01


 海野住人は俺の友人である。親友と呼べるような間柄かと聞かれても、そんなものは一方的な好意にしかすぎないのかもしれないし、怖くて首を縦には振れないけれど、でも、それでも、テスト明けに誰と遊びに行こうかと考えたときに、一番に思い浮かぶのは住人の顔だし、俺に悩みが出来たとしてそれを誰かに零すとしたら、真っ先に住人のところへ行く。つまるところ、一番仲がいいと言っても過言ではない人間、それが海野住人なのだった。結構愛想不精な俺とは違い、明るく前向きで、いつも元気に笑っている。
 しかし、どうだろう。
 今の住人の顔。
 なんとも言えず浮かない色をしているではないか。その重さと言ったらない。海にいたら沈んでしまいそうなくらいだ。今にも窒息しそうで見てられない。どうにかして救済の浮輪を投げてやりたいところだけど、俺はどんな言葉すら思いつかなかった。
 それは、今の状況にもよるのかもしれない。
 いよいよ明後日に冬休みを控えた頃の、どんより雲を張った空の昼休み。ほぼ誰もいない、というか、口虚と住人以外いない、不気味なくらい作られた°間で、二人は教卓の近くで対面していたのだ。この空間を作るため、もしかしたら、住人が何か謀らったのかもしれない。
 酷く人工的なその静寂にいる、二人の男女。
 その空気だけで、何を広げられていたのかは予想がつく。
 ――マズかった。
 誤魔化すような感情を持って、俺はそう思った。昼休みに入った直後、提出物のノートを職員室に持っていくという、委員長ならではの面倒臭い仕事を仰せつかって、やっとのことで戻ってきたらこれである。透明の帽子を脱ぎながら穴にでも入りたい気分だった。
 俺は廊下の陰に隠れて、二人から見えないように聞き耳をたてている。下世話な出刃亀かもな、と俺は自嘲の溜息を吐いた。
 それにしても。それにしてもである。俺は新しく知った友人の事実に少しばかり驚きを隠せずにいた。
 そうか。
 住人って、口虚のことが好きだったのか。
 口虚絵空に、恋をしていたのか。
 あれだけ傍にいたのに、全然気付かなかった。まあ俺が口虚の世話にかかりっきりだったこともあるのだが。
口虚だって結構可愛らしい顔してんだし、実は役得だったりするんじゃねえの?
 なるほど。だから先日住人はあんなことを言っていたんだな。俺はそこで納得した。
 しかし、住人は、好きな女にかかりっきりだった俺を、どう思ったんだろう。
 ふと、そんなことを考えた。
 知らなかったし知らされなかったし知らせなかったことではあるんだろうけど、住人は俺のことを、どんなふうに思っていたんだろう。よくわからない感情が堆積した。どろついてまごついて。上手く言葉に出来ないが――心臓が動悸するような奇妙な熱が、俺の全神経を浸蝕した。冷めない。熱が冷めない。
 俺はその場を立ち去りたくなった。深く息を止めて、静かに踵を返す。お腹が空いている、弁当は教室だ、お金も鞄の中、何も出来ない、でも、この空気を咀嚼することに比べたら、きっとずっとマシな筈だ。
 俺は、ただ、一歩踏み出そうとして。

「人間、顔ではない≠ニ言うけれど、君は顔が人間ではないね」

 ――そうはさせないのが、奴だった。
 俺はピタリと足を止める。
「目はギョロギョロしてて不気味だし、鼻なんてどこにあるのかもわからないくらいだ。唇はぼったくて気持ち悪い。藻草に絡まってそうな顔面をしている。悪いが私はそんな顔に恋愛感情を抱くほど無差別ではないんだ」
 犬の糞を踏んだとき、人はおよそこんな反応をするだろうという調子で、口虚はそう続けた。一瞬耳を疑ったが、現実は疑いようのないまでに真実だった。口虚は、淡々と坦々と眈眈と、侮蔑や暴言にも似た言葉を放つ。
「多分私は川野くんを一生かかっても好きになれないだろうし、好きになる要素もない。生憎君とは付き合えない。付き合いたくない。ごめんなさい」
 そんな謝る気をサラサラ感じさせないような言葉遣いで、口虚は住人に言い放った。俺は拳を強く握り締める。
 腹の中で、マグマみたいに熱を噴く感情が溢れ出す。どろどろと色んなものを侵食していって、今にも爆発しそうだった。苛立ちなんて可愛いもんじゃない。これはとめどないくらいの憤怒だった。
 口虚はまた、いつものように暴言する。妄言もするし、暴言もする。タチの悪い鋭利を、剥き出すようにぶつけてくる。
 本当に厭らしくて、許せない。
 小憎らしいくらいに整った奴の顔がじんわりと苦笑を描いていく。見惚れて魅蕩れるような微笑み。でもそこから滲むものは、先ほど投げつけられた言葉の類似物だ。宝石のようにも刃物のようにも見える、奴の不気味なまでの価値観は、住人を傷つけることさえ厭わず、その求愛を強く拒んでいる。
 住人は何も返さない。
 返せない。
 ここからの角度ではわからないけど、多分苦渋に満ちた顔をしている筈だ。
もしかしたら、泣いているのかもしれない。そして何も言えずに、ほぼ罵声とも言える言葉を耳に入れ続けている。自分が恋をしているはずの、女の子から。
「もういいかな?」
 口虚は言う。多分、この話をもう終わってもいいか、ということだろう。
 となると、俺はここにいると色々マズイだろうか。でもそんなのはどうでもいい。俺は自分の怒りを押さえ込むのにイッパイイッパイだ。しかし、口虚の言葉を聞いた住人が紡ぎ返した「最後に……」という言葉で、その舞台のようなシーンの延長が決まる。
 口虚は首を傾げた。住人は意を決したような、そして縋るような声音で、口虚に問いかける。
「その………好きな人がいるから、駄目なのか?」
 口虚は目を見開いた。
「だから、俺とは付き合えないのか?」
「……………」
「お願いだ、教えてくれ……!」
「……………」
「お前は……もしかして……正義のことが好きなのか……?」
 住人の言葉に、俺は強く息を止めた。
 ――――口虚は、言う。
 毎日毎日、俺に言う。
 好きだと、愛していると、甘く蕩けるような褒舌で。
 清らかな笑顔を浮かべて、絡めとろうとする。
君は私にとって、誰よりも何よりも愛しい存在だからね

「違うよ!」

 ほら。やっぱ嘘つきなんじゃないか。
 廊下の窓の外のお化けの手みたいに細い木が、風でゆらっと折れそうなくらいに大きく揺れた。





 その日の午後は、生憎の土砂降りだった。今日は朝から、降る前独特の、妙に甘ったるくて重苦しい、薄ら青い空気がそこかしこに立ち込めていたし、空の動きだって乱れていた。だから俺は一応の為、折り畳み傘をちゃんと準備してきている。今も鞄の底で出番を待ち構えているところだった。ビチバチと教室の窓を叩く音が響く。やけに五月蝿く耳障りだった。
「じゃあ、明日はいよいよ終業式だ。もう二学期も終わりだな……冬休みがあるからって勉強を怠るなよ。宿題も。答えを写すだけ写すなんて自殺行為は絶対にするな。わかったか海野!」
「せんせー、なんで俺だけに言うんだよー」
 あちらこちらにクスクスと小さな声が鳴る。おどけたような住人の態度に、他の男子はげらげらと大笑いしていた。
 今日の昼休みにあんなことがあったというのに、住人はそれを噫にも出さない。ただクラスメイトの何人かが、意味ありげな眼差しを住人に向けているだけだった。なるほど。こいつらがあの作られた°間のアシスタントというわけか。発言力のありそうなメンツ揃いだ。
 口虚のほうをちらりと見遣る。奴はと言えば、厭世的な目で窓の外を見ている。なんとなく恨みがましそうだ。どんよりとした雲から落ちてくるその粒たちを見つめる奴は、溜息するように頭を垂れた。こいつもだ。住人からの告白を、もう忘れているかのような態度。
 二人以外の誰もいなかった教室で繰り広げられた小さな恋の終わり。それを知っているのは俺のように思えて、なんとなくむず痒い気持ちになった。
 ホームルームももう終わったのか、教室はざわざわと落ち着きをなくしたように人の動きが激しくなる。俺は自分の机の中から日誌を取り出して今日の日記≠ニいうスペースを埋める作業に移った。このスペースはその日あったことをただただ書き連ねるだけでいいのだが、如何せん担任教師が見るものだ。迂闊なことは記載できない。例えばだ。もしもそこに口虚がクラスメイトの女子A(本人の意思により匿名希望)に罵詈雑言を撒き散らしていた≠ネんてことを書いてみたとしよう。翌日にはそれを議題にロングホームルームが開かれるに違いない。なんて面倒くさい。しかも絶対白熱しない。むしろ薄熱。クラスメイトの嫌そうな顔が目に浮かぶようだ。そんなのは御免被りたい。
「あ、正義、まだ日誌ある?」
 ふと、住人に声をかけられた。奴の肩には運動部が使うような安っぽいエナメルみたいなツルツルした鞄がかけられている。ちなみに奴は水泳部。冬は寒くてプールを使えないし、体力づくりに従事する時期のはずだったが、流石にこの天候じゃランニングもままならない。多分普通に帰宅することに相成ったんだろう。そういうときはいつも俺と帰ることになっているのだ。
 俺は昼休みの件から、どう住人と接していればいいのかわからなくなってしまった。
 なんとなく――誰かが一生懸命埋めたであろうタイムカプセルを、たまたま偶然掘り返してしまったような。そんな、微妙な思いが、心の中で虚を産んでいたのだ。
「ああ。悪い。遅くなるかもしれないから、先帰っててくれよ」
 住人は「そっか」と呟いたあと、手を振って教室から出て行った。俺も振り返したのだがどこかぎこちなかったに違いない。住人が変に意識してくれなかったことだけが救いだ。親友といえる存在とギクシャクした関係になるのは流石に嫌忌される。



****|next

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -