ここのところ、大きな仕事が立て続きに入り、碌に部屋を出ていなかった。その期間は、今までで一番長い一カ月ジャスト。一カ月というと一年のうちの十二分の一だし、さらに言えば今年もあと三カ月しかないというところの一カ月だ。そんな無駄に長い間を、俺は毎日毎日無機物のパソコンと向き合って宜しくやってきた。それこそ、おはようからお休みまで、パソコンから離れられない苦しい生活。ネット依存者を越えるネット中毒者だってここまでパソコン漬けにはならないだろうというくらい、今回ばかりは息抜きがてらにとやるチャットに顔を出す余裕もなくて、俺はただひたすらに依頼を片付けることに躍起になっていた。


 一に仕事、二に食事。三四はなくて、五に睡眠。このサイクルの繰り返しをかれこれ三十日間。


 そんな状況に、どことなく自分自身ストレスが溜まっていたのも分かっていたし、ずっと傍にいた波江さんなんかは俺の限界をどことなく感じていたらしい。なぜなら、正直な話、人ラブな俺にとってこういった引きこもり状態が続かれるとかなり堪える。というか、耐えられる人間がいるとは思えない。日に日に増してくるもやもやとした感覚に、あぁこれって生理前の女の子が苛々する感じと似ているのかな、と苦笑いが出来たのは二週目くらいまでだった。それを過ぎてしまうと苛立ちを越えて、一気に無心に切り替わる。回線が遅いだとか、文字の打ち損ねだとか。そんなちょっとしたことでは動じない。むしろそんなことが起きた時点で集中力は呆気なく切れて、やる気がなくなる。加えて、まぁ人生なんてこんなものか、と達観した気持ちで紅茶を啜ることが出来るようになる。ここまでくると、もはやなんのために仕事をしているのか分からなくなってくるものだ。


 でも、仕事なのだから放り投げるわけにはいかないのが、社会人としての責任だ。それが一体どこから湧いて出て、なんで責任なんてものを取らなくちゃいけない羽目になっているのかは分からないが、しかし、俺の仕事は残念なことに責任=死が待っていることがほとんどで、諦めれば即終わりとなってしまう。だからいくら仕事に忙殺されて、人格がおかしくなりそうなことになっていようとも、放り投げることはできない。俺が壊れるのが先か。仕事が終わるのが先か。それこそ一種の爆弾を抱えながら必死にここまでやってきたわけだ。



 そんな中で、一カ月も掛かってしまったが、キレることも仕事を放棄することもなく、依頼を完璧に遂行しきった俺は本当に偉いと思う。我ながらよくやった。流石、俺だ。いや違う。流石、俺たちだ。


 仕事が全て片付いたと同時に、携帯の電源を切り、ありとあらゆる連絡手段を切ってやったのも仕方がない。情報屋は休業、休業だ。俺はやるだけのことはやってきた。それに、波江さんだってここ一カ月は俺ほどではないけれど、かなり根を詰めて仕事をしてもらった仲間だ。喜びは分かち合わなければいけない。彼女にも大型連休張りの有休を出してやって、二人して暫くは休暇を楽しむことにした。



 役目を終えたとばかりに仕事が終わったと同時に火を吹いて動かなくなったパソコンの後始末は後々考えるとして、波江の帰宅と共に一緒に外に出ようと、すぐさまお気に入りのコートを引っ掴んだ俺の心は晴れ晴れしい。


 もちろん、外に出てすることは決まっている。一カ月近くもご無沙汰状態だった人間観察を再開することだ。身体はくたくただけれども、ここはすっきりとストレスを発散して、ばたりと寝ようじゃないか。


――そう思って俺は外へ踏み出したはずだったのだ。























 数日間の睡眠不足なんて気にする訳でもなく。ふらりふわりとコートの裾を揺らめかし、そして髪を靡かせながら、俺は元気よく大通りを歩いていた。足取りは軽く、顔に浮かび上がる表情は自然と柔らかくなっていたことも分かっている。周りを見渡せば、人間。人間。人間。大好きな人間に三百六十度囲まれてテンションが上がらないはずがない。何回でも言うが、あの折原臨也がどれだけ引きこもっていたと思っている。一カ月なんて期間は、あまりにも長すぎた。それを取り戻すためにも今日はいっぱい人間観察を堪能しなくてはいけない。






「楽しいなぁ、楽しいなぁ、楽しいなぁ!!!やっぱり俺は人間が好きだ、愛してる!!」






 カップル連れだとか、見るからにこれから災難な目に遭いに行くんだろうという輩だとか、馬鹿みたいに化粧を塗りまっくったアホな女だとか。色んな人間が俺の右や左を過ぎて行く。そんな人間が歩いていく歩道の中央で、感極まって衝動的にジャケットプレイを決めれば、周囲から冷ややかな視線を送られた。蔑むような、イタイ子を見る様な居心地の悪い視線。いつもなら少しばかり逃げ腰になるようなそれにも、けれども今は愛おしさしか感じられない。五感で感じ取る人間は自分が欲していたものに相応しい。むしろそんな求めて止まなかった相手に、いつも以上に華麗に決まった気がしたジャケットプレイを見てもらえたことに機嫌はさらに上昇していくだけだ。







「今日は最高の一日だ!!」






 これまた衝動的に口から飛び出た言葉は、自分で言うのもなんだがやたらと嬉しそうだった。まだまだ人間たちを見ていたい。その欲求は留まることを知らず、俺はスキップを踏み、鼻歌を歌い、久しぶりの池袋を堪能するために、本能の趣くままに端から端まで歩き回った。







 そうやって池袋中を歩き回って約半日。日が暮れ始めたそんな時間に、次はどこに行こうかと悩んでいた俺の横を、一台の車が滑るようにして停車した。視線を向ければ、運転席側の窓から池袋最強の弟である幽くんが顔を出す。珍しい偶然に、自分の顔に僅かな驚きが浮かび上がったのが分かった。





「臨也さん、」





 俳優という職業柄だろうか。それとも生まれもったものなのだろうか。聞き惚れてしまうような落ち着いた声に、思わず頬が緩んだ。美しいものを見るのは嫌いじゃない。むしろ見ている分に関しては楽しみさえ覚える。そう思った俺は、別段悪い気もせず幽くんの呼び止めに足を止めた。






「お久しぶりです」



「こちらこそお久しぶり。今日はどうしたんだい?仕事は休みなのかな」



「えぇ。今日は久しぶりに休みでして。臨也さんはお仕事ですか?」



「俺も今日は休み。ようやく仕事に目処がついてね」



「お仕事忙しかったんですか?」



「そうなんだよ。凄く忙しくて――、」







 えへへ、と邪気のない笑みを零してしまったのはなぜだったのだろうか。そんな自分に少し戸惑いながらも、口は動くことを止められない。幽くんに急ぎの用事がないことを確認した俺は、気がつけば、ここ最近如何に仕事詰めで忙しかったかを訴えかけていた。



 働きつめでさぁ、ほらこれ見てよ、数年ぶりにニキビが一つ出来ちゃうくらいには頑張ったんだよ。本当ですね、ちょっと痛そうです。そうなんだよ、地味に痛くてね。俺薬いっっぱいあるんでよかったら使いますか?あ、薬はさっき買ってきたからいいや。そうですか……。それよりクライアントがさ――。




 あぁだ、こうだ。と、つい最近までの自分の現状を、身振り手振りを交えて話しだす様は、正直に言うと普段の折原臨也からは程遠い。新羅やドタチンといったある程度中に入れた者を除いては、俺は基本的に自分のことは話さないタイプだ。誰かを騙すためにちょっとした経験談として語ってみせたり、俺自身を卑下することによって相手の心境操作をするといった時くらいしか語らない。そもそも自分のことを語るという行為ほど損なことはないだろう。話を交わせば交わすほどに、相手に性格を読まれ兼ねないし、要らぬ情報を与えることにも繋がる。第三者として人間と関わるためには一人称である俺という存在はいらない。それが俺の持論でもある。



 しかし、今日はいつもとは違う。久しぶりにあった幽くんにやたらと自分の近状を話している自分は至極おかしい。それもいざ口に出して気がついたのは、どうやら思っていたよりも今回のストレスは溜まっていたらしいということ。話が全く止まらない。顔のにやけも止まらない。





 それは臨也さんも大変でしたね。ホントそうなんだよ。そうだ、ちょっとこっちに来てください。なに?少しだけ慰めてあげます。え、ちょ――…。





 幽くんは俺の話を時々相槌を入れながら聞いてくれていた。しかも、頭を撫でてきてくれた時にはもう俺の中の何かが壊れ始めていた。ぎしり、と車が悲鳴を上げた後に聞こえた、お疲れさまでした、という労わりの言葉に心臓がどきりと高鳴る。



嬉しい。嬉しい。嬉しい。と、頭を埋め尽くす言葉に、あぁ自分はこんな一時を求めていたんじゃないかと何処となく悟った気がした。きっと俺は今、話を聞いてもらっているこの状況が嬉しくて仕方がないのだ。


 実際、今日一日人間観察をしてきた中で、こうやって人と話すのは波江さん以外始めてのことだった。まだ新羅やドタチンにも会えていない。本当はドタチンに頭を撫でて欲しかったし、新羅に愚痴を聞いてほしかったのだ。けれども二人とも連絡がつかなくて、結局は日が暮れてしまった。人間観察という目標は果たしたが、内に溜まったもやもやとしたものはまだ吐きだされてはいなくて、だから俺は池袋の街を散策することを止められなかったといってもいい。寂しがりという自覚はないにせよ、それでも人と話すことは好きなのだ。特に頑張った後には褒められたいし、誰かに甘えたい。それが営業トークや洗脳といった物を抜きにして、普通の世間話といったものなら尚更のことだ。俺だって人間だし、出来ることなら毎日でも誰かと些細な話を交わしたいと思っている。


 けれども、俺は多くの人間からあまりよく思われていない自覚もあるわけで、そういうことは滅多に出来ないのも事実だ。意地を張って折原臨也を演じてしまうから心休まる時がない。



 でも、幽くんは少し違う。滅多に会わない人間だし、俺自身が彼を利用しようだとか、彼を使って何かを起こそうだとかは全く考えていない。元々画面越しの人間であって、池袋に居ることがイレギュラーな人間だ。だから何かをしようとも思わない。話すなら、話すだけ。挨拶を交わすなら交わすだけ。害も与えないし、与えられない。俺にとってはこうしてただただ話を交わせる人間は特別で、きっと嬉しくもあったんだろう。日頃の皮肉は一切出てこなくて、俺の顔は始終弛みきっていた。




 ――ぎしりと車が揺れる。







 そうだ、そんなことより君は最近どう?こんなことをしてました。それは凄いね。ところで――?




 そんな穏やかな雰囲気も相まってか、二人の会話は思いの外、それから長く続いた。


 日頃会わない俺らが話すことはあまりにも多い。もちろん、それほど親しいわけでもないため、互いに当たり障りのない適度な距離を開けていた。特に、幽くんの方は小さい頃から短気の兄と共に育ってきたからか線引が非常にうまい。不具合そうな話題を縫いながら会話は進んでいった。





 昨日はこんなことをしてました。そういえば臨也さんはあそこに出来た新しいお店知ってますか?





 幽のそんなさり気ない対応が好ましく思えて、普段以上に僥舌になってしまったのも事実だ。元々あった解放感に満ち溢れた心に歯止めが利かなかったといってもいい。聞かれたことを素直に答え、俺もまた幽に話し掛け続けた。





 ――しかし。
 十五分も経とうとしたところで、俺が訊ねた何気ない質問が全てを狂わせた。


 そういえば君がワゴン車だなんてどうしたんだい?一体どんな要件で池袋に来たの?



 その質問に幽くんの返事が滞ったのだ。










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