理一はあのあと、誰にも気付かれないうちに仕事に出て、いつのまにか涼しい顔をして帰ってきた。
「ただいま」
「お、おう、おかえり」
「明日の夜、全体の集会を開こうと思ってる」
彼は玄関に座って黒い編み上げのブーツを脱ぎながら言った。
「全体の?」
「ああ、いつもなんとなく集まっている会員たちとしか話してなかったけど、明日全員を集めて武装許可願いの話をしたいんだ。正式に」
俺は、やっぱり考え直したか、と思った。きっと彼もあのときは感情が高ぶっていたに違いない。
「なあ、いいだろ?」
理一が立ち上がって俺に言った。もう朝方で、ドアの曇り硝子の向こうから白い薄明かりがさして、理一の顔に影を落としていた。
「え? いいに決まってるよ」
「じゃあさっそく連絡を回しておく」
そう返しながら、理一は階段を登っていった。
「理一、」
その背中に向かって呼びかける。
「ん?」
「お前ばっかり責任感じて焦ることないんだからな」
理一はそのとき、ものすごく白けた目で俺を見つめていた。涼しい顔で帰ってきた、なんて、思い違いだったかもしれない。
「その為の俺だろ。何があっても守る」
「俺も頭を冷やして一応その結論まで辿りついたんだ。でもお前が言うな。俺だって男だ。プライドがある」
そう言った彼はいつになく、暗い表情をしていた。
いつになく、と感じたのはその頃の理一があまりに調子がよかったからで、正確には、少し前の様子に戻ってしまったのではないかと感じた。余裕がない感じがしたのだ。それは何より俺を不安にさせた。
「ははっ、言い方が悪かった」
俺は無理に明るく返した。そんな俺の顔を一瞥して、理一は無表情のまま、また階段を登っていった。
理一はもともとはかなり剣術の才能があった。剣術の才能ではなく、頭が良いからよくできたのかもしれないが。彼との練習試合は回数が多すぎて、一時期彼に全ての戦闘展開を読まれて全然勝てなかったこともある。俺でなくても、理一は初めて対戦する相手でもすぐに癖を見つけて展開を読むことができた。癖を見つけてから、決着がつくまでは速いものだった。しかし俺はそんな理一と練習を重ねるうちに、彼に読まれないよう、全く癖のない、読めない戦闘スタイルに磨きをかけた。おかげで俺の今の戦闘には特徴が一切なく、相手を慣れさせない。
そのようにして俺たちは互角な才能をぶつけあって、お互いに高めあってきたのだ。
体格と体力の面ではそもそも俺のほうが一枚上手かもしれないが、それはアイノコである以上、生まれながらの性質をくつがえすことはできない。俺はそれすらもカバーする理一の剣術を本気で認めていた。
おそらくあっちも、馬鹿なりに考え込んで自分の特性を引き出しながら癖を作らないという、俺の努力を認めてくれていたと思う。
俺にはショックでならなかった。たった一瞬、取り組んだだけで、ぞっとするほど顕著にそれが分かったのだ。
理一は即戦力にならないかもしれない。
なんというか、運動不足による鈍りなどというそんな単純な理由ではないのだ。あの時感じたそれがなんなのか、今になっても上手く言葉では説明できないが、絶対的に、理一の、両親惨殺の際に目にしたあの情景が強く関係していると、それだけは自信を持って言える。
彼はリビングに入るなり、冷蔵庫を開けてビールの缶を一本出してきた。彼が仕事終わりに飲むことなんてそうそうなかった。でもそのとき俺は、理一になんと話しかけていいものか分からず、ダイニングテーブルについた理一を尻目にソファへ直行してテレビをつけた。LDKとはいえびっくりするほど広い部屋なので、ダイニングテーブルからはテレビもよく見えないし、俺と理一は相当離れて座ることになってしまった。逆に気まずい、と、座ってから気付いた。
プシュッ、とビールの缶を開ける音がして、理一は行儀よく背筋を伸ばして座ったまま、それを勢い良くごくごくと飲んだ。彼は酒に弱いわけではないので心配さえしないものの、そんなことをする彼を見るのは初めてだったので、俺は不安になりながらちらちら彼のほうを見ていた。つまらない朝のニュースの内容など、ひとつも頭に入ってきてはいなかった。
しばらく、お互い無言のまま時が流れた。
が、急に理一が腕を下にだらりと垂らしたままテーブルに伏せたので、寝たのかと思って俺が立ち上がると、
「サダ……俺がやられかけても助けなくていいからな。そのときは見殺しにしろ」
と、ぼんやりしたかすれ声で言われた。俺は理一がまさか喋り始めるとは思ってもみなくて、驚いた拍子にまたストンとソファに座り込んだ。
「なんだよ、何言ってんだ、そんなことしねえよ」
理一はキッチンのほうを向いていて、顔はまったく見えない。表情が見えないのが怖かった。でも、下手に近づくのも怖くて、俺はソファに座ったままでそう言った。
「そんなことになってまで、まだ俺に生き恥を晒してろっていうのか? 惨い、俺は今だって恥ずかしくって、存在しているのがやっとなのに」
俺の頭には、このままで死にたくないと言って泣いていた彼の顔が浮かんでいた。
「らしくないこと言うな。お前のどこが恥ずかしいんだよ、お前は最高の息子だったし最高の兄だ。それに最高の指導者になれる」
「そんな気がしてたよ。俺だって昨日までは」
そう言って、理一が顔をあげてこちらを向いた。
安心していた俺が馬鹿だった。
そうだ、そんな簡単に彼が元に戻れたら苦労しない。
「涼子は元気だな……俺のために気丈に振舞ってるだけかもしれないけど、相変わらず聞き分けはいいし俺を困らせるようなことは絶対にしないし、今までどおりだ。それなのに俺は」
「理一やめろ」
俺は少し強めに言って立ち上がった。
「だから何度も言っただろ、お前と涼子じゃ……いや、俺とお前だって、全然違う。お前は見たんだから。実際にそれを」
「見たか見てないかなんて関係ないだろ。俺たち3人とも、失ったものは同じはずだ。それなのに、俺は自分の弱さのためにもう自分の命すら守れないようになってるんだ。人の命なんて救えるわけがない。なら俺に、何が変えられるんだ」
理一は一度深くため息をついた。
「……そんなことばっかり考えちゃってさ」
見たか見ていないかは、関係ある。俺は見なかった。理一の様子を見たら、とてもじゃないが、見る気にはならなかった。俺はあのときの彼の様子を見ただけでだいぶ衝撃を受けて、夢見が悪くなったほどだ。
それほど彼が凄まじいものを見たに違いなかった。
でも、俺はそんなことを彼にしつこく言う気にもなれず、ゆっくり歩いていって、うつろな目をしている理一の向かいに座った。
何度も言うように、俺は自己中心的で、自分のことしか考えられない。俺はもうあんな理一を見たくない。そのときだけではなくて、彼が精神錯乱によって毎晩のように悪夢にうなされ、泣き叫ぶ姿を目にしてきた。それまでの彼からは想像もできないようなその姿に、俺は言い知れぬ恐怖を覚えた。もう二度と彼が苦しむ姿は見たくない。俺が辛いのだ、それを見れば。
「部屋に帰ってから……傷をおさえてた手のひらが血だらけになってるのを見て、」
理一はそう言って、眉間にしわを寄せた。
「それ見て、気絶した。目が覚めたら部屋の真ん中に倒れてて、もう仕事に行く時間だったから急いで手を洗って家を出たけど、びっくりして放心したまま歩いてたよ」
俺は黙ってしまった。無理もない、と思った。
「……ごめんな、急に取り組みやろうとか言い出して」
「お前は悪くない。どうにかして慣れる。血にも。だから毎日やってくれ、お願いだ、絶対に感覚取り戻すから」
俺は正直やりたくなかった。でも、こんな懇願されては断れず、
「分かったよ」
と、小さく返した。
「……お前に、まだ上手く色々言葉をかけてやれないから、まず俺のやりたいことだけ聞いてくれ。俺はもう家族を失いたくない。いや、俺はもう、家族を失うつもりはない。俺たちまだ3人で一緒にいられてるんだ、絶対これから、俺たちだけでも幸せになれるさ。俺が望んでるのは、それだけ」
そう言ったら、理一は背もたれに身体を預けて、ため息をつきながら酷く暗い笑顔で笑った。
「そうだな。俺もだ」
「早く寝ろよ、じゃあなお休み」
俺は早口に言って先にリビングを出た。
早く俺たちの活動に功績が出てくれたらいい。そうしたら理一も自信を持って生きられる。俺はどっと疲れを感じながらそう思った。もう、彼自身口に出して言うことはなくなったが、彼は絶対に自分を責めている。両親を死なせてしまったこと、その後も俺に多大な迷惑をかけたこと、涼子が実兄の部屋から聞こえる声をきいて泣いたこと。後者ふたつは全く気に病む必要はないし、前者にいたっては根拠が見当たらない。彼の所為で両親が死んだわけではない。それなのに、悪夢を見た彼はいつも、「ごめんなさい、ごめんなさい、俺の所為です、俺が悪いんです、許してください」と言っていた。
その声を思い出して、俺は暗い廊下を歩きながらなんともいえない憂鬱な気分になり、いつまでも寝付けなかった。

('12/08/12)

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