5話



「お、少年。やっと出てきた」

澪音の病室を出て、待っていたのた先程の看護士さんだった。確か名前は咲希さんだった気がする。

「……どうも」
「澪音とはもういいのかい?」
「はい。……どうせ明日も来ますし。今日はあまり無理させたくないですから」
「……ふーん。じゃあこれから暇?」
「……まぁ」

これから帰ってもどうせやることなんてない。強いて言えば読書ぐらいか。まぁそれにしたって暇な時に読むものなんだから暇としか言えない。

「そりゃあよかった。んじゃあ、ちょっとついてきてくれるかい?」

僕の返事を待たずに背を向けて、歩き始める。その姿が見えなくならない内に、慌てて追い掛ける。
咲希さんは一度もこちらを振り向かずに歩く。階段を上り、屋上に続く踊り場までくる。

「よっ、と」

看護士さんは勢いを乗せてドアを押す。少し錆付いていたのか、ぎぎぎと音がするが開くことには成功する。そのまま――やはりこちらを向くことなく――屋上へと進む。
屋上の中心ぐらいまで進んだあたりで、やっとこちらに振り向く。

「さて、どこから話そうか」
「あ、あの……何の話をする気ですか……?」
「何のってそりゃあ澪音のだよ」
「澪音、のですか……」
「そ。桜井澪音のお話をしようじゃないか」


◇◆◇◆


桜井澪音。
僕は全くと言っていいほど、彼女の事を知らない。知っていることと言えば、僕と同じ年齢で記憶障害を持ち、足が少し不自由だって事ぐらいか。
だからこそ、僕は看護士さんから聞いた話に驚かずにはいられなかった。

「猫を助けた……」
「そ。あたしにもその状況を詳しく聞いてないから分からんけど」

それを聞いて、僕は脱力したようにフェンスに体を預ける。看護士さんは立って、腕のみをフェンスの上段に預け、体は外を向いている。要するに、僕は中を向いて座っており、看護士さんは外を向いて立っているのだ。

「澪音は……澪音はこの事を知ってるんですか?」
「……憶えてないだろうね。事故に合ったってのは知ってるだろうけど」
「そうですか……」
「それで協力してくれるかい、少年?」

看護士さんが言う協力とは、澪音の記憶を取り戻すのを手伝って欲しいとのことだった。記憶を取り戻すためにその事故の詳細を知って、キーワードとなる語を出して思い出させようと言うことらしい。

「僕には……僕には出来ないです」

自分のことで色々精一杯なのだ。それなのに、他人のことなんてできるわけない。

「そうか」
「けど……」
「けど?」
「だけど……澪音が思い出したいって言ったら協力したいです。それが澪音の願いなら協力してあげたいです」

僕にできることなんて少ないと思う。けれど、できることがあるなら協力してあげたい。何でそう思うのは分からないけど、そういう思いが確かに自分の中にある。

「……そっか。うん、あたしもその意見に賛成だよ」
「え?」
「この依頼というか頼みは元々、澪音の母親からの頼みなんだよ」

普通、こういうことは他人に言っちゃいけないんだけど、と続ける看護士さん。そんなんで大丈夫なのだろうか。

「親からしたら早く記憶が戻って欲しいんだろうね。……その気持ちはわからんでもないけど」

そりゃあそうだ。
自分の愛する娘が母親や父親などの肉親を憶えていないのだから。そんなことが起きたら、悲しむどころの話ではない。そんな現実が実際に今、澪音の家で起きている。

「思い出させようとすることは別に反対じゃない。けれど、十七、八の記憶が一気に全部思い出すとしたらどうなるかわかんないのよ。あたし達、医者の立場としてはね。んだけども家族の言葉を無視するわけにもいかんのよ」

どうしたもんかね、と首の後ろを掻く。
確かに、看護士さんが言うことは一理ある。しかし、大人にも大人の事情があるのだろう。家族の思いと医者の判断。二つを天秤にかけるのはきついのだろう。

「まぁ少年。頑張れ」
「……はぁ」
「何を、とは言わないけどね」



そう言って僕と看護士さんは別れた。
病院から自分の家までの帰り道。僕の頭に浮かんでいたのは、澪音のこと。今回看護士さんと話をして、多少なりと澪音のことをわかったと思う。

「それでも僕は……」

それでも僕は彼女に出来ることはあるのだろうか。こんな僕に何か出来るのだろうか。
そんな憂鬱な気持ちで家に辿り着く。

「……ただいま」
「おかえりなさーい」
「おかえり」

……ん?
なんかおかしくなかっただろうか?
普段この家には基本、僕か母さんしかいない。因みにに父さんは死んだ訳ではない。父さんは出張で単身、海外にいる。毎月、ちゃんと生活費が振込まれているので向こうで頑張っているのだろう。
では一体誰が来ているのだろう。そんな疑問を持ちながら、リビングに顔を出す。

「遅かったわね」
「み、瑞希!?」

リビングにいたのは母さんと幼なじみの杉浦瑞希だった。
瑞希とは先程も言った通り幼なじみで、家も隣だ。幼稚園から今の高校まで一緒と言う、かなりの腐れ縁だ。そんな彼女がどうして僕の家にいるのだろう。
その答えはすぐにでた。今の状況を見ればわかる。母さんと瑞希は夕飯を食べてるのだ。
たまに彼女はウチに夕飯を食べにくる。その理由は彼女の両親が忙しいから。基本お人好しの母さんは『瑞希ちゃん一人じゃ大変だろうからウチに来なさい』と言ったのだ。

「は、早くないか。まだ6時にもなってないよ」
「そう?まぁ、私が手伝ったからちょっと早いかも」

いつも8時ぐらいだから単純に考えても2時間は早い。それを『ちょっと早いかも』と言うのは正しいのだろうか。少なくとも、僕はそうは思わない。
しかし、そんなこと関係なく2人は食卓につく。

「……はぁ」
「何ため息吐いているのよ」
「いや……なんでもないよ」

先程まで、憂鬱になっていた僕がアホらしくなってきた。
その中でも、僕は澪音との約束はしっかり覚えていた。


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