クリーム色の床と壁はペンキを撒き散らしたように赤く染まっていた。むせ返るような匂いに吐き気を堪えながら懸命に走る。現実から逃げ出せるなら私はいつまでだって走り続ける。これが夢なら、悪夢ならどれだけいいか。リビングに飛び込んだらそこはまだ赤く染まっていない部屋だった。

「なまえ、来ちゃダメだ!」
「なまえっ」
「お父さん、お母さん…?」

こちらに伸ばされた二つの手。私が両手を伸ばした時、二つの手は触れる前に重力に従って下ろされた。順にくずおれる二人の体。気付いた時にはこの部屋も赤に染まっていた。母を抱えて倒れる父の最後の唇の動きを私は見た。「生きろ」。濁りかけた母の瞳が優しくやわらいで「愛してる」と私に告げた。私は走った。



「う゛お゛お゛い!!逃げるぜぇ?」
「追えドカス」
「ベルがいんだろぉ」
「根絶やすには早ェっつってんだ。カスが」
「…チッ」

黒を纏った男の銀色の瞳は獲物を捕らえる瞬間の猛獣のように炯炯としていた。もう一人の男はそれを一瞥し、興味なさげに鼻を鳴らす。二人は暗殺者であった。




***



廊下の窓から外を伺えば墨を流したような暗闇の中、時折きらきらと何かが光った。それが父と母を貫いた刃の光であると私にはすぐに分かった。(外には逃げられない。)私は軋む廊下をゆっくり進み、使われていない小部屋に身を滑り込ませた。隠れる場所はないかと室内を見渡せば、ベットと壁の間に人ひとり隠れられそうな隙間があった。

「あれー?もしかして、ミーの存在気付いてませんー?」

そこに向かって一歩踏み出した時、背後から気抜けするような抑揚のない声がかかった。
「気配バリバリなんですけどねー」
「…だれ?」
「さー?誰でしょう」
なまえは警戒して後ずさる。扉の向こうから聞こえてくる声は、でもまあ、と付け足した。
「あんたにとって都合の悪い存在なのは確かですー」
「…つごう、」
「そ。つまり俺達がオマエを殺すってことな」
「!」

扉にばかり意識を向けていて窓の方など気にもかけなかった。そこから入ってきたのは金色の髪にティアラを乗せた男の人だ。指先で弄んでいるのは真っ赤なナイフ。反対を向けば開いた扉の向こうにはカエルの被り物をかぶった無表情の青年が立っている。

「うししし、逃げ場、完璧ねーよ?」
「ほーんとセンパイって加虐思考ですよねー。快楽殺人とか正直ひきますー」
「否定はしねーけど。だって俺王子だし?」
「堕王子だろ」
「死ねカエル」
「ゲロ」
「っあ!」

金髪の人が投げたナイフがグサグサッとカエルの人に刺さる。咄嗟に駆け寄れば、激痛が左肩を襲った。見れば血が出ている。

「ハ?何お前、フランの心配してんの?」
「えー。逃げようとしただけじゃないんですかー?」
ナイフを刺されたというのに、フランと呼ばれた青年はけろっとした顔で普通に会話している。
「ま、どっちでもいいけど。」
「!っきゃ」
「避けんなって。楽に死なせてやんだからさ」
「や、やだ」
「やだじゃねーよ」
金髪の人が放つナイフは全部私に向かって飛んでくる。必死になってそれを交わしていると徐々に不機嫌そうな声がふりかかって来た。次の瞬間、足払いされて床に腰を打ち付け、次いで背中をぶつける。私の馬乗りになったその人は下唇を舐め、長い前髪から狂気的な瞳を垣間見せた。


「大人しくしときゃ、痛い目みねーのに」
「っぃあぁああ!」
「しししっ!何?イテーの?これは?」
「や、うう…っぁあ!!」
「ベルセンパーイ、殺るなら早く殺っちゃってくださいー。ミーも退屈でハゲますー」
「言われなくても殺るっつの」

今まで悪戯に私をいたぶっていたナイフが掲げられる。体中がじわじわと痛い。そのナイフが心臓を突き破ってくれるならそれはもしかしたら優しい行為なのかもしれない。
私は頭が変になってしまったのかも。だって、そう思ったらそんなに怖くなくなった。
お母さんたちに、あえる。

「…」

私の手首を抑えつけている大きな手。指先を動かしてその手の甲に触れてみる。思ったほど冷たくなかった。
(ごめんねお父さん…生きろって言われたのに)
その時、私の手首を抑える力が少し弱くなった。私はそれを振り払って逃げることをせずに、温もりを求めて無意識にその手を握ってしまった。温かい…な。

「センパイ」
「…分かってるっつの」


ひゅっと風を切る音がした。私の手は、握り返された。それは紛れもなく彼の優しさだった。









「う゛お゛お゛ぉい゛!!」
空気を切り裂くような濁音混じりの咆哮に私はたまらず身を固くした。私の手を握っていた温もりがさっと離れていく。
「ベル、そいつ殺っちまったんじゃねェだろうなぁ!」
「…何?ダメなわけ?」
「XANXUSが一人は残しとけってよぉ。で、どうなんだぁ?」
「ギリギリセーフですー。ベル先輩がてこずってたんでー」
「あ゛ぁ!?」
「ちげーから。テキトーこくな蛙。……なあ」

ゆっくり瞼を開ければベルと呼ばれたその人は私を見ろして首をかしげた。その口元に嘲笑うような笑顔は張り付いていなかった。
「良かったじゃん。俺らの作戦隊長のナイスタイミングのおかげで命拾いだぜ、オマエ。…とりあえずは、だけど」
「…、ぁ」
「あん?何か言いてーの?」
「う゛ぉぉい!くっちゃべってねェでさっさとそいつ連れてこい!」
「何?」

「あ、りがとう」

私の上に屈みこんで耳を寄せたベルは、そのまま固まった。まさかお礼を言われるとは思わなかったんだろう。私も言う気はなかった。
(でも、勘違いじゃなかった)
確かに握り返されたもん。
おもむろに立ち上がったベルは膝の埃を払って、ドアにもたれていたフランを呼ばわる。声の大きな人は痺れを切らして先に行ったようだ。

「こいつお前がボスんとこ連れてって」
「ミーですかー?」
「先輩命令な」
「チッ。…勝手にフラフラしてるとアホのロン毛隊長に怒られますよー」
「あ?うっせーなトイレだよ」
「へー」
「、っきゃ」

片手で立ち上がらされて、痛みに歯を噛み締める。ベルは一度私を振り返った後何も言わずに部屋から出て行った。

「ほら、行きますよー」
「…」
「あ、間違っても逃げないでくださいねー。ミー追いかけんのとか面倒なんで」
「…ごめんなさ、い」
「はあ、謝ったってミーは助けられませんよ。そんな事したら怒りんぼのボスが」
「違、くて」
「…?」
「足うまく、動かな」
動かないどころか力が入らない。だから走って逃げるのも無理だ。暫く何も言わなかったフランは面倒臭そうに溜息を吐いて口を開いた。
「抱っこされて運ばれるのと、引きずられていくのどっちがいいですかー?」
「え…?」
「ミーは優しいから選ばせてあげますー。でも早くしないと問答無用で2番になるんでー」
「お、ねがいします」
ひきずられるのはいやだ。恐る恐る首に腕を回すと、無表情のまま「よくできましたー」と言われた。私はこれからどうなるのだろう。
とにかく、今から戻るのはきっとあの部屋だ。覚悟を決めなければ、いけない。



風のようなスピードで廊下を駆け抜けたフランは、あの部屋の前で足を止めた。血の量に戸惑うこともせずに部屋に足を踏み入れ、まず耳に入ったのは機嫌の悪そうな濁音だ。
「遅ぇぞぉ!」
「迷いましたー」
「嘘吐けぇ!って、ベルはどうした!」
「トイレだそうですー」
「チッ、あのガキまた単独行動を。……フラン、さっさとそいつをおろせぇ」
「ミーもそうしたいんですけどー、これ離れる気配ないんですよねー」
「チッ」
「ミーごと斬るとか止めてくださいよ」
「ンなことするかぁ!おい女ぁ、そいつにくっついてても仕方ねぇぞぉ!!」
「…も、うすこし」
「あ゛ぁ?」


私が数回深呼吸するのを、フランは振り落とさずに待っていた。閉じていた瞼を開ける。
「もう、いいよ、…ありがとう」
「…」
床に足が着く。フランから体を離してゆっくり振り返った。
室内は相変わらず血の海で、二人は変わらずにそこにいた。私はふらふらとそこへ歩み寄り、ぱしゃっと膝をつく。

「お母さん」
「お父さん」


指先で冷たい顔を撫でる。こびりついた血を爪でひっかいで落とした。「なまえ」やわらかなお母さんの髪の毛を撫でる。「こっちへおいで、なまえ」あの優しい眼差しはもう私へは向かない。何も「いいこだ」うつさない。どうして「なまえ」お父さんたちは何かしたの?どうして殺されなきゃいけなかったの?「憎んではだめよ、」ねえ目を開けて、もう一度私の名前を「なまえ」名前を、呼んで、


「、い、やああああああああああああああああああ」


お母さん、私は憎しみを知ってしまったよ





私の脳内を激しく揺さぶった汚い感情が怨みだと気付いた時、私の中で母の声が木霊した。(憎んではだめよ。)どうして憎んじゃいけないの?お母さんとお父さんを殺したこの人達を怨むのはいけない事なの?(憎んではだめ)わからないよ。(わからなくていい)苦しいよ、悲しいよ、

(笑いなさい。お前は、笑顔がよく似合う)


私ははっとして目をつむった。膝を抱えて暗闇に座り込む私が見えた。その私の周りに光が湧き溢れたかと思う次の瞬間、私の隣にはお父さんとお母さんがいた。二人はおだやかな、一点の曇りもない表情でそこにいたのだ。
私は目を開いた。
血だまりの中の二人は、同じ表情をしていた。


「テメェの両親は裏で悪行を働いていた。弱小マフィア共に薬や銃を横流して、地下にでかい組織を構成して戦争を企んでいやがった。」
奥の椅子に腰かけた人が初めて声を出した。
私はそっと立ち上がってその人に歩み寄る。
捉えたら離さない赤い瞳が私の動向を探るように動いた。一字一句にこもる威圧感が空気を震わせ、耳朶を揺さぶった。
まるで私という人間の根底を曝け出そうとしているかのよう。



「テメェはそれを知らなかったとは言わせねぇ。ファミリー全員根絶やしにしてやるからそう思え」
「…あなた」
「……あ゛?」
「知らないんだね」
人を許し続けるのがどれだけ大変なことか。それをし続けてきた両親が、あなたの言うようなことなどできるはずが無いのに。
私と男の人は向かい合った。椅子の肘掛けに頬杖をついてこちらを睨みあげるその人を私は恐ろしく思えなかった。


「お母さん達は死んじゃったけど、あなたのことはきっと怨んでない」
「ハッ。殺した奴を怨まねェ死者がどこにいる」
「ここに」

私は笑った。無理やり作った笑顔じゃないのは、自分で良く分かる。こんな時にこんなふうに笑えるのはお母さんたちのおかげだ。
赤い眼をわずかに見開いた男の人。その手が握っていた拳銃を、私は自分の胸に突き付けた。

「おこりません。うらみません
 だからどうか、私をころして」
懇願する

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