あ、なんて酷いことを言ってしまったんだろう。
そう思った瞬間に、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。それを隠すかのように、里紗は走って出て行った。
「里紗!」
母親が彼女の名前を呼ぶ。それでも少女は止まらず、あわてて父が彼女を追いかけた。里紗は階段をかけおりて、自分の部屋に行って帽子とコートとマフラーを身につけた。学校の鞄を肩にかけ、部屋から出ようとしたその時、
「どこ行く気だ、もう外は暗いぞ」
父親がドアの前に立っていた。
「関係ないでしょ!? 私のことに口出ししないで!」
驚きはしたものの、彼女も毅然とした態度で返す。
「里紗!」
里紗は彼のわきを抜けて廊下を走り、玄関にちらばったローファを足先で転がして足を入れた。
「もうこんな家、二度と帰らない!!」
彼女がドアを開けながら放ったその一言に、伸ばそうとした手まで凍りついた父親の表情が目に入った。里紗はそれを振り切って家を出た。

暗い街並を駆け抜けていくと、次第に涙が乾いて行った。この闇の世界には、幼い時分から憧れている。“彼ら”は、夜に起き出して仕事をして、昼間に寝ているらしい。
どうして私は違うんだろう。それもこれも、両親の所為だ。どうして学校に行かなくてはいけないんだろう。それも両親が悪いのだ。
そう思うと、里紗はさらに足を速めた。どこに向かうあてもない。とりあえず、自宅から遠く離れたかった。できることなら電車に飛び乗って、誰にも探せない、遠くへ行ってしまいたい。でも、臆病な自分にはそんな勇気がないんじゃないか。
里紗はゆっくりとスピードを落とし、人通りのない静まり返った住宅街を歩いた。あたりには、彼女が鼻をすする音だけが響いた。世界中に、私ひとりきりになってしまったみたいだ、里紗はそう思って、自分までこの深淵に溶けて消えてしまえるように感じてきた。このまま歩いていれば、いつか。
冬の夜は、身体の芯まで冷える。真っ黒い背景の夜空に、彼女の吐息が白くはっきりと昇っていく。
いつのまにやら里紗は無心になって、ただひたすらに足を進めていた。どのくらい時間が経過したか分からない。彼女の目の前に、真っ暗闇に包まれた公園が現れた。不思議と、昔から闇は怖くない。やっぱり自分は夜に生きる生き物なのだと、彼女は心のそこで自覚していた。きっと両親だってそうだ、どうしてあの人たちは、無理に私を歪めようとするのだろうか。里紗にとっては、純粋な疑問でしかなかった。
里紗は公園のぶらんこに腰をおろし、ゆっくりとこぎだした。背後の植木がざわざわと風に揺れる。ぶらんこの振れ幅が大きくなってきた頃、彼女の頭からふわりと帽子が飛んだ。
「あっ、」
彼女は足でぶらんこを止めて、走って帽子を拾いに行った。かがんで、砂の上に落ちたそれを拾い上げた瞬間だ。とてつもない虚しさが胸にこみ上げてきて、今までの無心の強かな横顔はどこへやら、また不安の表情になってしまった。家も学校も、自分が今まで所属してきたすべての社会が嫌で嫌で仕方ない。消えてしまえばいいとは思わないが、全て自分が生きやすいように変わってくれればいいと思っていた。これは何かの呪いなのではないか、いつか溶けるのではないか、と、淡い期待さえ抱いていた。それほどに現実が酷だったからだ。全て、里紗を受け入れてはくれなかったし、里紗も全てを拒絶するようになった。でも、だからと言って、全て捨ててしまえば、誰を頼って生きていけばいいのだろう。誰が私を、愛してくれるだろう。そんな切なさに、里紗はにっちもさっちもいかなくなって、また涙がこぼれそうだった。
ふいに遠くから足音がして、父親だ、と直感的に思って里紗は急いで帽子を被り、遊具の影に隠れた。
足音は次第に近付いてくる。里紗は息を殺してその音に集中していたが、途中から自分の心音に邪魔された。この足音の主が、父親なら最悪だが、それ以外なら、自分に危害を加える目的の何者かだとしたら、最悪どころの話ではない。
そう思って悪寒が全身をかけめぐった直後だ、コートの襟首を思い切り後ろから引っ張りあげられた。明らかに父親ではない、知り合いの誰でもない、暗くてよく見えないが、力の強い男のようだ。悲鳴をあげかけたときには手袋をした手で口を塞がれた。もがいてももがいても、後ろから羽交い絞めにする男の腕からは逃れられない。鼻と口を強く押さえられて、意識まで朦朧としてきて、これはもうだめだ、家にいたって不幸、家を出たって不幸、と、里紗が全てに絶望したその時だった。
また誰か走ってきた。
父か? それともこの男の仲間か?
嗚呼、父親じゃない。もうダメだ。私は幸せになれない、そう作られたのだ、そういう運命なのだ。不幸なまま死んでいくんだ。里紗は強張っていた身体から力を抜いた。じゅうぶん見せつけられた。自分は幸せとは無縁なのだと。
「おい、その娘を離せよ」
聞こえてきた台詞があんまりにも上手く出来すぎていて、里紗は拍子抜けしてしまった。
この世にも正義のヒーローが? この争いもないクソみたいなアホだらけの世界にヒーローが? 必要あるの? そんな人。
私の味方が、この世に?
「どこのまわしもんだ?」
里紗を羽交い絞めにした悪党が、その“ヒーロー”と思しき人物に問うた。舌打ちが聞こえた気がした。そして次の瞬間に、何かが風を切る音がして、悪党の手が身体から離れて、里紗は自由な闇夜に放り出された。膝と手を地面について倒れこみ、すぐに後ろを振り返れば、彼女が夢にまで見た“青く輝く刀”がそこにはあった。風を切る音は、“彼”が刀を振り下ろした音だったのだ。危うく切られかけた悪党は地面に転げ、慌てた様子で懐から何か取り出そうとしていた。きっと拳銃か何かだ。しかし、人間に興味はない。里紗はその青い輝きに見入った。
「おいおい、罪なき少年少女を殺してどうする気だよ?」
彼は笑った。青い光に照らされて、一瞬だけ顔が見える。やはりあどけない、少年の顔をしていた。しかし大きな宝石のような“私たち特有”の瞳はよどみを隠しきれていない。里紗よりはだいぶ年上、もしかしたら、父親たちと同年代かもしれない。
「そっちが斬りかかってきたんだろう」
「死にたくなきゃさっさと逃げ出すことだな」
男がニヤリと笑う顔が、その人間の男の目にも映ったのだろうが、なぜかその瞬間、彼ははっと息を飲んで、恐れをなした様子で、叫びながら足をもつれさせて一目散に逃げて行った。
彼は、それを追いもしないで後姿を見送り、刀をぶんと一振りした。刀身は、跡形もなく消え去る。
人間が逃げて行ったのが何故なのか、里紗が考えていると、
「気をつけなよ、最近ああいう馬鹿な人間が多いからね」
男がそう言って、彼女に手を差し出した。里紗はその手を取って立ち上がりながら訊いた。
「助けてくれて、ありがとうございます……あの人はどうして私を襲ってきたんですか?」
「“アイノコ狩り”だよ、今流行の」
彼は、里紗の想像していた“ヒーロー”とは相反する無愛想でぶっきらぼうな風だった。
「本当にいるのね、初めて見た」
「いっくらでもいるよ」
「どうしてあなたの顔を見て逃げていったんですか?」
その問いに、男は少し間をあけてから答えた。
「知らん。俺を知ってたのかな、あいつが。大抵、アイノコ狩りのやつらはイマドキの、戦闘技術を持たないアイノコしか襲わないからさ」
名も知れ渡るほどの、強いアイノコ。
里紗は彼の発言に胸を躍らせた。
「あの……あなたの名前は?」
「シュン」
「私、里紗です。あの、シュンさん」
里紗は真面目くさって、真顔で言った。もともと人と喋るのは得意ではないし、笑うのも苦手だ。すでに息が出来なくなりそうだった。
「何? 早く帰んなね」
「助けてもらった恩返しをさせて、」
「はぁ?」
「く……ください……」
はぁ? と言われたのが怖くて、里紗は一気に自信をなくした。でもそれが一番の方法だったのだ。それしか、なかったのだ。
「さては、家出少女か」
「そうです、家にはもう帰れないんです」
「ごめんだよ、子供のお守りは苦手なんだ」
「お願いします」
里紗は深々と頭を下げた。数秒間、沈黙。
「人の命を預かることがね、」
シュンは話し始めた。今までどおりの面倒くさそうな語り口だった。
「どんなに重たくて、思い悩むことがたくさんあるか知ってるか? そういうのは、俺みたいなうすっぺらなのには無理なんだ、背負えないんだ。あんたの親父とお袋はね、それをきっちり背負ってくれてるんだよ。悪いと思わないか? ちゃんと家に帰りな。俺と一緒にいったってろくな目にはあわないから」
彼の言っていることは、最もだった。が、
「家にいたって、ろくなことはひとつもなかったわ……」
里紗はひたすら悔しかった。本来ならそうして親に感謝できたはずだった。私がもし、幸せなら。彼女は怒りのような感情を押し殺して、また、
「あなたと一緒に行きたいんです、なんでもします、迷惑はかけません。守ってなんて言いません。自分のことはなんだって自分でします。助けてもらった恩返しがしたいんです、何でも言うこと聞きますから、お願いします。連れて行って、お願い」
ひたすらに頭を下げて頼み込んだ。
ふいに溜息が聞こえた。
「なんだか同情してきちゃったじゃないか」
期待をこめて顔をあげる。
そのときには、もうシュンの背中が見えた。公園の外へ向かって歩き出している。彼が小さく、「歴史は繰り返す、ってか」と呟くのが聞こえて、何のことか聞き返そうとしたが、
「ついてきな。ホント酷い目にあうよ。それでもいいならね」
と、すぐにシュンが声を張ったので、尋ねることはできなかった。
「あ……ありがとうございます!」
里紗は走って彼のあとを追った。公園を出て、街灯の下に来ると、彼の金と茶色のマーブルに染まった、lふんわりした髪の毛が、首筋を飾るような愛らしい巻き毛であるのが鮮明に見えた。里紗はそれをとても素敵だと思った。フードにファーのついた黒いコート、その下から伸びる、ジーンズをはいた脚はすらりとしているが、“この人種”にしたって幼くて甘い顔つきをしている。
彼は、帽子からのぞく里紗の髪の毛を、なんだか他の人たちとは違う風に見た。差別的でも、異物を見るような目でもなく、なんというか、懐かしい記憶を探るかのように。
「綺麗な髪の色だ」
シュンはそうとだけ言って、またすぐに踵を返して歩き出した。
そんなふうに、両親以外が言ってくれたのは初めてだった。
里紗の、呪いの“白”に蝕まれた髪の毛を。


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