サキは膝に手をついて、早くなった呼吸を落ち着けた。つく息は白くなって闇夜に昇っていくのがはっきりと見える。
娘の姿はどこにもない。
彼はUターンしてまた走り出した。そのまま飛び出してきたのでずいぶん薄着だったが、寒さなど感じる暇もなく、ただその姿が見当たらないという恐怖ばかりが、彼を焦らせてた。さきほど右の道をえらんだ分かれ道を、今度は左の道へ進む。たまに車が通る程度で、通行人はサキ以外にいなかった。走り続けて、小さい頃に里紗をよく連れてきた公園まで来た。
ぶらんこがかすかに揺れている。
かすかな期待を持って公園の中を、周辺を、くまなく探し回ったが、里紗の姿はない。
まさか、こんな短時間の間に、そんな遠くまで行けるだろうか。
サキの頭を最悪の想定がよぎる。
「サキー」
声に振り返ると、ダウンジャケットを腕に抱えたシオンが走ってきた。
「ごめん、」
サキは彼女からそれを受け取って腕を通しながら言った。
「私ももうちょっとこの辺を探してみる」
シオンは無理に少し微笑んで言い、踵を返してすぐに走り出した。“俺がすぐに里紗を引き止めていれば”と、サキの胸には悔恨の意が沸き立ち、彼は逃げ出すように公園から走り去った。いや、そんな、たったひとつの行動のせいではない、今までの全てが原因で、一番守りたかったものを失うのだろうか。走りながら感じる焦燥と後悔と恐怖の感覚は、17年前のあの日を思い出させた。



「里紗ちゃん、ご両親に連絡はしなくていいの?」
カエデが訊いた。里紗は答えるより先に首を横に振る。
「やだ! しないわ、絶対。存分に心配して寿命を縮めればいいのよ、あんな人たち」
「そんな酷いこと言っちゃだめだよ」
カエデは笑って、そして「そうだ、」と思いついたように言った。
「里紗ちゃんのお父さんとお母さんはどこに勤めてるの?」
「東京の国営霊媒会社。あそこは革命派の動きには中立なんだけど、うちのお父さんとお母さんは、革命派の中心人物らしいの」
「へえ、国営の職員なのに?」
カエデがビールのグラスをテーブルに置きながら聞き返した。
3人はカエデの家に着いて、ダイニングで酒を飲みながら喋っていた。カエデは、里紗にはなんだか高そうな味の濃い林檎ジュースを出してくれた。
「アイノコに戸籍を持たせたり、社会的な地位を獲得するための運動とか、始めたのはうちの両親」
「あれの中心人物が里紗ちゃんのお父さんとお母さんなんだ。へえ、世の中上手くいかないねえ」
彼はほとんど面白がっているようだった。しかし、里紗もこれは最早お笑いだと思う。
「自分たちが結婚したかったからよ」
その言葉に、シュンもカエデも笑った。
「そんなふうに言うけど、ふたりが結婚しなきゃ里紗ちゃんは生まれてないんだよ?」
さっきから喋っているのはカエデばかりで、シュンはたまに小さく反応するだけで黙って話を聞いていた。なんだか、寂しそうだった。
「できちゃった婚よ、計算合わないもの」
「じゃあ君のために結婚したんだ」
「私を言い訳にしたんじゃない? 何も教えてくれないんだもの。私、知らないわ……シュン、どうしたの?」
「ええ?」
急に話を降られて、シュンは驚いたようだった。見開いた目が、次の瞬間には里紗に微笑みかける。
「いや……別に」
「シュンはお酒弱いんだよ」
カエデが笑ってシュンの肩を叩く。彼はそれにたいして否定する様子もなく、ただ困ったように肩をすくめた。空が白んできた。朝が来る。
よく見るとカエデはびっくりするぐらい飲んでいた。びっくりする、というのは、本人にアルコールの気配が全く見られないからである。反して、シュンは本当に弱いらしい。
「あっ、もうこんな時間だよ。シュン、もう寝たほうがいいんじゃない?」
「いや、まだ大丈夫だよ」
「絶対に今日、疲れているよ、君。寝たほうがいい」
カエデにしつこく言われると、シュンは不服そうながらも立ち上がって、お休みと言い残してリビングを去って行った。本当に大丈夫かな、というぐらいフラフラしていた。
「過保護なのね」
「そんなんじゃないさ、ただあの子はね、特殊な体質だから」
「特殊な?」
「うん、普通のアイノコほどの強度がないんだ、身体に。体力も身体能力もほとんど人間程度……まわりのペースに引きずられて生活してると、簡単に身体を壊す。だからこっちが気を遣ってやらないとさ」
「カエデはシュンの師匠なの?」
「違うよ、シュンの師匠は死んでしまったんだ。あの戦争で……私は代わりに彼の面倒を見ていたことがあるってだけ」
「ふーん……」
里紗は、自分の親が死ぬのを想像した。こうやって家出してきたわけだし、親の考え方には真っ向から反対だが、それでもやっぱり、ずっと一緒にいた人がいなくなるのはとてつもなく寂しい。
シュンも、シュン以外にも、そうやってあの戦争で大切な人を失ってきたのだろうか。その中で私を得た両親は、なんだか存在そのものが皮肉みたいだ。と、里紗は考える。
いや、両親よりも、自分だ。自分が、一番、皮肉な存在だ。それとも、私が全部背負っているのだろうか。何かを失ったアイノコたちの思念を、私が全て――。
「でもシュンを見くびっちゃいけないよ」
カエデはまるで自分のことのように誇らしげに言った。
「剣術で彼に勝てるものはいない。戦争の頃、彼はまだ若かったけれど……里紗ちゃんは今いくつ?」
「17歳よ」
「ちょうど戦争の時の彼と同じだね。そのときから、シュンは希代の天才剣士として恐れられてた。人一倍努力したんだろうね、意外に負けず嫌いなんだ」
「すごい」
「あんまり本人には言わないであげてね。体力のこととか、気にしてるから」
カエデは人差し指を立てて唇にあててみせた。里紗はなんとなく頷いて了解する。
希代の天才剣士。
そのことには触れていいのだろうか。
「お父さんもお母さんも、私に刀を持たせてくれないの」
「まあ……それは仕方ないことだね」
「でも私が夢をかなえるためには、剣術は絶対必要でしょう? もう私17歳だし……普通のアイノコなら働き始める歳だわ、なのに……剣術を何も知らない。もう遅いのかな」
「シュンに教えてもらえば? 今からでも遅くないよ」
「頼めば教えてくれる?」
「多分ね」
カエデは適当にそう回答してから、両手でビールの缶を捻り潰した。
「私も君に刀を一振りあげようか」
「本当に?」
「君が今度東京に戻ってきたらね」
シュンが自宅がある兵庫に帰るときに、一緒に行くことに決めたのだ。
「……戻ってくるかしら」
「だめだよ、戻って来ないと。今はご両親と距離を持つことが必要だろうからね、いいけれど、いつかは帰らないと」
「……」
里紗はうつむいてしまった。そのいつかが、訪れるまでに、決心がつくだろうか。今の自分には全く想像がつかない。刀を理由に東京に戻って、またすぐどこかに越してしまおうか。
自分が子供だから意地を張っている? アイノコは大人になれる? いくつまで成長の余地が残されているんだろう?
「カエデは、大人?」
ふと思いつきで、彼女はそんな問いかけをした。
「え?」
カエデはたしか里紗の両親と同年代だと言った。考えてみれば、両親も、カエデも、余裕があって、心が広い感じがする。いくらずっと17歳のままだと言っても、やっぱり大人になることはできるんだろう。そう思いたい。
「……分からないな。考えたこともなかった。いつまでも少年のような気でいたよ……このナリで、時間が流れる心配をするのは怖くてさ」
彼はそれだけ言って、空になった皿を重ねながら立ち上がった。
「里紗ちゃんももう寝な」
「て、手伝うわ」
「ああ、じゃあ食器だけこっち持ってきて。洗うのはいいから」
自分からはとても遠い、頼れる大人だと思ったのに、キッチンにたつカエデの後姿はなんだか頼りない“女の子”みたいだった。髪が長いからか。線が細いからか。
アイノコだからか。
「分かった……ありがとうございます、色々」
カエデは里紗のほうを振り返って、お得意の微笑をみせた。
「どういたしまして」

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