きっかけの十二月二十四日
キラキラと光るイルミネーションを視界に入れないように夜久月子は大学から駅へと足を運ぶ。
去年はこの道を同級生とともに歩いた。そして、その前の年は……。
「……っ」
チクリと胸が痛む。思い出さないようにしているが、この季節は思い出してしまう。
――あの、幸せな時間を
(思い出しちゃ、ダメだ)
時間を、彼を、思い出したらせっかく前に進んできた努力が無意味になってしまう。
こんな時は人恋しい。きっとみんなでワイワイ騒いでいたら、心に負った傷を気にせずに済むから。
しかし、月子の周囲に人は、いない。
彼女の幼馴染である東月錫也は来年に受ける公務員試験の勉強で忙しい。同じ研究室である宮地龍之介は研究で地方へ行っている。さらに、弓道部仲間である犬飼隆文、白鳥弥彦、春名真琴は就職活動中だ。
月子はというと、自分の行なっている研究が一段落したところだった。彼女は大学院へ進むため、この時期はゆっくりとしているのだ。
だから、一人で家へ帰っている。
(雪はまだ降ってないんだね……)
そろそろこの街にも雪が降るはずだ。ハァっと白い息を吐く。口元に指先を持って行くと一瞬だけ温もりを感じる。
それと同時にあの日の束の間の温もりを思い出して泣きたくなる。
(やっぱり、冬だからかな)
恋を知った季節。恋を忘れようとした季節。相反する思いが重なった季節だから、こうやって一つ一つの動作を思い出してしまうのだろう。
雪が降ったら完全に彼のことを思い出す。忘れようとしている彼のことを。
(考えちゃだめだよ、月子)
胸に手をあて自分の心を諌める。
しかし、視界にあのクリスマスツリーのイルミネーションが入ってしまった。
やっぱり気になって、足を止める。やはり、クリスマスイブだから人はとても多い。
(でも、足を止めたのは何かの運命なのかも……)
ゆっくりと足を進め、月子はツリーの前で止まった。
綺麗、だと思う。それでも星月学園のツリーのほうが綺麗だ。
(あぁ、今なら言えるかもしれない)
ツリーを前にして思った。ずっとあの日から封印していた言葉が、ある。
彼と出会っていなかったら、別れていなかったら、きっとこんな言葉を言う機会なんてなかったはずだ。
「ねぇ、颯斗君」
ずっとずっと封じていた言葉があるの。
それは貴方の名前。そして、ある想い。
「私、クリスマスが嫌いになっちゃった」
このイルミネーションを見るたびに思い出す。颯斗の一部分に触れた時のこと。そして、幸せの絶頂だった時のこと。
運命が動き出したのは聖なる夜が多かった。
でも、今は。苦しみや悲しみしか生まれてこない。だから、月子は聖なる夜を嫌いになったのだ。
(こんなことを思っているなんて知ったら、あの人はどう思うんだろう。悲しむのかな。それとも、知らないふり、見て見ぬふりをするかな?)
そもそもあの人は今も月子のことを想ってくれているのだろうか、と思う。
(想って、くれていたら、いいな、なんて。淡い思いを抱いちゃ、だめだよね)
月子は囚われから逃げようとあの人の名前を一度、捨てた。それでも、あの人からもらった【愛】からは脱げ出すことが出来ない。
彼も月子の愛で囚われていたとしたら、と考える。嬉しいようで、それでもやっぱり悲しいなと月子は思った。
(だって、あの人はいろいろな理由があって私と別れたんだよね? だとしたら、私の愛に囚われていないでまっすぐ彼の道を進んでいて欲しい)
だから、一年前に願ったのだ。ずっと優しい笑顔のままでいて欲しいと。立ち止まらずに前に進んで欲しいと。
「……帰ろう」
聖夜の前の夜。イルミネーションの周りには幸せで愛を語らう恋人たちや家族がたくさん集まり始めている。その中にいるのは辛いから。
月子は深呼吸をして駅へと向かった。思い出したことを忘れるために。
しかし、現実は忘れさせてくれなかった。
家に帰りポストを見る。広告のチラシが二枚と、白い封筒が一つ。
「差出人が……わからない?」
表に月子の住所し書かれていない。さらに、郵便局のスタンプは月子の最寄りの郵便局の名前だった。
部屋に入り、広告はゴミ箱に捨て、電気をつける。腰を落ち着けて、差出人不明の手紙の封を切る。ドキドキととても緊張する。この手紙が、月子の運命を変えるような力を持っている気がしたから。
中から出てきたのは一枚の広告、三枚のチケット。
広告にはコンサートホールの写真。そして、ウィーンで活躍中の日本人ピアニストが来日、と書かれてあった。
「ウィーンの、日本人ピアニスト……」
思い浮かんだのはあの人と、彼の従弟。あの頃の実力を考えれば、従弟のほうが上だった。
(でも、私に送られてきたってことはもしかして)
従弟ではなくあの人が日本に帰ってくる。そう思うと胸が高鳴る。遠く離れて二度と会えないと思っていた彼の近くにまた行けるのだ、と思い心が満たされるような感覚に陥る。
「でも……話すことはできないよね」
今は彼氏彼女ではなく、観客とピアニストという関係だ。例え彼だとしても気軽に会うことはできない。
そう思うと気分が沈む。近くにいるのに遠い存在になってしまったのだと改めて思う。
(ポジティブになったり、ネガティブになったり忙しいな、私って)
少し、自嘲気味に笑いながらも月子は広告を置いて、チケット三枚を手に取る。
(一枚は私の分。残りの二枚は……あの二人を誘えないかな)
もしも、彼が帰ってくるのなら。月子の次に彼に会いたいのはきっとあの二人だろうから。
公演は来年の一月二十八日となっている。この時期は定期試験が落ち着いた頃だ。きっと、彼らも息抜きとして一緒に来てくれるかもしれない。
(それにしても、一月二十八日って……)
月子はそっと自分の唇に触れる。あの人に初めて好きだと言われ、唇を交わした日だ。
(どうして思い出がよみがえるようなことが起こるんだろう……)
忘れようとしているのに、なぜ運命はあの人との思い出を思い出させるような仕打ちをするのだろうか。
まるで、月子とあの人との運命の赤い糸が再び紡がれていくような錯覚に陥ってしまう。
(ねぇ、淡い期待を抱いてもいいですか)
月子は右の小指を月の明かりにかざす。
小指には何もはめていない。付き合っていた頃は、彼から誕生日プレゼントとしてもらったピンキーリングをはめていた。そのリングは今も大切に保管している。
小指の先には赤い糸があるという。それは運命の人と結ばれている糸。
月子とあの人との運命の赤い糸は確かに存在した。しかし、別れた日に切れてしまった。
神という存在がいるのなら、願いたい。
(神様、お願いですから。運命の赤い糸が再び紡がれているというのなら、私にもう一度彼と話すチャンスをください。彼の、優しい微笑みと声を聴くチャンスを……)
小指を曲げて握りこぶしを作り、気合を入れる。
まずは、このコンサートチケットを二人に配るところから始めなくてはならない。そして、コンサートのために来日するピアニストを見なければならない。
もし、違っていたらという考えは月子の中にない。なぜか来日するピアニストは、あの人だという妙な確信があるのだ。
「また、颯斗君に……会えるの、かな」
久しぶりに二回、紡いだ彼の名前。
どうか、彼も月子の名前を紡いでくれるようにと月子は聖なる夜に輝く星に願い、来年に想いを馳せた。