どくんどくん。
心臓が破裂してしまいそう。

そもそもどうしてこんな事になってしまったのか……いや、迷子になった自分が悪いのは承知してるのだけど。
見知らぬ街でひとまず落ち着こうと桜のポスターを眺めていると、突然腕を掴まれた。

「おい」

私を呼びとめた人の顔を見てカチンと固まってしまった。
何故って、それがさっき偶然覗いた路地裏で、襲いかかってきた人を全員返り討ちのフルボッコにしていた人だったから。見間違えるはずもない、特徴的なドレッドヘアー。

(落ち着け……落ち着けわたし…)

こういう人から逃げる方法は、ずっと昔に教えてもらった。
まさかそれを実行する日が来るとは夢にも思っていなかったけど。

***

(逃げきれたかな…)


息を切らしながら後ろを向くと、人垣から随分離れてしまったが先程の男の人の姿は見受けられない。
諦めてくれたらしい。

(それにしても、われながら素晴らしいフェイント攻撃だった)

達成感からくふふ、と笑みが浮かんでしまう。
そのせいですっかり前方がご無沙汰になった私は、顔面で人とぶつかってしまった。「ご、ごめんなさい」顔を上げた私が目にしたのは、まさに絵を描いたような凶悪な笑み。

「……な、何で」
「あんなんで俺から逃げられるかよ」

しかも私が逃げようとしていたことまで見抜かれてしまっている。
どうしよう。誰かに助けを求めようにも、人混みを抜けて静かな方へ逃げてきたのだ。ここは先程とは打って変わった人通りの無さ。
ためしに彼から背を向けて本気で駆け出してみたが、時を置かずにまた顔面から固い胸板にぶつかった。
背中を追われるのではなく、気付くと前に立たれている恐怖。
彼はうさんくさい笑顔で私に言った。

「次はどうやって逃げる?君可愛いからさ、もう二、三回なら付き合ってあげてもいいよ」

誰なのこの人、何なのこの人、半泣きになりながらも、悲しいかな、この手合いの絡まれ方に、私はもう何度か経験がある。彼らは私のこの見るからにヘナチョコな身体を見て、どうせ大した抵抗はできないだろうとなめているのだ。
私にとっておきの秘策があるとも知らずに。

「ほ……本当に?」
「え?」
「じゃああと一回……逃がしてください、15秒…だけでいいので」

彼は笑みを取り払ってサングラス越しに私を見下ろした。それから、「いいよ」とまた微笑む。

「じゃあ、次捕まえたら、君は俺が好きにしていいってことだよな」

顔は微笑んでいるのに声のトーンだけで本気だと分かる。
私は震えながら頷いた。
今日初めて会った名前も知らない相手とこんな約束、どうかしてる。それでもこうしないと逃げられないことも明らかだった。

「じゃあ、目を閉じて……15秒待っててください」
「OK」

彼は律儀にもサングラスを外し、目をつむったことを私に確認させてくれた。
私は即座に走り出して彼から離れ、目についた公園の隅、タンポポの群れの中に倒れ込んだ。こんな距離、逃げたとはとても言えない。

普通の人なら。

(深呼吸…)

私が初めてこの特異な性質……とでもいうのか、それに気付いたのは幼稚園の頃だった。
桜の木の下でぼんやり蟻の行列を眺めていた私は、行方不明扱いにされて祖母に警察を呼ばれた。
コスモス畑で友達と遊んでいて、うっかり寝こけた時も当然呼ばれた。
兄が中学の頃、何かに気付いた兄に向日葵の花瓶を持ったまま部屋の隅に立たされたら、私がそこにいることに家族の誰も気付かなかった。

私は花と、すこぶる相性が悪いらしい。
花と並んだ時、私の存在感は人間以下になってしまうのだ。

だから、この方法で逃げられなかったことはなかった。
今までは。
絶対になかったのに。

「あ゛ー?何だそりゃ、隠れてるつもりか?」

目の前に広がる青空が翳ったかと思うと、そこには私のことを見下ろすその人の姿があった。
驚きすぎて声も出ない私に見上げられて、彼はクツクツ笑う。

「間抜けヅラ」

言ったかと思うと、私の身体にまたがって顔を寄せてくる。その身体を突っぱねようと両腕を伸ばすが、力の差は歴然だった。

「や、やだ」
「約束したろ。もう逃してやんねェよ」
「何で」
「あ?」
「……何で、見つけられたの?」

彼は意味がわからなそうに片方の眉を引き上げて言った。

「お前みたいなやつ探すまでもねぇだろ」

今日初めて会った人の言葉が。
こんなに怖い風貌をした人の言葉が。
まさかこれほど胸に染みるとは。

 

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