熊猫飯店のふたり
出前の帰り、見つけた花を指先で弄びながら、店の戸を開けた。カラカラン、と耳に馴染んだベルが鳴る。
「おかえりなさい」
客足の引いたガランとした店内。テーブルを拭く手を止めた白桃ちゃんが、顔を上げた。
「ただいま。白桃ちゃん、おみやげ」
「なあに?」
空のおかもちを下ろすのもそこそこに、白桃ちゃんの瞳の色によく似た薄紫の小さな花を差し出すと、白桃ちゃんは表情を少しだけほころばせた。きれいね、と風鈴の音のような声で言う。
「この花はどうしたの?」
「道端に咲いてたんだ」
「そう。きれいだけど、勝手にむしっちゃだめよ」
「そうか。ごめんなさい」
「でも、ありがとう」
白桃ちゃんは厨房へ引っ込むと、コップに水を注いでそこに花を挿し、カウンターに飾った。「招き熊猫」の置物のとなりに。
店の壁掛け時計が三回鳴った。それを合図に、お昼ご飯にしましょう、と白桃ちゃんが厨房から俺に呼びかけた。
街の片隅にひっそりと佇む小さな中華料理店――熊猫飯店は、来客がだいたい決まっている。
朝と夕方の決まった時間にやってくる仙人みたいな爺さん、昼飯時に訪れる二人組のサラリーマン、チェックのシャツに分厚い眼鏡の三人組の男子大学生。夜にはガタイのいいサングラスの兄ちゃんと、仲のいい老夫婦。不定期でたまに来店するのが若い男女の恋人。
そしてあらかじめ決められているように、午後三時には誰もこない。ので、午後三時は、白桃ちゃんと俺の昼休みとなる。
カウンター席が六つ、四人席が二つ、二人席が一つのこんじまりとした、でも晴れた日には陽が差し込む店内は、客がいなくてガランとしていても、どこかあたたかい。
「ラウ」
昼休みは、店の一番奥の二人席で過ごす。
熊猫飯店看板飲茶の熊猫まんをほおばりつつ、ラウ、と白桃ちゃんが俺を呼ぶ。俺は桃まんをかじりながらそちらを見る。すうっと細い指先が伸びてきて、俺の前髪をひと房つまんだ。
「髪がのびてきたわね」
指先はすぐに離れてく。
「ああ、気づかなかった」
「夜にお風呂で切ってあげる」
「うん」
「……ラウ」
「ん?」
また一口桃まんをかじり、もぐもぐさせていると、白桃ちゃんがこちらをじっと見つめてくる。薄紫色の瞳が今日もきれいだ。
「なに?」
「帰り道に《やつら》と戦ったの?」
《やつら》。白桃ちゃんの言葉に、ああ、と出前の帰り道でのことを思い返す。
「うん。大丈夫、ぜんぶやっつけたから」
「そう」
そう、と言って、白桃ちゃんの顔に少し憂いが帯びる。真っ白い肌にぽつんと主張する目元のホクロが、それをより際立たせて見せる。
その顔を、俺はときどき目にする。そして、白桃ちゃんのそういう顔を見るたび俺は不思議に思うのだった。俺を作ったのは白桃ちゃんで、俺の存在意義は、他でもない白桃ちゃんのためにあるのに、と。
俺は桃まんをすべて口のなかに入れ、空いた手で白桃ちゃんの髪をぽんとなでた。
「大丈夫。俺はなんともない」
「……」
「痛くも痒くもない。ほんとに。ちっとも、まったく」
「そう……」
クドいくらいに強調する俺に対して、白桃ちゃんがほほえみを浮かべた。笑った顔を見て、俺はようやく安心したのだった。
壁掛け時計が四回鳴る。早ければそろそろ仙人爺さんがやってくる時間だ。夕方のメニューは酸辣湯か、それとも麻婆豆腐か。
「ラウ、準備を手伝ってくれる」
「了解」
ラウ。白桃ちゃんにもらった俺の名前だ。
店番もする、出前にも行くし、桃まんも食うし髪も伸びる。けれど俺は人間じゃない。
俺は過去に一度死に、今は白桃ちゃんを守るために“生かされている”存在だ。
「ラウ、屈んで」
「ん? はい」
目線を白桃ちゃんに合わせると、白桃ちゃんが俺にくちづけた。甘い桃の香りがふわりと広がる。
俺は、白桃ちゃん専用のキョンシーだ。そして白桃ちゃんの、“恋人”。
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