心臓が痛いと、たつきはぎゅうと服の胸部を握りしめた。なんなのかまったくわからない力に当てられて、身体が震えて動くことさえ難しかった。インターハイが何だって言うんだろう。そんなことを考えた。あたしの力は、何の役にもたちやしない。
遠いビルの屋上で、あの化け物みたいな男が、少女らしき人と会話をしているようだった。遠目な所為で少女と断言していいのかは分からなかったけれど、どこかのマイクから音を拾っているのか、近くに落ちているラジオから彼らの会話を思しきものが聞こえてくるのを、たつきは聞かずには居られなかった。


『一子、君は君の中に巣喰う虚が、君に囁くのだといったね』
『それが、なにか?』
『君の目には幻術が聞いても、中に存在する虚の目にはそれが利かないから、それが幻術だと気付くのだと』
『…………そうだけど』
『ならば、そこに一瞬のロスができる。認識の齟齬により君の脳はほんの瞬時の混乱があり、そしてそれから動く。その時間の浪費は、君を殺すのに余りある時間だよ』

幻術って、虚って、知らない。そんなもの知らない。たつきの心臓の震えは収まらなかった。けれどもたつきだけではない。みんなみんなみんな、大切な友人たちが辛そうに泣きそうに死にそうになりながら、現実を忘れたいと耐えていた。

『今まで、恐れていたくせに?』
『宝玉と一体した今、何を恐れろというんだい?強すぎるというのも、考えものだね』

スピーカーからの声があまりに淡々としているのも、たつきは怖かった。彼らは怒っていない。泣いてもいない。感情が揺れてもいない。なのにこんなに、恐ろしい。こんなものと、一護は、関係があるのだろうか。冷や汗で寒かった。

『君のその力も、今の私に勝るものではないだろう』
『そんなの、戦ってみなくてはわか……っ』

グシャ。金属が壊れる音がして、音の方向に顔を向けるとそこには誰かの足によって踏みつぶされたラジオが無残に転がっていた。足から顔をあげていく。ひい、と啓吾の喉が鳴ったのが聞こえた。その原因は分かる。彼のラジオを軽々踏みつぶす脚力と、頭についた骨。そして何よりも、その脇腹に開いた大きな穴。彼も人間ではない。殺される。そう思ったのだ。

「何してんのさ」

その化け物、見た目は少年だった、は心底軽蔑しきった目でこちらを見ながらそう言った。じろじろと皆の顔を見ていく。

「早く逃げてくれない。なんのために、姉さんが藍染のこと足止めしてると思ってんの?」

何を言っているのか分からなかった。ザリ、と少年が一歩踏み出すと、身体が余計に強張った。逃げたいけれど動けないと、声を出していいたいのに、上手く出せない。自分の身体はもう、自分でコントロールができなくなっていた。その様子に、少年は怪訝そうな顔をしたあと、ああと納得していた。

「もしかして動けないワケ?だから弱っちいやつらってキライなんだよね」

仕方ないなあ。少年はそう言いながら、腰に刺していた剣に手を伸ばした。その行為に、たつきの中にあの、キツネ目の青年が返り討ちにされたシーンがありありと蘇ってきていた。飛び散る血潮。それをなんとも思わない化け物。
少年は躊躇もせずに剣を引き抜いた。「縊れ『蔦嬢』」そんな呟きが耳を掠める。瞬間、ごおうと風が吹いたあとに、少年はどこから見ても化け物の様相を露わしていた。
死にたくない。そう思うと、涙が勝手に零れ落ちる。触手のようなものが、少年の後ろでうねうねと存在を主張していた。その触手の一つが、たつきのほうに向かってきて、たつきの身体を持ちあげても、まったく動けやしなかった。
にゅるにゅるとした触手は、そこにいた全員を持ちあげる。

「な、なにをする!」

ドン小西のオッサンがムキになって両手に力を込めていたけれど、びくりともしなかった。そのかわりに軽蔑しきったような眼でオッサンを見ながら、少年はザッと地を蹴った。

ひゅん、と背筋が凍るのが分かった。空を飛んでいる。違う、空を走っているのだろうか。う普通ならば来れない高さに、心臓がぶるりと唸った。地面を蹴って、駆けだしたかに見えた少年は、二三歩の足音を立てた間に一気に空高くなっていた。そのまま障害物を真下にして、あたしでは絶対に走れやしないスピードで、どんどんとあの場所から離れていく。
ジェットコースターに乗っている感覚をより何倍も怖くしたようなものだったけれど、あの場所から遠のくにつれて、身体じゅうに血が巡って行くのが分かった。脳味噌の命令が神経を通り、指先までが自分のものとして動かせるように、戻ってきたのだ。

走っていた時間は本当に短かったけれども空座町の外れの公園までくると少年は地面に降り立った。そしてその触手から乱暴に皆を投げ捨てる。「痛!」啓吾の声が響いた。
なにするんだ、と誰かが言う。少年はまっすぐにあたしたちのほうを見ていた。その視線に、皆が言葉を詰まらせる。
少年は何も言わなかった。くるりと踵を返す。ザっと宙を蹴る足音がして、そしてすでに少年の姿は消えていた。

「なんなんだよ……」

啓吾が呟く。それを聞いて水色が言った。

「僕たち、あの少年に逃がしてもらったんだよ。わかんないの?」

逃がして貰った。その言葉に、たつきは血が通った掌で拳を作った。