起
水の音、それに声が聞こえる。
なつかしい声だ。それが俺を呼んでいるのだ、ずっと。
もうずっと長い間、暗い場所にいたような気がする。だから、そちらへ行かなければ、と思った。声のするほうへ、深い水底から明るい水面へ上がっていくように。
――行かなければ。
まなうらに光を感じる。
薄く目を開けると、ぼんやりとした視界にうつる影があった。
「ニーハオ」
霞みがかった視界が徐々に晴れていく。影はどうやら人であることがわかったとき、ニーハオ、という声が耳に届いた。
甘い香りがふわりと漂い、誰かが、俺の顔を覗き込む。
「気分はどう? 私の声がきこえる?」
頭が重たいようなひどく眠たいような意識のなかで、けれど声ははっきりと聞こえるので頷くと、俺を見下ろす誰かが、俺に手を差しのべてくる。
「さわって」
言われるままに、自分の腕をゆっくりと動かす。目の前の手――とても小さな手に、俺は自分の手を重ねた。
小さな手は、俺の手をやさしく包み込むようにしっかりと握った。
「私の名前は白桃。あなたの主」
指を絡めて、手をつなぐ。
あたたかい。なつかしい感触がした。
「……あるじ……?」
「そうよ。あなたは、今日から私のために生きて、そして私とともに死ぬの」
手を握ったまま、誰かは俺にそっとくちづけた。甘い香りがいっそう強くなる。果実のようなそれは、とても心地いいものだった。
この香り、なつかしいな。なんだっけ――ああ、そうだ。桃の香りだ。幼い頃に食べた、あの甘くとろけるような……。
くちびるが離れると、俺の視界は鮮明に色をもっていた。
「あなたは、私のキョンシー。私の恋人。あなたの名前をおしえてあげる。あなたの名前は――」
目の前の少女が、花のようにうつくしくほほえんだ。
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