02


 ふぅ、と溜息をついた。その溜息は教室の雑踏に呑まれて消えていく。淘汰されたこの陰鬱を拾い上げる人間なんて誰もいやしない。当たり前だけど、それは少し悲しいことだと思った。そんな風に些細なことで感傷的になる俺は、きっともっと悲しいんだろうけど。
「ペンが止まっているよ、正義。さっきのアンニュイな溜息といい、君は今おセンチさんなのかな。ちなみに私はおセンチ≠ニセンチメートル≠ノ敬意を込めて御≠つけたものだと思っていたから、暫く私はメートルキロメートルのことをおメイ≠セのおキロ≠セのと言っていたんだよ。今思えば恥ずかしい限りだね。特におキロ≠ヘね、聞いているだけで眠りから覚めそうだよ。君はどう思うかな? 正義」
 いきなりのことで、俺は暫く固まったままだった。力の抜けた手からはペンがぽろりと零れ落ちる。
 ふと日誌から顔をあげると、口虚絵空が俺の目の前の席に座ってこちらに顔を向けていた。花を愛でるような優しげな笑顔だった。それこそ、御伽噺に出てくるような愛らしいお姫様さながらの。
「……なんの用だ、口虚」
「なにか用がなければ君の傍にいちゃいけないのかな? 多くの女子はなんの用もないのに友人の女子の近くへ行くじゃないか。そんな感じ」
「悪いが、俺は周りに、お前と友達だと思われたくないんだ」
「知ってるよ」
 口虚はナチュラルに頷いた。そこには悲壮感もなく、傷ついた様子も見られない。
「だから誰もいないときに君に話しかけたんじゃないか、正義」
 俺はギョッとして辺りを見回してみる。いや、見回す必要さえない。視覚的に感知するよりも先に、聴覚と体感が教えてくれた。今この教室には俺と口虚しかいない。次に確認したのは窓の外だった。外はまだ強く土砂降っていて、ホームルームのときよりも強まっているように思う。窓硝子を叩く音は停滞する気配を見せない。校門の方では色んな色をした傘がちらほらと伺える。まるで花が咲いているみたいだった。とりどりの色の傘が、固まりになって咲き場を求めている。時々傘を忘れたであろう生徒がバチバチと強く降り注ぐそれを睨みながら全速力で校門をくぐる姿が見られた。もう皆帰ろうとしていて、行動の早かった生徒なんかは今頃家にいるのかもしれない。つまり俺は完全に帰宅部に遅れているというわけである。
「……………は……あ」
 無様な溜息しか出なかった。
 俺のそれに口虚は苦笑する。心底愉快そうだ。眩惑される笑みを浮かべて、奴は先程の俺の言葉に返すように言う。
「ふふふ、君がそういった返答をするのは目に見えて……いや、言葉が見えるわけがないな……耳に聞こえていたからね。誰もいないときを見計らってあげたんだよ」
「……律儀なことで」
「当たり前だろう? 私は大好きな君の重荷にはなりたくないからね」
 まだそんなことを言うか、この嘘つきめ。
「それにしてもお茶目だね。皆が帰ったことにも気付かないなんて……いつもの放心癖かな」
「そんな変な癖はない」
「どうだか。まあ、そんなことは微々たることだね。どうでもいいよ。ちなみに正義。私の見間違いでなければ、君は小学校教育に再度お世話にならなければならないレベルの文章を日誌にだらだらと綴っているようなんだが、それは担任教師に対するささやかな反抗かな?」
「反旗翻した奴みたいに言うなよダサすぎる」
 フイと目線を下げて日誌に移してみる。
 ………うっ。確かに。これは酷い。
「ふうむ。まるで一大掌編だね。続きが気になるところだよ」
「うるさい……」
「イソギンチャクが学校にプールを浮かべていて、冬なのに寒くて大変そうだと思いませんでした≠セってさ」
「わかった、わかった、ちょっと頭がおかしかったんだ、読むな、やめろ、せめて音読するな」
 少し声を上擦らせると、また口虚は肩を揺らして笑った。
 ふわりと不思議な香りが弾ける。ああ、これは口虚の匂いだ。しつこくないくせに妙に芳醇な、女子っぽい匂い。蜂蜜とフリージアと林檎が混じりあったような、それでも形容仕切れない、今までに嗅いだことのない新世界みたいな香り。それは、甘く優しく、でも清涼感のある、不思議な調べだった。
 くそ。なんでこいつこんないい匂いすんだよ。
 俺は眇めながら、椅子にもたれて口虚から距離を置く。
「……で、口虚。お前が教室に残ってる理由はなんだ」
「君に話し掛ける際の配慮と大体一致するかな」
 肩を竦めて見せる口虚に、俺は溜息を吐いた。奴はびいどろの瞳でその無色透明な溜息を見つめている。
 なんだろう。お前には溜息が実態化されて見えているっていうのか。
 そんなことを聞いたらまた奴の無益で無闇で無実な嘘が、メタルストームのように飛び交うに違いなかった。びゅんびゅんと煙幕を噴いて溜息すらかき消すだろう。そしてその嘘に俺は疲弊するだろう。流石にそれは嫌だったので、俺は何も触れずに黙っておくことにした。
 しかし、口虚は違った。それはそれは、あまりにも無邪気すぎる声で「溜息をつくと幸せが逃げるというのは嘘だよね」と言う。また意味の分からない会話をするのかこいつは。俺が眉を寄せるのにも目もくれず、口虚はただ続ける。
「溜息をつくから幸せが逃げるんじゃない、幸せが逃げているから溜息をつくんだ」
「逆説的だな」
「ちなみにさっき、君は溜息をついたね。それはつまり君の幸せが逃げていたということであり、私は出来れば力になりたいと思っている。さあ、君はどうする?」
 挑発めいた態度の口虚。形のいい目は威勢よく俺を射抜いていて、もしも矢を引き抜こうものなら、色んなものがびゅーびゅーと傷口から噴き出してくるに違いなかった。色んなものってなんだろうな、幸せは奴曰く既に抜けてるみたいだし、もう怖いものなんてない気がするけど。
「なんだそれ、ヒーロー気取りかよ」
「おっと、残念だがヒーローじゃない。私は《正義の味方》だからね」
 そんな答えになっていないような返答を誇らしげにする。
 《正義の味方》――味方、ねえ。
 こいつはあくまで味方なのであって、《正義》なわけではない。
 当たり前だ。
 クラスメイトに容姿を馬鹿にしたような言葉を投擲したり、無闇やたらに嘘を騙り続ける《正義》が何処にいる。
 結論、そんなものは何処にもいない。
 だったら口虚の信じる《正義》は一体なんなのかと――――そんな考えに至る前に。
 俺は、今日の昼休みに目にしたものを思い出した。
「…………あ」
「……なにかな?」
 俺の沈黙に、口虚は訝しげな態度をした。微妙に唇を尖らせたりしている。
「……なあ、口虚」
 俺は眼球をさ迷わせて力無く呟く。二人きりの教室では視界に入るものは無機物と限られていて、そしてその中には俺の気を沈めてくれるようなものは何も無かった。
 沈めるって、何を?
 この変なもやもや?
 口虚に対する避難?
 耐え切れない沈黙?
 見てしまったことによる、微妙な距離感に対する、恐怖?
「お前、さ」
「うん」
 柄にもなく変に緊張しているせいか、カラカラになった喉を酷使しなきゃ声すら出せない。くそ、なんでこんな奴相手に畏まったりしなきゃいけないんだよ。少し拙い言葉遣いで、俺は口虚に問い掛ける。
「今日、何してた?」
「息してた」
 子供かよ。
「鼓動してた、好きにしてた」
「お前なあ……」
「今日も、君を、愛してた」
 口虚のその言葉に、俺は強く息を止めた。
 その言葉が孕んだ厭らしさに、口虚は気付いていない。
 俺が好きだっていう言葉も、愛しているという言葉も、崩れてしまったような途方もない嘘だ。どんなに詩的に素敵に紡いだって、もはや出鱈目な呪文と同じだ。魔法の解けた愛の歌は、もうどこにも響かない。冗談や夢や幻みたいなものだ。あの媚薬の音色はもうとっくに枯れていた。
「本当だよ、正義」
 嘘だろう? 口虚。
 お前は知らないことを、俺は知っている。
 あのとき――昼休みの教室には俺がいて、それに気付かず、お前は魔法みたいな嘘を解いた。
 俺は、あの言葉にどれだけ解放されたか。
 あの呪縛にどんな感情を覚えたか。
 なのに。
 口虚はまた、嘘をつく。
 住人に言った否定を、裏返す。
「何を信じなくても、ただこれだけは信じていてね」
 ただ俺は「そうかよ」と返して、日誌の作業に没頭した。





「ふっふっふ、何を隠そう、私は傘を忘れてたんだよ」
 アホかこいつ。何胸張って言ってんだ。
 日誌を書き終えて職員室に届けに行く道中、口虚がとうとう白状した。そりゃあいつまで経っても帰らないわけだ。帰るための傘をこいつは持っていなかったんだから。なのに曖昧にぼかして、なにか用がなければ君の傍にいちゃいけないのかな?≠セのだから誰もいないときに君に話しかけたんじゃないか≠セのとのたまって。
 俺は少し眉を引きつらせた。口虚は肩を竦めるようにして話し続ける。
「いや、まさかこうも降られるとは思っていなかったからね。かなり焦ったよ。うん。生徒会に傘を借りに行ったんだけど、生憎ぜーんぶ貸し出されていたんだ!」
「それは可哀相に」
 多分だけど、全部貸し出されていたなんていうのは嘘だろう。あそこはかなり傘の蓄えがあるし、いざとなれば合羽を貸し出すシステムになっている筈だ。事実、俺も昔合羽を借りたことだってある。何も対処をしてくれないだなんていうのは有り得ない。
 変人である口虚への嫌がらせとして生徒会が嘘をついたのか。
 例にして日常茶飯毎度いつもの如く、口虚が嘘をついたのか。
「まあ、いきなりの悪天候だから仕方がないと言えば仕方がないよね。私が使えなかったということは、誰かが使えたということだ。そう思えば、私はよしと出来る」
「そうかい」
「そうだよ。だからね、正義」
「あ?」
「傘に入れて」
 俺は多分、物凄いレベルで嫌そうな顔をしたんだと思う。無意識ではあったけど。筋肉が異常な動作で硬直していた。まるで、顔に泥が貼りついて固まっているみたいだ。それ以外の動作を断固として許さない。
 両肩にリュックサックよろしく無理矢理背負わされた合成皮製の肩掛け鞄の中に折り畳み傘が存在していて、今後この土砂降りの中でまさしくヒーローの如く俺の盾となることを熱く期待している。もちろんこいつは戦隊モノなんかじゃないから頼れる四人の仲間なんていない。オンリーワンの存在である。
 オンリーワンの、傘なんだ。口虚に貸してやれるような軽々しい存在ではない。
 だから、それは、つまるところ。
「入れて」
 口虚と二人で入れと言うのか。
 この小さな折り畳み傘に。
 なんでもないように笑う口虚に俺は頬を引き攣らせた。相変わらず奴は妙に飄々として俺の返事を待っている。……いや、待ってない。これは待ってない。さっきの疑問符無しの言い方。もう入る気満々なのは確実だ。返事さえいらない。ただ念を押しただけとも言える。
 俺は窓の外を見遣った。
 まだビチバチと窓は激しく叩かれていて、だんだんと風も強くなってきている。その轟々しさといったらない。華奢な奴の身体くらい、軽々と吹き飛ばせそうだ。
 俺は小さく重い肩を落とす。
 答えは勿論決まっている。
「オーケイ」
 誠に非常に遺憾ながら。



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