今日も過ちの花を摘む
薄っすらと瞼を持ち上げると、暗闇を裂いたように細長い視界が開く。見慣れた壁を淡い光が照らしていて、じっとりとした汗が体にまとわりついているのを感じた。
上半身を起こすと、自分の体があった部分の布団が湿っていた。
今日は授業のない休日。
昨日の実習が夜中に終わったこともあって、わたしは昼まで寝ていたらしかった。こんな不愉快な布団に再び横たえる気にはなれず、干そうと重い腰を浮かせる。
庭に布団を干し終えると、もう何もしたくなくなってしまって、布団を見上げるようにしてその場に座り込んだ。
「体調でも悪いのか?」
声だけで仙蔵とわかった。
仙蔵はわたしの隣に立っていて、おそらくわたしを見下ろしている。感じる視線は、太陽の光よりもだいぶ柔らかかった。
「いや、悪くない。悪くはないのだが、動きたくもない」
「優れているとはいえない、そんなところか」
「そんなところだ」
「部屋に来るか? 今は誰もいないし、静かに過ごせるはずだ」
「……そうだな。なら、お言葉に甘えよう」
ふと笑った仙蔵の横顔は、地面に咲く花の中でも一際美しい花に似ていた。
高貴で優雅で純粋な花。
誰かに贈るとき、一番に折られてしまうであろう美しすぎる花。
先に部屋に入った仙蔵は文でもしたためるのか、それとも勉学に励むのか、無言で文机に向かって座った。人を呼んでおいて、あとは好きにしろ、というのもなかなか彼らしくて可笑しい。ただ、せっかく呼ばれたのだから、何かからかってやりたくなったし、ただ眠るのにも飽きたし、暑さが鬱陶しいから気晴らしがしたかった。
そんなわたしは、半ば強引に文机と仙蔵との間に割って入って仙蔵の膝に頭を乗せた。仙蔵が慌てて筆を置く気配がある。
「な、なんだ」
「膝枕。知らないか?」
「知っている。けど、なぜ……」
「静かに過ごせると言ったのは仙蔵だろう」
「そうだが……。静かに過ごせるというのは、こういう意味ではなかった」
「こういうって、どういう?」
悪戯に口角を上げると、僅かに不機嫌そうになりつつ、顔を赤らめつつ、まんざらでもなさそうな仙蔵を見て、わたしはすっかり動く気をなくしてしまった。
本当に仙蔵は居心地がいい。
うるさくなくて、二人でいるのにひとりみたいだ。こういうのが恋仲というのであれば、悪くない。
「疲れてるんだな」
仙蔵の声が遠い。
疲れている。そう言われて、初めて、そうなのかもしれないと思った。どうやらわたしは疲れているらしい。
「……ああ、そうかもしれない」
言ったその声に覇気がないのをようやく知る。
私の気まぐれは、疲労からきていたのか。
ならば食事を取って早めに寝たほうがいい。そう思うのに、仙蔵の膝から起き上がれないのはどうしたことか。
まるで、まだこうしていたいと、体が訴えているみたいだ。
「わたしはなにをしてやれる?」
仙蔵が問うてくる。
このときばかりは何もしてくれなくていいとは言えなくて、わたしは自分でも思いもよらない返事をしていた。
「声を、聞かせてほしい」
仙蔵の手が、わたしの額や首に触れた。撫でてくれているようだ。
冷たくて気持ちがいい。
目を閉じると、そよ風の吹く芝生の上に寝そべっている風景が浮かんだ。
「声って?」
仙蔵がまた問う。
微風に似たささやかな声だ。
「書物を朗読するでもいい。わたしに話しかけるでもいい。とにかく、仙蔵の声を聞いていたい」
きっと、わたしの本心だったのだ。
暑苦しくない仙蔵の声は、わたしの心を小波へ誘う。眠りの海へ。深い海の中へ。
「そう言われるのは、悪い気はしないな」
仙蔵の嬉しそうな声音に、ふと頬が緩む。
なにを笑ってるんだと頬を抓られたけれど、なんと弱い力か。手加減しすぎだと、また可笑しくなる。
少しして、仙蔵の声が聞こえてきた。
忍術の知識がふわふわと浮いている。やはり書物を朗読してくれているらしい。術の名前、内容がばらばらになった文字で水面を泳いでいるのが見えた。
わたしは沈んでいく。
ふう、と深く息を吐いたのが最後だった。
唇になにか触れたのは、いつだったか。眠りに落ちてすぐか、あるいはしばらくあってからか。
それは確かに仙蔵の唇だった。
今日も過ちの花を摘む
(仲を深めれば深めるほど、相手を傷付けるのに)
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