翡翠は私の手首を片手で掴むと、ベッドわきの引き出しに手を伸ばして、中からマッチ箱をひとつ取り出した。
「やめて、翡翠……」
私があいているほうの手でマッチ箱を奪い取ろうとすると、
「うるさい!」
彼は叫んで、私を思い切り突き飛ばした。木の枠組みに後頭部をぶつけた。痛い。痛いけれど、今それどころではない。彼はマッチ箱の中に入った全てのマッチを掴んで、一気に箱の側面にこすりつけた。大きな火が燃え上がる。私は止めようとまた起き上がったが、翡翠はなんの躊躇いもなく、私が止めるより早く、その白い天蓋に火をつけてしまった。火は一瞬で燃え広がり、そして彼は数十本の燃えるマッチをドア側の床に投げ捨てた。
「翡翠!」
私は絶叫した。その泣き顔を見て、彼は不気味に高笑いして、私を抱きしめた。
「ねえ、るり子さん、ここでずっとこうしていましょう。素敵だと思わないのですか、この火が全て焼き尽くすまで、ずっと僕達二人だけの世界です。誰にも邪魔できません、もう安心です、誰にもとられません。そして死が二人を分かつのです、僕らはもう永遠に一緒です。どうして泣くのですか? 僕は、僕はこんなに幸せで、笑っても笑っても足りないのに」
笑いが止まらないという様子で、彼はさもおかしそうに、酔っ払いのような呂律の回っていない口調で言った。
「助けて! 助けて! 恭介さん! 助けて!」
私はあらんかぎりの声をはりあげて泣き叫び、彼の腕の中で暴れ続けた。何度も恭介の名前を呼んだ。それでも、翡翠は憤慨することもなく、ただ私を抱きしめていた。そのことだけが、ただ異常に憎らしかった。ベッドはもはや燃え滾る光の塊のようになっていた。首筋を汗が伝う。熱い。熱くて死んでしまう。私は身構えた。いつベッドの骨組みが崩れ落ちてきて、灼熱地獄の中で死ぬことになっても怖くないように。わりきって覚悟を決めようとした。が、次々に涙が溢れてくるだけで、念じれば念じるほど、恐怖心は大きく膨れ上がり、私の心を壊そうとするだけだった。
ガタン、と大きな音がしたので、私の心臓は止まりそうになった。真っ赤に燃える室内を見渡すと、どこか崩れ落ちたかと思ったが、何も落ちてきていないと分かった。
燃え上がる火の向こうで、ドアが開いていた。
今の音は、ドアが開いた音だった。
火の向こうに立っていたのは、
「恭介さん!」
彼だった。
「るり子! 今、鶴田夫妻や使用人たちは避難させて、消防を呼ばせたよ。今、お前のことも助けるからね」
恭介も、業火の燃える音に負けないように言った。が、燃え続ける火を隔てては、たったの数メートル、彼と離れているだけなのに、ずっとずっと遠くにいるように感じられた。
「無駄さ、僕達死ぬんです、一緒に。それにもう来られないでしょう、ここまで」
と、翡翠が狂ったように嘲笑して言った。
「一緒に死ぬだと? 死にたいなら貴様ひとりで勝手に死ねばいい、さあ、るり子を離すんだ」
「僕が今までどれだけ辛い思いをしてきたか分かっていないんだ!」
翡翠は叫んだ。今まで笑っていたのに、急に泣いている。
「僕はずっとひとりぼっちだったんだ! 友だちもいないし親も愛してくれない! その親も本当の親でないときた! ずっと孤独の苦しみの中で、誰かが愛してくれるのを待って、ずっとずっと耐えていたのに、その僕に、死ぬのも、またひとりで死ねって言うのか!? おかしい、そんなのおかしい、僕は幸せになれるはずなんだ、せめて愛する人と永遠を誓って死ねるはずなんだ! 邪魔をするな!」
「だったら生きればいいじゃない!」
私は考えるより先に言葉を発していた。きつく抱きしめていた彼の腕を引き剥がし、肩を掴んで揺さぶった。
「あなたは自分が巻き込まれた運命にただ従っているだけでいいの? 変えられるのよ、運命は。人生は。どうしてこんなところで諦めて終わろうとするのよ、この先どんな人生が待っているのか誰にも分からないのよ? 私は生きたいわ。どんな辛いことがこの先あろうと、きっと幸せなことがあるって信じているから。その幸せなことのためにはあなたも死んではいけないの! 分かる? 何故だか分かる!? あなたは私の、大切なたったひとりの弟だからよ! あなたを無条件に、不変的に、絶対に、愛しているからよ!」
翡翠は、呆然としていた。しばらく、火の燃える音だけが響き、彼は静止していた。
そして、静かに涙を流した。
「まずい、るり子、ベッドの枠組みが崩れる」
恭介はそう言って、火柱の立っていない隙間を通り抜けてこちらへ来ようとしていた。が、床一面燃えている。
「来ちゃだめよ、恭介さん! 足が燃えちゃうわ!」
私のその声も無視して、恭介は火の中に飛び込んだ。幸い、彼の衣服などに火はつかなかった。恭介は部屋の窓を開け放つと、私に微笑んで、
「大丈夫だよ」
と言って、私をひょいと抱き上げてベッドから降ろした。翡翠は、無反応だった。その直後だ、
「危ない!」
恭介の声とほぼ同時に、ベッドの枠組みの一本が倒れた。翡翠が座り込んでいるすぐ横に、だ。
「翡翠、一緒に出ましょう、早くしないと死んでしまうわ」
「早く行ってください!」
彼は、無表情のまま、口だけを動かしてそう言った。
「もう、じゅうぶんなんです」
やっと、その顔に表情が戻ってきた。うつむいたままの悲しそうな笑顔だった。その表情と声色は、まさしく普段の彼のもので、今晩からの発狂したようなあの雰囲気とは全く違っていた。
その表情に、私の消えかけていた情と未練が沸き立つ。
「僕はもう、双子だとか、夫婦だとか、性だとか、情だとか……運命だとか、迷信だとか。もう、どうでもよくなってしまいました……僕はひとりなんかじゃ、ないのですね。きっと昔から、ひとりではなかったのですね」
翡翠は咳き込んでから、呼吸を落ち着けて、また話し始めた。
「あなたに絶対に……愛してもらえると思っていた……だからあなたが言うことや、あなたが僕を受け入れてくれないことが、どうしても……理解……できなかったのです。前世の記憶にしたがって、僕はあなたと“恋”がしたかった……あなたを実の双子の姉と知っても、やはり恋がしたかった。これはなんと、愚かしいことでしょう。あなたには恋人がいて、僕は双子の弟で、しかもあなたは、この愚かな弟を……愛してくれていたというのに」
彼の声はどんどんかぼそくなっていった。
「ごめんなさい。僕はおふたりの幸せを願って逝きます。もう何も思い残すことがないのです。僕が死んで、るり子さんの幸せを壊すようなことがあったなら、本当にごめんなさい。でもどうしようもないのです、僕はここで死にたいのです」
翡翠がこちらに顔をあげて、私に微笑んだ。今までで一番、優しい美しい顔だった。
「るり子さん、愛してくれてありがとう。僕はあなたの弟に生まれて、幸せです」
2本の枠組みが同時に倒れて、ダブルベッドが全て大きな炎に包まれた。

翡翠の姿は、一瞬で見えなくなった。

「翡翠! だめよ、死んではだめよ! お願い! 翡翠! 一緒に逃げましょう!」
泣き叫ぶ私をかかえあげて、恭介は「もう無理だ、逃げなきゃ俺たちも燃えてしまう」となだめ、走って部屋を出た。
消防はまだ来ていなかった。家の前には野次馬がたかっているようだ。私たちは裏口からひっそりと抜け出して、そのまま恭介の家まで向かうことにした。私は恭介の上着を羽織らされて、彼の背におぶさった。今にも死んでしまいそうなほど疲れていた。何が起こっていたのか、未だに理解できないまま、意識は徐々に朦朧としていった。そしてうわごとのように、弟の名前を繰り返し呼んでいた。
夜の空気は冷たくて、燃え滾る部屋の中で滝のような汗をかいていた身体は、一瞬のうちに冷え切った。恭介は、黙ってひたすら走っていた。その背中のぬくもりと強さが、彼という存在が、今の私になかったら。そう考えただけでもぞっとする。
死んでしまった弟。悔やんでも悔やみきれないその事実。もし私にそれしか残らなかったとしたら。きっと、生きていけなかっただろう。
なぜなら私も彼と同じように、それ以外に確かな絆などどこにもない、孤独で不安定な存在なのだから。
あの踏み切りが見えてくる。深夜の踏み切りに、電車は通らない。あのけたたましい音はない。
それなのに、どうしてか、私の頭は、あの音に揺さぶられるように、ガンガンと痛んだ。
線路には、この街には、もう私たち以外、誰もいないかのような、真っ暗な静寂。
「ねえ、恭介さん」
私は彼の耳元に囁いた。
踏み切りを越えれば、この世界も終わる。
「この踏み切りを越えたら、私たち、――」






<踏み切り・完>
2011.12.01


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