三
――これは、罪だ。
そのときだった。
いつか耳にした恐ろしい声が、警鐘のように頭の奥で響いたのだ。
何者かが、繰り返し私に告げる。
――これは、罪だ。
――犯してしまったが最後、二度と人間には戻れない。
――おまえの魂は、死後どこにも還ることもできずに、虚無の闇をさまよい続ける。
――永遠に……。
「煩い」
頭の奥が、しんと静かになる。
低く呟いた私の声は、まるで自分のものではないかのようにひどく化物じみていた。だが、そんな些末なことを気にかける余裕はない。
禁術はいよいよ最終段階に入っていた。
完成した《八卦の札》を、彼の体内へ埋め込む。
通常のキョンシーのように頭に貼り付けるのではいけない。肉体の内側に――心臓から血潮を全身に巡らせるように、札の効力を隅々までゆき渡らせるために。
(この期に及んで迷いなどあるものか)
鈍く光る小刀を彼の肉体へとあてがう。
だが、手に力を込めるその刹那、ふっと胸のうちを冷気が吹き抜けた。
(……私、)
どうしてこんなことをしているのだろう?
我に返った途端、一気に体から熱が失われた。眼前の光景に息を呑む。死んだ彼の肉体と、自らの手が握る刃。
私はなにをしようとしている?
(私は、私はただ、あなたといたいだけなのに)
あなたの名前を呼んで、髪をなでて、虎が住まう傷だらけの背に頬ずりをして。
私は、あなたに恋焦がれただけなのに。
(……ああ、そうか)
そのとき唐突に、理解した。
幼い頃、母が私を《八卦》の力について教え説くこともせず、無知のままに隔離していた真意を。
私は、あのまま母の傀儡として一生離れに閉じ込められているべきだったのだ。決して檻の外に出てはならなかった。
なにせ私は、“とくべつ”だから。
恋なんて人間の真似事をしたから。
だから、とうとう“ほんとうの化物”に成り果ててしまった。
「……ごめんなさい」
震える手が、色を失った皮膚へ刃を入れた。
腐敗が不自然に止められていたおかげで、まるでその肉体はいまもなお生き続けているかのようだった。ぷつりと肉を裂く感覚が指先から伝わって、私は情けなく泣いた。
ごめんなさい。
ごめんね、皓くん。
私は、生前あなたが思い描いたような、聡明で美しい人間なんかじゃない。
己の欲望のためならばどんなことでもする――いとしいひとの魂すら自らのものにしようとする、恐ろしく醜悪な、化物だ。
歪む視界のなかで、私に切り裂かれるかつての恋人は、美しかった。
いつかふたりで見上げた明月よりも。
きっとこの世に存在する、なによりも。
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