「ねぇ、おれの顔どう思う?」
「近い」
無駄に近い。おかげで鼻と鼻がくっつきそうっていうかこいつの鼻が高いせいもあって先っぽは触れてる。腹立つ。
無駄に高い鼻に無駄に長い睫毛。引っこ抜きたくなる睫毛に守られた瞳は、遠目から見ると黒っぽいが、こうして近くで見ると茶色がかっている。やっぱりコーヒーみたいだ。
「見惚れてる?しょーくん」
「この際だから諦めて観察してる」
壁に追い込まれた俺は最早ハーフアップに結い直す気もないらしいクズに顔をがっしり掴まれて、無理やり上を向かされ、こうして見つめ合う羽目になっていた。更に下の方では、逃がすまいと無駄に長い脚で壁ドンされていた。嬉しくない。俺の顔をがっしり掴んでるのが片手だけってのも何かムカつく。顔を掴んでいない方の手は俺の顔のすぐ隣にあって、こちらも正しく壁ドンである。ここはキュンとでもすべき場面なんだろうか。全然嬉しくなんかないが…?逃がしたくないからってそこまでする…?
こいつもこいつで何も言わない。見てても面白いことなんてないだろう俺の平々凡々な顔を飽きもせずじいいいっと見てくるばかりで、本当に何も言わない。表情もじっと変わらない。
何考えてるのか、分かったことなんて数えるくらいしかない。それも大抵、悪巧みしてる時くらいだ。
本心なんてこのコーヒー色の瞳からは見えもしない。
「おれの瞳、そんなきれい?」
「分かんない。コーヒーみたいだなと思ってただけ」
「じゃあダメじゃん、しょーくんコーヒー飲めないじゃん」
「別に味がダメなんじゃないし。お腹が痛くなるからってだけで」
「じゃあおれも飲んだらお腹壊すのかな」
「…?お前はいつも普通に飲んでるだろ」
しかもブラックで。訳が分からず瞼をパチパチさせると、ふっと微笑ったせいで忍の吐息がかかった。湿ってる。
「じゃあさ、濃い紅茶色ってことにしといて。紅茶は飲めるっしょ」
「別にどっちでもよくないか…?」
「よくない」
よくないのか。じゃあまあ、結構濃く入れ過ぎた紅茶の色ってことにしておくけど。
俺が飲めるかどうかで自分の瞳の色の表現も変えたがるとか、全く何にも意味が理解できない。
「でさぁ、しょーくん」
「のぼる、な」
「昇くん、おれの顔、どう思う」
「………」
言ってほしい答えがあるのかな、と思った。そんでそれを言ったらこのおかしな状況から解放されんのかな、とも。
でもそれを言って、それで?こいつは多分、いや絶対に俺が本心で言ってるかどうか分かってしまうので嘘を吐いてもどうしようもない。ただ言わせたい台詞を言わせるだけなら、こんなに必死になって追いかけてくることがあるだろうか。俺の方がめっちゃ必死だったし息も乱れまくってたけど。そこはいい。
でもなんか、嘘を吐くのは違うなぁと思った。今思ってる言葉も別に嘘でもないんだけどな。
「お前の顔、結構雄弁だけど、いつも一枚薄い壁があるみたいで気持ち悪かった」
「…そう」
「でも、破りたいんだろうなって思う。知らんけど」
「そうだよ。でもひとりじゃ無理でさ」
「うん。だから何で俺なの。…忍」
心の中では何度か呼んだことのある名前を、初めて音にした。
すると花が咲いた、ように見えた。
コーヒー…じゃないや、入れ過ぎて濃くなり過ぎた紅茶色の瞳がぱあっときらきらして、中で花が咲いたように見えたのだ。白い、雪のような花だった。
そして彼は鼻がくっつくほど近くにあった顔をやっと離して、それでもじっと俺を見ていた。花が咲いた瞳からは今度は雫が流れ落ちていた。雪原みたいな頬に流れて、音もなく地面に降っていく。
それから今まで見た中で一番、嘘っぽくも胡散臭くもない、それこそまた花が咲くような眩い笑顔で彼は笑った。
その一連の光景を俺がどんな顔をして見ていたかは知らない。鏡とか持ってないし、それどころじゃないし。
でもたった一言、二文字だけ。俺が名前を呼んだだけでここまで喜ぶとは思っていなかった。今まで「呼んで」って、せがまれたことは何度もあったけど…。冗談だと思ってたし。
「昇くんが言ってた壁、たった今なくなった気がする」
「マジか」
「もっかい呼んで。おねがい」
「………じん?」
「もっかい」
「忍」
「…もっかい」
「しつこいよ、忍。何でそんな泣くんだよ」
俺が名前呼んだだけで。
ぽろぽろと溢れ出す雫は一滴じゃ止まらなかった。でも鼻水は出ないの、すげームカつく。どうしたらそんな綺麗に泣けんの。俺のことじっと見たままで、嬉しそうに。
嬉しそう、かぁ。
…自分ばっかり、ムカつく。
「なぁ、忍。俺の名前も呼んで」
「………しょうくん」
「だから、のぼるだって、ば…」
本当にこいつはいつもいつも…。俺の名前を覚えるのがそんなに大変か。絶対わざとだろ。
みんな初めは間違えることはあっても一回訂正すれば大抵…ほとんどが…あれ?
いや、たった一人いた。
何度訂正しても、俺の名前を「のぼる」ではなく「しょーくん」と呼んでいた、子どもが。
小学校何年の頃だったか、たった一年だけ、転校生としてやって来てまたすぐに引っ越してしまった子。そいつのことは愛らしい容姿から性別が分からなくて、名前も確か中性的で…。こうして必死に記憶を手繰り寄せている今でさえはっきりしたことは思い出せない。
なんせ軽く十年は前の話だ。それに同じクラスでもなければ、大して会話した記憶もない。
ただ何度も、俺のことを「しょーくん」と呼んでくる、中々名前を覚えてくんないアホな奴だと思っていた。
「………お前か」
「思い出してくれた?」
「何で、わざと名前間違えてきてたの」
「覚えられたくて」
「それだけ?」
「それだけ。それだけが、おれにとっては大事だったよ」
「だからって…」
「きみだけはおれの見た目にさほど興味持ってくんなかったし。そこもいーんだけどさ」
馬鹿にしてんのか本気で思ってるのか、目を伏せ思い出に浸るような顔で彼は呟いた。
見れば見るほど、見覚えがあるようなやっぱり全然思い出せないような…。ん?え、もしかして。
「え、待って…。だとすると、お前は」
「じん」
「えと、忍は、ずっと覚えてたの?小学生の時から、俺のこと…ずっと?」
「馬鹿じゃん」
「だよな!そんなわけ」
「覚えてるも何も、忘れた瞬間なんてなかったよ」
「ない………。へ?」
「諦めなくてよかったよって、今なら過去のおれに胸張って言える」
ただ、名前を呼んで欲しかっただけ。
それだけのはずだったのに、それだけじゃ足りなくなって、欲しいのにお金で買えるわけもなくて、どうすればいいかをずっと考える日々。それも悪くない。そう思えるほどずっと俺のことばかりだったと、忍は笑った。
…マジで意味が分からん。
「おれね、ずっと色んな事に関心が薄い子だったんだ」
「はぁ」
「でもね」と続ける彼は心底眩しい宝物を見つけたような嬉しさを全身で表していた。
「欲しいと思ったの、初めてなんだ。きみが」
「はぁ。…ん?」
「これからも仲良くしようね!」
「えと、一応訊くけどさ。…ブロックしていい?」
「やだ!」
可愛らしいを目指したのか、あどけない笑顔でそう答える彼は年齢よりも幼く思えた。けれどぎゅうううっと握られた手の力は、ちっとも可愛らしいなんてものではなかった。
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