力が鍵を握るといってもいい。いつかの時代の枕部一門には刀工がいたそうで、彼が夢の中で打った刀が現代でも悪夢退治に使われていたりするほどだ。夢の中での創造性は、悪夢祓いに求められるセンスの一つでもあった。僕はやはり「玄人か」と呟いた。




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