「なあ、爺さんは医者なんだよな」

 焼きついて離れない夜の記憶が、頭の奥のほうでよみがえる。
 
「薬がほしいんだ。こわい夢を見なくなる薬」
「薬は趣味で作ってるだけなんだがネ。まあいい、それよりも坊主、いっちょまえに悪夢にうなされてるんか? キョンシーなのに?」
「俺じゃない。白桃ちゃんだ」

 少し躊躇いをおぼえたものの、俺は事の次第を仙人爺さんに話した。いつか辞書で勉強した諺、ワラにもすがるおもい、というやつかもしれない。
 話を聞き終えた仙人爺さんはどこか神妙な面持ちになって、しばらく黙って自らの立派な白髭を指先で撫ぜていた。

「そういう薬はあることはある。けれど、お嬢ちゃんには効かないだろうな」

 長考のわりに、それがはじめから決まっていた答えであるようにはっきりとした口調だった。
 先日、仙人爺さんが白桃ちゃんに発熱によく効く薬を処方したように、今回もそういった良薬を期待していた俺は思わず声を上げた。

「どうしてだ? だって、薬はあるんだろ? もしかしたら良くなるかもしれない」
「自らがかけた呪い、ってやつだからだ」

 俺の言葉を遮るように、仙人爺さんが告げる。

「坊主、呪いに治療薬なんてないんだ。呪いによる症状を改善する薬ならあるっちゃあるが……そんなものがあの娘に効くとは、ワタシには到底思えんヨ」
「……」
「前にも言ったが、ワタシはこの眼には無二の自信がある。あの店でお嬢ちゃんの姿をはじめて見た瞬間、ワタシはすぐにわかった。『この娘は深淵に半身を浸かってしまっている』、とな」

 ──呪い。
 ああ、そうだ。
 白桃ちゃんは呪いという罰を受けた。
 “俺”を作ったせいで。
 当時成人を迎えていたらしい肉体は、いまの幼い子どもの姿に。年を重ねてももう二度と成長しない、まるで標本のような体になってしまった。そして罰はそれにとどまらず、白桃ちゃんは《得体の知れないやつら》に命を狙われている。
 けれど、俺にはわからなかった。
 仙人爺さんの言う「自らがかけた呪い」の意味が。なぜ、白桃ちゃんが自分自身を呪わなければならないのか。

「……お嬢ちゃんが、ほんとうに神様だったならよかったのかもしれんな」

 仙人爺さんが、ぽつりとつぶやく。

「死者を、“限りなく生者”として蘇生させるほどのとくべつな力を持ちながら、けれどあの娘自身はごくありふれた人間。年相応──いや、ちょっと幼いくらいの、恋に恋する乙女ってやつだネ。それがいけなかった」
「……どういう意味だ?」

 首をかしげることすら忘れ、茫然と訊ねる。仙人爺さんは、けれどそんな俺を横目に見て、ただ笑うだけだった。

「意味なんて、そんなことをおまえは考えなくていい。おまえはそのまま、あの娘の傍に居続けろ。それがあの娘にとって良くも悪くも唯一の薬だ。……キョンシー坊主よ、そのために再びおまえは生まれてきたんだろ?」

 いつもの豪快な笑いではなく、まるで幼子でも相手にしているかのようにやさしい面差しだった。俺は仙人爺さんのその表情に、「やさしさ」よりも「かなしさ」を、少しだけ強く感じた。どうしてなのかはわからない。わからないまま、幼子のように俺は仙人爺さんの言葉に頷いた。

 俺の存在意義は他でもない白桃ちゃんのためにある。
 なにもわからなくてもそれだけは、それだけが、俺のすべてだ。


 ようかんが入った紙袋を片手に提げ、ぶらぶらとさせながら海沿いの道を歩く。夕暮れが近づいて、影が濃い。遠くの海面から風にのって湿った潮の匂いが辺りに漂う。
 結局期待した良薬はもらえずじまいだったと、落胆しながらの帰路だった。でも、美味い土産をもらったし(仙人爺さん曰く、こっちは猛毒は入ってないから安心して食え、とのこと)、白桃ちゃんは笑ってくれるだろう、きっと。

 ──ラウ。

 背後に、強く気配を感じた。
 温度のない風が通り抜け、周囲の音が一切失くなるような感覚。
 素早く振り返ると、そこにいたのは、

「ニャン」

 一匹の猫だった。
 白銀の体毛に黒い縞模様が複雑に入っている。こちらを見据える双眸の薄い青は、まるで月のようだった。
 まだ子どもなのだろうか、小さな猫だ。
 俺は、迷いなくこちらへ近づいてきたそいつの前脚の下に手を差し入れ、抱き上げてやる。

「…………俺は、おまえを知っている?」

 言葉が口を衝いて出た。
 知っている、そう感じてやまない。
 そのまなざしを。
 夜の底で見上げた空に浮かぶ、あの月の光のような。
 懐かしい。
 知っている。
 この死んだ肉体に魂が宿っているのなら、忘れるはずがない。
 俺の《かみさま》を。

 ──ラウ。

 目の前の子猫がたしかに俺を名を呼んだ。
 次の瞬間、俺の手に抱かれていた子猫がパリン、と音を立てて、まるで硝子が砕けるように粉々に割れた。
 白銀の破片がその断面を光らせながら宙へと浮ぶ。周囲からどこからともなく新たな破片を集めながら、次第に“なにか”を形作っていく。
 感じるこの気配を、俺は知っている。
 白桃ちゃんの命を狙い、白桃ちゃんの所有物である俺を破壊しようとする影ども──《得体の知れないやつら》。
 けれど、果たして俺の眼前に現れたその姿は、今までに何度と見てきた黒い影などではなかった。

「ラウ」

 音もなくその立派な肢をこちらへ進ませて、一頭の白虎が俺に告げる。

「つれもどしにきた」


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