7話 夢を見ていた。 自分が誰か分からず、暗い海の中に沈んでいく夢を。 右も左も分からず、さらには段々と、どっちが上でどっちが下かも分からないまま、沈んでいく。 それなのに全然苦しくない。 逆に気持ちは落ち着いている。 目を閉じれば、浮かぶ顔。 それは泣いている自分の顔。 だから、これを夢だと改めて気付く。 だってあの日、もう泣かないと決めたから。だから、泣くはずがないのだ。 笑っていると決めたのだ。周りを悲しませないと決めたから。自分のせいで周りを泣かしたくないから。 ◇◆◇◆ 「遅ーい!」 病室に入った途端、いきなり怒鳴られた。 言われたことからして、来る時間が遅かったのだろう。しかし、まだ午後の1時過ぎ。『遅い』とか言われる時間じゃないはず。 「時間指定なかったでしょ」 「それなら、来る時間言ってよ」 「何でだよ。来たんだから別にいいでしょ」 そう言いながら、荷物を下ろし近くにあった丸椅子に腰掛ける。 「こっちにも準備があるの!いつ来るか分かんなくて朝から準備しちゃったんだから」 「……なんかごめん」 取り敢えず謝っておいた。よく理由は分からないけど。 しかし、昨日と打って変わって元気そうな澪音。心配だったけど案外大丈夫そうだ。 「体、大丈夫なの?」 「うん。1日寝たら治ったみたい」 「それは良かった」 「……うん、昨日はありがと」 「どういたしまして」 僕は下ろしていた、荷物の中から小さな箱を取り出す。箱と言っても、よくドーナツ屋とかでもらうあの箱の小さいやつだ。 「なに、それ?」 「お見舞いの品だよ」 「ホント?!何が入ってるの?」 「一応、手作りプリンだよ。朝作ったから、あまり冷えてないかもしれないけど」 そう言いながら、箱の中からプリンを取り出す。 うーん……やっぱりまだ冷えてない。この状態であげるのは少しためらいがある。 こういう物をあげるときはやっぱり、最高の状態であげるのがいいよね。 「食べていい?」 「うーん、出来ればまだ冷やしたいんだよね」 「じゃ、冷やす?」 「どこで?」 澪音はベットから降りて、ある場所へ連れていく。連れていくって言っても結局は病室の中だけど。 澪音に連れていかれた場所には、小さいが確かに冷蔵庫があった。 「どうして冷蔵庫が……?」 「飲み物とかを冷やせる場所なの。ほら、下の売店とかで買って、ぬるくなったら嫌だよねって事で付いてるの。今じゃ、個人病室ならどこでも付いてるよ」 「へ〜。初めて聞いたよ」 「でしょ。ということでここなら冷やせるよね」 「うん。十分だよ。……そうだね、夕食の後とか食べなよ」 「うん、そうする」 澪音に代わって、僕は箱からプリンを取り出し、冷蔵庫に入れる。そして、再び丸椅子に座る。 「ホントにお菓子作りが趣味なんだね」 「うん。高1の時、知り合いのケーキ屋でバイトしてそっから。まぁ、元々甘い物好きだったし、料理も好きだったから」 「いいなーそういう趣味があるの」 わたしにもあったのかなー、と呟きながら笑う。 その姿を見て、一瞬胸が痛くなった。苦しいはずなのに、なんで笑顔でいられるんだ。僕が澪音の立場だったら、毎日毎日泣き崩れてるだろう。怖くて辛くて苦しくて泣いている。 そして、やっと瑞希が言ったことに納得がいく。本当に彼女にとって"笑顔"は仮面なんだろう。マイナスの感情を隠すための仮面。 「……澪音は」 「ん?」 「――澪音は記憶を取り戻したいの……?」 表情が曇る。 しかし、すぐに笑みを浮かべる。 「別にいいかなって思ってる」 「……」 「過去なんて結局、終わったことじゃん。だったら思い出す必要なんてないじゃん」 「……それが澪音の本音?」 「――わかんないよ。わたしには」 今まで、保ってきた笑顔を消して今にも泣きそうな表情になる。でも、それを懸命に我慢している。 「本当にわかんないよ」 「……」 「自分がどんな人間であったのかがわからないから、怖いんだよ」 それが辛い、と小さい声で呟く。 僕はずっと動けなかったし、声を発することも出来なかった。何を声かけていいのか、わからなかった。 「だからやっぱり思い出したくないってのもあるんだ。……だけど、本当の自分を知りたいって思ってる自分もいる」 「……」 「……だから、本当にわからないんだ。自分がどっちがいいなんて」 そうやってまた、澪音は笑う。また、自分の感情を隠して。自分の辛さを隠して。 「……そっか」 思い出さないなんて、世間的に見れば非常識だろう。しかし、彼女はその道を捨てられない。それは、元々の自分を知るのが怖いから。飛び込むための一歩が出ない。そのための後押しを誰かがしてあげないといけないんだろう。しかし、そんなこと僕にはできない。そんなことをする権利がない。 だからこそ一つ分かったことがある。 ――今の僕じゃ澪音を助けることができない。 ◇◆◇◆ 家に帰ると、再び瑞希がいた。 「次に会うのは学校じゃなかった?」 「それが、今日もウチの親は忙しいらしいのよ。よって今日も悠の家に世話になるわ」 「……そっか」 「どうした?何か浮かない顔してるけどさ」 「……いや、別になんでも「なくないよね」……はい」 昔からこうだ。瑞希には隠し事ができない。いつもいつも、こうやって静かに説き伏せられる。 「話してくれるよね」 「……」 「話さないなら、勝手に調べるけど?」 そうだった。瑞希は読書家でありながら、情報家でもあるのだ。独自の情報網を持ち、かなり広い範囲の情報を持つ。その為、表では文学少女と通っているが、裏では参謀少女として名が通っている。 「……分かったよ。話す」 「そうしてくれるとありがたいわ」 その日の内に僕は瑞希に澪音のことを話した。 |